ある種の素朴さは強みとなりうるか

nyx(ニュクス) 第4号夏頃に出たnyx(ニュクス) 第4号』(第一特集「開かれたスコラ哲学」第二特集「分析系政治哲学とその対抗者たち」、堀之内出版、2017)に、やっと眼を通すことができた。まず第一特集で言うところの「開かれた」という表現が、何を指して扱われているのかが気になったのだが、ある程度予想通りというべきか、思想史研究のスコープとしてスコラ哲学を視野に収めるということを、「開く・開かれうる」と捉えるスタンスの論考がほとんどで、史的研究的には意味があるとしても、哲学的営為として現代の諸問題によりダイレクトに結びつく話があまりなされていないのが多少残念な気もした。でも、そういう論点を提供しているものとして、特集の末尾をかざる二篇がある。山本芳久「マッキンタイアの「トマス的実在論」」(pp.156-166)と、そのマッキンタイアによる「自らの課題に呼び戻される哲学」(野邊晴陽訳、pp.168-186)だ。

アラスデア・マッキンタイアはコミュニタリアンであるとともに、倫理学などを研究する哲学者とのこと。まず山本氏の論文は、ヨハネ・パウロ二世の回勅『信仰と理性』をめぐるマッキンタイアの議論を取り上げている。マッキンタイアは、回勅がトマス的実在論(諸事物の秩序は人間精神から独立して存在するという立場)に立脚していること、その一方で哲学固有の問題について立場を取ることはしないと述べていることを、矛盾もしくは両義性として示すのだという。山本氏はこれに対して、トマス的実在論が単なる学説にとどまらず、人が生の意味を探求できるようにするための前提をなしていると捉え、専門家のみならず一般人をも哲学的考察へと開く条件であると説く(唯名論のようなスタンスでは、人間存在を不条理へと追い込むだけになってしまう、と)。どこか素朴さを纏った見識ではあるけれども、それを再考することが今求められているのではないか、というわけだ。訳出されたマッキンタイアの議論にも、そうしたスタンスは色濃く示されている。これはまさに考えどころ。事物の秩序が幻想でしかないとして扱われる昨今の認識論に、その実在論をあえてぶつけるというわけだが、それは当の認識論を揺さぶり刷新を図ることができるのだろうか……。なにやらかなり分の悪い賭けのようにも思えるのだが、ぶつける実在論の側もなんらかの精緻化なり刷新なりが必要になるのでは、という気もしないでもない。

第二特集のほうは、冒頭の乙部延剛「対抗する諸政治哲学」(pp.192-207)が基調を形作っているが、ロールズの『正義論』を嚆矢とするという分析系政治哲学のおおまかな見取り図を、対立的な大陸系政治哲学との兼ね合いで見ていくというのがその軸になっている。そこから明らかになるのは、分析系が具体的な問題に対応するためのツールを練り上げようとする一方で、大陸系は政治的議論からこぼれ落ちていく残滓のほうをクローズアップしようとしていること。両者は表と裏、前景と遠景のような、どこかに補完性が求められそうな感じではあるのだけれど、実際にはそう単純ではなく、相互の対話も簡単にはいきそうにない。具体的な問題を扱ったものでとりわけ興味深かったのは、山岡龍一「政治的リアリズムの挑戦ーー寛容論をめぐって」(pp.236-249)。寛容論で厄介な問題とされる不寛容の寛容というパラドクス(不寛容まで許容できるのかという問題)について、ロールズの衣鉢を継ぐというライナー・フォーストの議論を紹介している。フォーストは宗教的寛容を考察するにあたって、思想史的な眺望をも含めて検討しており、ロックなどが無神論者を寛容の対象から外していたのに対して、ピエール・ベールが無神論者への寛容を認めた点を高く評価しているらしい。そしてフォーストは、寛容のパラドクスを解くために、道徳的領域と倫理的領域とを厳密に分けるのだという。道徳的領域では「相互性の原理」(討議にもとづき許容範囲・制約が設定されるという原理)を立て、倫理的領域では個々の宗教の「善き生」が探求される、という二重の仕掛けによって、パラドクスを解消しようというわけだ。もちろんこれは概略的な見取り図でしかないわけだが、たとえいかほど問題含みであろうとも(リアルポリティクスを回すにはおおまかにすぎるかも)、そうしたツールを構築しようとする姿勢には共感できる気がする。