ポストモダンの功罪

真実の終わり権力者とその周辺から現れるフェイクニュースや虚偽の主張の数々。アメリカについてその背景を多面的に追った快作、ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(岡崎玲子訳、集英社、2019)を読んでみた。著者はアメリカの日系二世で、ニューヨーク・タイムズ紙などの元記者。フェイクの台頭には様々な理由や背景があるが、米国で一つ重要な流れを作ったものとして、ポストモダン思想があったとされる(第2章)。

フレンチ・セオリーとも称されるフランス系の現代思想は、アメリカにおいても価値転覆的なものとして、一方では文化的な領域横断を果たし数多くの革新的芸術を生んだものの、他方では既存の制度や公式に不信感を募らせていた若い世代にウケて社会科学や歴史の分野に流用され、ポストモダニズムにもとからあった「哲学的な含意」が表に出てくるようになった。人間の知覚から独立した客観的事実などない、というその根底をなす否定的な立場は、「真実」なるものが視点や立場でもって置き換えられていくという事態を招くことになる。もとは左派系のそうした議論は、やがて保守派の側にも波及し、さらにのちには右派ポピュリズムに取り込まれていく。こうして、すべてが「断片化し、相対的なのであれば、ある「指導者や支配派閥」が何を信じるべきかを指示する道が開かれる」(オーウェルの言葉、同書p.43)ということに。

そうした学術的な動きばかりがフェイクの台頭をもたらしたわけではもちろんない。けれども契機の一つになったという指摘は十分に頷けるものだ。そうした拡散・波及ははたして必然だったのか、あるいはフレンチ・セオリーの特殊な何かが問題だったのか(おそらくそういう問題ではない、と思われるが)。著者はそれがまさにレトリックの次元をも含めた、ポピュリズム側への裏返しだったことを指摘してみせる。そうした拡散・波及・逸脱・劣化の問題では、その伝達プロセスもしくはメカニズムについての詳細な検証が必要になってくるだろう。というか、まさか伝達作用についての学知が、こんなに重要な問いになってくるとは、20数年前には思わなかった事態だ(反省)。ポストモダンをめぐる研究がこれから先、大きな課題を抱えていくことになるのは必定か。