シャルル・クロと知覚論

シャルル・クロ 詩人にして科学者―詩・蓄音機・色彩写真少し前に取り上げたシャルル・クロ(そのときはクロスという表記にしたが、これは誤り。正しい読みはクロとのことなので、訂正しお詫び申し上げる)。邦語での唯一の研究書というが出ていると知り、早速見てみることにした。福田裕大『シャルル・クロ–詩人にして科学者―詩・蓄音機・色彩写真』(水声社、2014)。シャルル・クロの詩人としての側面と、科学者としての側面とを、立体的に浮かび上がらせる試み。とくに科学者としての側面については、各種の技術史的なクリシェに絡め取られたクロの固定的イメージを越えて、その実像に迫ろうとしている。クロの科学研究として同書でとくに扱われるのは二大主要業績とされている色彩写真と蓄音機。クロの研究は全体的に理論家としての側面が強く、いずれも実際の機器の開発に至っているわけではないというが、同書を読む限り、そこには視覚・聴覚の内的な機能面を要素に分解してまた組み立て直すという、科学本来の(こう言って良ければデジタル指向な)方法論のある種の先鋭化が見られるようにも思われる。著者はというと、そこにベースとして、特徴的な知覚論の存在を見いだしている。つまりクロにとってのそうした研究は単なる技術開発ではなく、もっと奥深いところで、知覚そのものの探求に結びついているというのだ。「知覚器官の実際の組成ではなく、それらが駆動させている機能に目を向け、このはたらきを再現しうる一個の力学的モデルを構築することによって、曰くそれを「演繹的に」検証しようとした」(p. 245)。

機能としての知覚。なるほど、これはとても興味深い視点だ。色彩写真でも、当初クロは、今風のカラー写真ではなく、なんらかの装置を用いて色彩を再現するという方法を考えていたのだという。三原色へと色彩を一度分解して、それを再構成できるのであれば、そこに装置が介在していても構わない、ということのようで、つまりクロが模索しようとしていたのは、視覚が認識する色彩のプロセス全体であり、開発の対象もそうした認識プロセスに組み込まれるシステムであればそれでよかったのだ。蓄音機の発想についても同様で、いったんなんらかの痕跡に置換された音を、その痕跡をもとに再現するという一連のプロセス(さらには最初期のピアノ演奏の自動記録装置にも同じ発想が見られるという)は、聴覚機能のまさしく外在化で、聴覚とその記録・再生装置とがシステムをなすような技術が模索されていたのだ、と。前の『ル・モンド・ディプロマティック』紙の記事で取り上げられていた惑星通信論はこの論考では取り上げられていないのだが、クロの全集も最近入手したので、そのうちそちらについても読んでみて報告しよう。