文法と哲学

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)事前の予想通りというべきか、これはまた実に刺激的な一冊。國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)』(医学書院、2017)。表題にある中動態とは、一般的な能動態・受動態のほかに、古典ギリシア語などにある第三の態とされるもの。再帰的な動作や、そうした動作の結果もたらされた状態などを表すとされるのだけれど(同書では本来の意味の再構成・解釈がほどこされる)、これをまずは言語的に、次いで今度は哲学的に再考しようという一冊。言語的な議論と哲学的な議論がサンドイッチ的に(というか、どちらかといえば豚肉と白菜の挟み煮的に?)登場する面白い構成。まずは言語的な議論の部分がとても面白い。

今ならば能動態・受動態が対立するものとして示されるが、本来は能動態に対立するものは中動態ではなかったかという仮説を紹介している。米国の文法学者ポール・ケント・アンダーセンの説(古典ギリシア語の動詞活用は、能動態と中動態しかないという説)、言語学者ラトガー・アランの中動態の意味論(中動態は主語の被作用性を表すとする説)、そして大御所エミール・バンヴェニストによるインド・ヨーロッパ語族全体にわたる説(祖語においては中動態しかなかったかも、という仮説)、さらには日本の英文学者、細江逸記の文法論(実は日本語にも中動態的表現があるという話)などを援用して、中動態が全体の一種の古形であった可能性を示している。インド・ヨーロッパ語族の祖語(共通基語)の話などは、同書も述べているように憶測という域を出ないわけだけれど、少なくとも中動態的な表現の痕跡が現代語にも残っている(と見ることができる)のでは、というあたりは興味深いところだ。また、著者も言うように、バンヴェニスト(本書で最初に登場したときには、ちょっといまさら感も感じだが)の様々な着想の掘り起こし・掘り返しという作業は確かにやりがいのありそうな領域ではある。

さて、哲学的議論のほうは、この中動態と自由意志をめぐる問題が関連付けられて、そちらも面白い議論が展開している。能動・受動と意志の有無の問題は、必ずしも重なっていないとされ、そうした能動・受動の外側に広がるものを中動態という観念で手当できないか、という問いが発される。取り上げられるのは、「ギリシアには意志というカテゴリーは存在しない」というギリシア史家ヴェルナンによる示唆や、言語と思考との関係をめぐるバンヴェニストとデリダの対立についての再考、アーレントにおける意志論の陥穽(非自発的な同意という問題)、ハイデガーの意志批判とドゥルーズの「出来事」論、そしてスピノザの汎神論的世界観が、いわば中動態だけがある世界ではないかという指摘などなど。それら論考のいずれも、中動態的な考え方による批判もしくは再評価に貫かれている。

文法が哲学的思想の枠組みに大きく影響しているという話は昔からあり、個人的にも学部生時代に受けた故・西江雅之氏の言語人類学の講義などが思い出されるが(西欧の存在論がbe動詞の枠組みに大きく影響されているという話など)、ここでは中動態が一種の被抑圧形態として示され、それが能動・受動の区別に収まりきらない残余、ひいては意志・強要の区別の外側を成すものとして引き合いに出されている。なんとも示唆的だ。ほかにも、細かい話になるけれど、アリストテレスの10のカテゴリーが、ギリシア語の基本的カテゴリーを反映したものだという話(バンヴェニスト)や、ストア派の出来事の理論の背景に動詞とその活用の重視があり、一方のエピクロス派が原子論と「傾き」の議論を展開した背景には名詞の格変化の重視があったという話(ドゥルーズ)なども言及されている。ストア派にならって動詞を礼讃するドゥルーズにしてからが、人称も時制も態もない「フランス語の不定法」にもとづいている、という指摘もある(ギリシア語の不定法には時制や態がある)。これらは改めて考えさせられる諸点。文法と哲学の密接な関係というのは、もっと前景化されてしかるべきなのかもしれない。