享楽と民主主義

ラカニアン・レフト――ラカン派精神分析と政治理論選挙が近づいたこの時期だからというわけでもないが、政治思想的なものを読みたいという欲求が再び募ってきた感じ。というわけでまずはこれから。ヤニス・スタヴラカキス『ラカニアン・レフト――ラカン派精神分析と政治理論』(山本圭、松本卓也訳、岩波書店、2017)。精神分析の一大エコールをなしたラカンその人には、保守的なスタンスをおもわせるエピソードが多い印象だけれど、ラカン左派はリベラル派の思想に精神分析のタームを適用して政治理論のようなものを作ろうとしている一派らしい。同書の前半は主要論者の理論の批判的な比較検討で、あまり面白くない。後半の、実践的・分析的議論のほうがわれわれ一般読者的には重要(かな?)。扱われるテーマはナショナリズム、EUのアイデンティティ確立の失敗、消費主義社会、そしてポスト・デモクラシーの行方などだ。

いかにも精神分析の本らしく、ナショナリズムを支える集団的同一化が強固になり、なかば固着するには、情動的な備給が必要であって、そこには欠如をともなった享楽(とその裏側としての否定性)が控えていなくてはならない、と説く。そうした情動面は通常の政治学的議論ではあまり取り上げられることがないが、それこそがアイデンティティを支え、またそうした情動面のケアやサポートがないからEU的なアイデンティティはうまく機能してこなかったのだ、と。そこからさらに、消費主義的なポスト・デモクラシーにあっては、享楽の再考・再編、来るべき享楽をこそ考察しなければならないのだということになる、と。

確かにそうした情動面への注目は、重要な観点だとはいえるだろう。現行の社会が陥っている、むき出しの暴力のスパイラルに抗するためには、そうした情動面、とりわけ享楽の問題系を捉えなおす必要があるのだ、というのはその通りかもしれない。先に挙げたプロティノスが、肉体がもたらす攪乱要因を制御するために「政治的」という言葉を使っていたことと、これはある意味で響き合うところでもある。けれども、ここで示唆されている情動をめぐる理論も、あくまで仮説の域を出るものではなく、その意味では、ラディカル・デモクラシーを突き詰め、「否定性と享楽に対する別種の倫理的関係」(p.334)、ラカンいわく「もうひとつの享楽」をもって、現行のポスト・デモクラシーを超え出でるという、同書が説く戦略は理論上の戦略にすぎず、具体的に何をどう組織していくことができるのかは明らかになってこない……。うーん、精神分析特有のわかったようでもありわからないようでもある(?)説明も含め、このもどかしさをどうしてくれようか、というのが読後の直近の感想だ(苦笑)。