哲学者たちの肖像 – 火かき棒事件

ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎 (ちくま学芸文庫)単行本刊行時からその長いタイトルが気になっていたものの、タイミングが合わずに未読だったD. エドモンズ&J. エーディナウ『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎 (ちくま学芸文庫)』(二木麻里訳、筑摩書房、2016)が、文庫入りしたということで読んでみた。空き時間で少しづつ読んで、やっと読了。1946年に、ポパーとウィトゲンシュタインがケンブリッジでの講演会で反目し合ったという「火かき棒事件」に、とことん迫った一冊。数学ものなどでよくある(○○予想がどう証明されたかとか)ノンフィクション的手法が、ここでは哲学をめぐるエピソードに応用されて、実に豊かな評伝的読み物に結実している。中心となる反目のエピソードは、ポパー本人の手記と、ウィトゲンシュタインの取り巻きの証言が食い違っていて、すでにしてミステリアス。その真相に迫ることを軸に、両者の出自、時代背景、それぞれの人物像、交友関係なども絡めて、その反目の素地などが実に立体的に浮かび上がる。これは見事。まさに活写と言って差し支えない。事件そのものの真相がどうだったのかは、もちろん推測するしかないわけなのだが、その推測内容はそうした様々な背景のおかげで、通俗的な理解よりもはるかにセンシブルなものになっていく。というか、そうした圧倒的な背景・ディテールを前にすると、当初に抱いていたミステリアス感が弱まり、それ自体どうでもよくなるとまでは言わないものの、両者の屹立した個性の前では影が薄くなってしまう。それほどまでに読ませる著作だということだろう。こういうジャーナリスティックなアプローチは、哲学分野に関する限りあまり多いとは言えない印象だけれども、もっとたくさんあってよいように思う。