【要約】アリストテレスの音楽教育論 4

アリストテレスの音楽教育は、あくまで自己修練的な意味合いが強く、競技会などに出ることも含め、演奏の専門家となることを例外扱いし、むしろそれを「自由人には相応しくない」として蔑視する姿勢を見せている(1341b.11)。専門家による演奏は、聴衆の喜びのためという「低い」目的に従事するものだからだというのがその理由だ。続いて話は、ではその対極にあるものとしての音楽教育では、どのような旋法やリズムを教えるのがよいのか、という問題へと進んでいく。アリストテレスは、詳しいことは「当代の」音楽家や、音楽教育に造詣の深い哲学者らに聞くのがよいとし、自分が示すのはとりあえずの概論という立場を取っている。

これはほかの哲学者による分類だというが、旋律は「倫理的なもの」「活動的なもの」「熱狂的なもの」が区分されている(1341b.33)。その上で、教育に関しては、演奏の実践には「倫理的なもの」を、他者の演奏の鑑賞目的には他の二つを多用するのがよいとしている(1342a.2)。こうした旋律の違いは、二つの社会階級の違いに対応するとも見なされている。一方は教育のある自由人、もう一方は職人や労働者などからなる下層の人々の階級で、それぞれの性質に応じて快を感じるとされている。この後者は激しい響きでイレギュラーな(即興的な?)旋律を好むとされる。

さて、教育のためには「倫理的な旋律」を、ということなのだが、旋法としてはドリアがそれに当たる(1342a.30)。けれども他の旋法も随時取り入れていく必要があるという。アリストテレスは、プラトンの『国家』で、ソクラテスがドリア旋法のほかフリギア旋法しか認めていないことに批判的だ。先の楽器の例での笛の場合と同様、フリギア旋法は高揚感・情感をかき立てるからだとしている(1342a.33)。どのような旋律が適当かは年齢にも依るとされ、高齢者に適した弛緩的な旋律をソクラテスが認めていないことにも一部に批判がある、とも述べている(1342b.20)。年齢別で考えるなら、若い児童には、端正で教育的であるという意味で、リディア旋法も適しているとされる(1342b.30)。リズムに関しての話はとくに取り上げていないように思えるのだけれど、そのあたりは推して知るべしということなのか……。

以上、『政治学』第八巻末尾の大まかな要約ということでまとめたが、先の笛をめぐる歴史的記述や、上のフリギア旋法の高揚感を煽る特徴についての事例など(ディオニュソス讃歌とか)、各種のディテールこそが実はとても面白い気がする。そのあたりはまた別の機会に振り返ることにしよう。また、教育論全般に関しても、アリストテレスのほかの著作からの議論も含めて検討する必要がありそう。