新たなパースペクティブを

人新世の哲学: 思弁的実在論以後の「人間の条件」篠原雅武『人新世の哲学: 思弁的実在論以後の「人間の条件」』(人文書院、2018)を眺めてみた。科学者クルッツェンが唱えた「人新世」は、惑星衝突などに匹敵する規模で人間が地球環境(地質年代)に影響を与えうるようになったことから、新しい地質年代を設定しようという主張なのだというが、これを踏まえて、アーレントの『人間の条件』を拡張・再考しようというのが、同書のメインテーマという触れ込み。実際は、アーレントをめぐる議論は意外にもわずかで、むしろモートンの唱える新しいエコロジー(人工環境も自然環境も視野においた新しい環境論)と、それを側面で支えるかのようなチャクラバルティなどの議論(気象論)を紹介するというのがメインのようだ。それはそれで面白いけれど、大上段に構えた人新世の問題設定からすると、どこかはぐらかされた感じもなきにしもあらず。人新世概念に対しては、もっとそれに見合った壮大な議論が必要であるように思われる。そのパースペクティブのシフトが突きつける変化は、メイヤスーやハーマンなどに代表されている新しい実在論のような、どこか微妙にこじんまりとした(?)話にとどまらない気がする……。人新世で言われるような人間の影響力の問題になんらかの解答を与えるには、なんらかのビッグピクチャのようなものを必要とするのではないか、と。もちろん、モートンのエコロジーなどが(それがどれほど壮大なものなのかは、同書からは窺えない気がするが)その突破口にならないとも限らないのだけれど、人間の活動をもっと合理的・理知的なものに変えていくような努力や議論が必要ではないか、と。

「定常経済」は可能だ! (岩波ブックレット)そんな中、これも一つの突破口かと思われるのが、岩波から出ている小冊子、ハーマン・デイリー『「定常経済」は可能だ! (岩波ブックレット)』((聞き手)枝廣淳子、岩波書店、2014)。同書は、ある時点からは経済成長それ自体が不経済になるのだといい、そこから先、経済成長を盲目的に信奉し続けるのは負の遺産をまき散らすことになると指摘する。すでにしてそのような段階に至っている先進国の、取るべき道・あるべき姿を示唆している。多少議論の中味については異論もありうるが(従来とは違う別様の保護主義の推奨とか)、これにもまた、地球規模のエネルギーの消費という大上段からの議論があって、人新世的なパースペクティブと響き合う。