言語への自然主義的アプローチ

生成文法理論の哲学的意義: 言語の内在的・自然主義的アプローチ前回取り上げたジュリアンの著作は、洋の東西の間で、内面的な深化と外面的な拡充との間で対話が開かれる可能性を示唆していたわけだが、ことこれが同じ西欧思想的な土壌の上に立つと、なにやら様相がひどく歪んでしまうように思われる。その実例を感じさせてくれるのが、阿部潤『生成文法理論の哲学的意義: 言語の内在的・自然主義的アプローチ』(開拓社、2017)。チョムスキーの生成文法の背景をなす哲学的な立場が、パットナムやクワインなどの言語哲学とどのように齟齬をきたしているか、それらがどのようにどこか的はずれな批判をしているのかをまとめた一冊。個人的にはなかなか興味深い。というのも、チョムスキーが内的言語へ、内面化された無意識的な規則(言語能力)へと向かうのに対して、たとえばパットナムは、外界の対象物との関係性を抜きにしては意味論を考察しえないといった外在的な言語観に立ち続け、結果として両者の立場はたがいに相容れないかたちで離反してしまうからだ。言語という名で呼んでいるだけで両者の対象とするものは大きく異なり(言語能力と実体としての言語)、そのあたりの意味の違いが、相互の対話にある種の阻害をもたらしているように思える。ほかの自然科学では認められるアプローチが、なぜ言語には認められないのかとチョムスキーは述べ、クワインなどは言語の規則は、外在的な言語行動そのものに見いだされるのでなければならないと譲らず、両者は頑なに平行線を辿る。著者はもちろん生成文法擁護派なのだが、確かに引用されている議論を見る限りにおいては、それら言語哲学側からは中立的に見ても少々納得しがたい議論をふっかけているようにも見える。こうした相互の不理解は、ときに反論のための反論に陥っている感もなきにしもあらずで、相容れないスタンスから対話を引き出すことの難しさを痛感させもするが、一方でそうしたドグマ的な反論を排することは可能なのか、可能であればそれはいかにして、といった問題が改めて検討されなくてはならない、と改めて思う。