アリストテレス『政治学』を囓る

Politics (Loeb Classical Library)メルマガのほうでパドヴァのマルシリウスの政治論を読んでいるのに関連して、アリストテレス『政治学』(いつもながらのLoeb版:Politics (Loeb Classical Library))をゆっくりと見ているところ。まだ第二書まで。第一書には有名な「人間はポリス的動物」という一節もあるわけだけれど、論じられているのは主に経済問題(家政問題)で、奴隷を肯定する議論とかもあるし、また財産などの共有(いわば原始的な共産主義だが)がいろいろ問題含みであることなどが論じられていたりする。一般にアリストテレスの政治思想が保守的と括られる所以なのだけれど、一方でアリストテレスは、共有制にも私有制にもそれぞれのメリットがあることを示し、両方のメリットを汲み上げるような体制を推奨しようとする。財を所有することは財をめぐる諍いを低減させるし、利己的にならず「友人」との関係に役立てるべく一部の財を共有へと供することは人間的な快をもたらす、と。そうした制度の実践を、徳の教育と立法でもって実現するのが理想なのだというわけだ。このアリストテレス的理想の真逆の例が、とても卑近なところにあり、個人的にはとても腑に落ちる気がする。つまり、親戚づきあいや友人づきあいとかが嫌で、最後の砦は金だとして半ば守銭奴的なケチ道(蓄財ではなしに)に邁進した人物を、個人的によく知っている(今は呆けてしまった老親だ……)のだが、呆けてしまってからは自分の預金も下ろせず、かといって人付き合いも失ってしまっていて、見事に自助の手段を失っているのだ。そういうのを見るにつけ、利己主義的デメリットというものがヴィヴィッドに感じられる……。これはもはや単に個人の問題ではない。そういう動きが蔓延する社会はやはりどこか破綻している……。

アリストテレスはまた、社会というものは異質な人々によって構成されてこそのものであり、あまりに均質な人々によって構成されるのでは社会として成り立たないというようなことも述べている。均質・異質のいかなる過剰さも排するというのが、ここでもアリストテレス的な中庸の在り方なのだろうけれども、いずれにしても差異へと開かれる契機が随所に散りばめられているあたりに、また別の読み方の可能性がほの見えているような気がしなくもない……。