プロティノスのディアレクティケー論 – 4

Traite 20 Qu'est-ce Que La Dialectique? (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)ジャン=バティスト・グリナによるプロティノスの第20論文への註解本。前半部分ではディアレクティケーをメソッドとして感性から知性へ(第一段階)、知性から究極の善へ(第二段階)と向かう候補者として、音楽愛好家、恋する者、哲学者を挙げ、それぞれについての解説を、プラトンの著作全体を参照しながら検討していた。次に後半部分(本文の四節、五節、六節)に入ると、いよいよディアレクティケーという方法論の中味についての検証となる。そもそもディアレクティケーとは何かという設問(第四節冒頭)に対して、プロティノスはまず、「それぞれの事物について、それそれが何であるか、他の事物とどう違うか、それが含まれる、あるいはそれぞれが含まれるそうした他の事物との共通項は何か、それが存在するなら、それは何か、存在するもの、存在しないものがどれだけあるのかを、理性的に(ロゴスによって)言う能力(ἕξις:ヘクシス)である」と答えている。これをめぐっていくつもの興味深い指摘がなされていく。

たとえばその「ヘクシス(訓練で身についた能力)」の問題。ディアレクティケーをヘクシスとする議論はプラトンの著作そのものにはないといい、むしろアリストテレスやストア派のほうに多数散見されるという。アリストテレスはそれを論証能力もしくは徳としての学知と定義し、ストア派は技法、学術と定義している、と。プロティノスの使うヘクシスの概念がそれらの定義と一致するかは異論もあるところらしい。グリナは少なくとも、プロティノスの本文のほかの箇所を参照しながら、それが「各種の操作をする、修得された能力」と規定できることを主張している。面白いのは、シンプリキオスが述べていることだというが、アリストテレスにおけるἕξιςとδιάθεσις(能力)の区別を、ストア派が後者をより安定的なものと取り、逆転させているという話。

プロティノスはまた、ディアレクティケーは対話であるとも述べているというが、ここにも問題があり、ディアレクティケーが拠り所とするロゴスは、あらゆる推論・言語形式(外的な発話と内的な発話を含む)を言うのか、それとも純然たる対話を指すのかが問われなくてはならない。グリナはここでも、もとのソースとなった『国家』を参照し、プロティノスの言う「ロゴス」の意味が「推論」に近いことを論証してみせている。また続く問題として、そのディアレクティケーの能力が行いうる各種の操作が取り上げられている。その操作とは、上のプロティノスの定義にあるような、「それぞれの事物とは何であるか」「他の事物とどう違うか」「存在するのなら、それは何か」「存在するもの、しないものがどれだけあるのか」という四つの点に関わるものであるとし、ディアレクティケーが分割・統合のほか、存在論的な解釈から成るということを、やはりプロティノスが参照しているであろうプラトンの著作の箇所から類推してみせている。

さらにまた大きな問題として取り上げられているのが、その対象についてだ。ディアレクティケーが対話であることからプロティノスは、それが「善についての対話であり、善でないものについての対話でもあり、善に従属するもの、その反対物に従属するものについての対話でもある」と述べている。しかしこの反対物をも対象にするという文言は、ベースとされる『国家』の本文への重大な変更を意味してもいる、という。つまり、イデアとしての「善」でない、それに従属するものをも対話の対象にするということは、感覚的なものをも対象にするとうことになって、それまでのディアレクティケーの定義に反するのではないか、あるいは善の反対物、すなわち悪をも扱うことになってしまうのではないか、というわけだ。けれどもプロティノスの意図はそこにはない、とグリナはコメントする。結局、あらゆる学知とは対立するもの同士についての学知なのであるから、善について問うなら善以外のもの、すなわち悪についても問わずにはいられない。だが、だからといってディアレクティケーの対象が感覚的なものにまで及ぶということにはならない。ディアレクティケーは感覚的なもののみならず、知的なものをも超越することを究極の目的としているのだからだ。また、そもそも悪は知的なものでも、感覚的なものでもない。したがって悪そのものを問うことにもならない。ディアレクティケーが仮に感覚的なものに及ぶことがあるとしても、それはあくまで偶有的・付随的なことにすぎない……。こうしてプロティノスの議論(とグリナの註解)は、次に論理学との関係性へと向かっていく。