「意味対象」小史

L'objet Quelconque: Recherches sur l'ontologie de l'objet (Problemes et controverses)整理的なメモ。前に触れたフレデリック・ネフの本(Frédérique Nef, L’objet quelconque : Recherches sur l’ontologie de l’objet (Problèmes et controverses), J.Vrin, 1998)も、速度的にはゆっくりだが、相変わらず読み進めているところ。第二部第三章をうろついている。話は14世紀のリミニのグレゴリウスに遡る「複合的意味対象」(complexe significabile)という概念の、近代以降における復権の小史になっている(もちろんそれはさらに昔の、ストア派の「レクトン」にまで遡ることもできるわけだが)。複合的意味対象は、意味を担っているのが命題における項ではなくて、その項についての命題そのものだと見る考え方。つまり意味が表すのは、一般的な対象物ではなく、対象物が述語と組み合わされた「事態」であるとされる。リミニのグレゴリウスは、それを知識の対象と見なしていた。いわば心的な事象である。ここには意味論から認識論へのシフトがあるとされ、これが後にボルツァーノ(の主観的表象・客観的表象の区別)やブレンターノなどを経て、マイノングにいたり、新たな装いのもとでいわば周回的に復活する。

マイノングの場合には、対象(客体)と「対象的なもの(客体となりうるもの)」(Objective)とが区別される。前者は実在(existe)するが、後者は事象として存在(subsiste)する。複合的意味対象はこの後者の「対象的なもの」に属し、なんらかの事象ではあるが実際に存在はしていないもの、とされる。「雪は白い」という場合、雪そのものは対象だが、「白いものとしての雪」は対象的なものになる。マイノングは対象的なものと「事態」とは別物だと主張しているそうで、ネフによれば「意味対象を単純なものにするため、存在論を複雑化した」とされる。事態(Sachverhaft)の起源はブレンターノにあるかもと言われ、その概念をフッサールやマイノングが用いるようになったらしい。フレーゲの場合にはまた立ち位置が大きく異なり、意味対象は思惟にほからならず、それは外界の事物でも表象でもない第三の世界に属するものとされる。フレーゲの存在論では、実在か事象としての存在かは問題にならず、対象によって機能が飽和される(満たされる)かどうかが問題になる。存在論の複雑化をフレーゲは拒み、むしろ意味論のほうを複雑化させるのだ、というわけだ。マイノングとフレーゲのあいだのこうした対称性を、ネフは取り上げてみせる。