環境哲学の可能性?

複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学篠原雅武『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(以文社、2017)を読み始めたところ。まだざっと全体の三分の一ほど。「対象指向存在論(Object Oriented Onthology)」に与するティモシー・モートンなる論者の議論を、まとめて紹介した一冊。副題の「人間ならざるものの環境哲学」という部分に惹かれて、モートンに関する予備知識がないまま読み始めたのだけれど、要点がわしづかみにできるような感触があって、全体的によい入門書になっている気がする。環境というものを、いきなりの自然環境のように大上段に構えたりせず、文字通り人の周囲のミニマルな状況から捉えていこうとするアプローチのようだ。すると当然のように、その環境は人工的な環境を含まざるをえない。かくしてそうした人工的環境を「読む」というかたちで探求は進められるらしい。イデオロギー的なエコロジーとはまったく別物だし、一方で人間の優位性を弱めるかたちで「モノ」の世界を考える、ほかの思弁的実在論の立場とも微妙に異なっている印象を受ける。もっとも、今のところモートンの元の著書はことごとく未読なので、果たして本当にそうなのかどうかは不詳だが……(苦笑)。

モートンという人は、どうやら文学畑の出身で(イギリス・ロマン主義研究?)、そこでのアプローチ(こちらのサイトを参照)は、思想的な想像における商品と比喩的言語のインタラクションの研究が出発点のようだ。外と内(外的空間と内的空間)の二元論を、安易に融合させようとするのではなく、両者の分割の部分的な崩れをもとに、「詩的に」考察しようとしている、ということか。これはそのまま人をとりまくミクロな環境についての読みへと敷衍されていく。人間的環境と自然的環境の二元論を、ほつれを通じて考察する(?)……。これを「アンビエント詩学」と称するのだという。うーむ、ここでもまた詩学が問題になっているわけか……。あらゆる思想が社会の行く先をなんらかの形で先取りして反映しているのだとするなら、デリダ的な「脱構築」よりもはるかに穏やかなスタンスだというその謳いは、一体どのような未来を私たちに告げているのか?著書の邦訳の刊行が待たれる。