「言葉の学」カテゴリーアーカイブ

ダンテとライプニッツ……

ウンベルト・エーコの新しい邦訳が出たというので、オンラインで注文した。『セレンディピティ−−言語と愚行』(谷口伊兵衛訳、而立書房)。で、到着したものを見て、あれあれ既視感が……(笑)。第二章の「楽園の言語」は、夏にここでも取り上げた『ツリーから迷宮へ(Dall’albero al labirinto)』所収の「様式主義者とカバリストの狭間のダンテ」のいわば「焼き直し」。さらに第四章の「アウルトラル国の言語」、第五章「ジョゼフ・ド・メートルの言語学」(えーと、些細なことだけれど、メーストルですよね)は同所収の論考の邦訳。英訳からの重訳ということだけれども、なるほど英語圏ではこういう別様のアンソロジー本が出ているわけか。確かにそれは一つの手。出版不況の中、長大な論集を全訳では出せないなら、こういう抄訳的な形で出すというのもアリかもしれないなあ、と。ま、それはともかく。

これまた先に取り上げたクルティーヌの『存在の諸カテゴリー(Les catégories de l’être)』の最後の章は「ライプニッツとアダムの言語」。17世紀の普遍言語探求(とそれに連関するアダムが話していた言語の再構築)熱の中で、ライプニッツは原初の言語の再構成を求めるのではなく、原初の神的な「名指し」を人為的に「反復」することを求めていたのだ、というのがその論考の核心部分だ。これはまさに、ダンテの『俗語論』についてエーコが導き出したのと相似的な立場ではないの!ダンテもまた、原初の言語は構造的に生きていると考えて(そういう言い方ではないけれど)、それを俗語の詩的言語で「反復」しようとしていたとされていたのだから。クルティーヌによればライプニッツも同じような立場で人為的な言語の構築を目指していたという次第。ちなみにエーコはライプニッツの言語観をどう捉えていたのだっけ、と思って『完全言語の探求』(上村忠男ほか訳、平凡社)を見直してみたら、「他の著者たちが除去しようとしてきた言語の混乱を反対に肯定的なものとしてたたえている」(p.385)とある。なぜかエーコはライプニッツにダンテのような言語観を認めていない……。うーむ。

哲学から言語を考える

中世の言語論とのからみで、ジョルジョ・アガンベン『言語と死』(G. Agamben, “Il linguaggio e la morte”, Piccola Biblioteca Einaudi, 2008)を読んでいるところ。もとは1982年刊。いや〜、これがまた実に面白い。まだ途中なのだけれどね。ハイデガーとヘーゲルによる「言語の外部」についての考察を追うというのがメインストリームなのだけれど、分析のための手がかりを得るべくにいったん古代・中世にまで遡及し、そこから取り出してきたある種の言語論の根底をもとに、あらためて両者にアプローチするという構成。で、その根底として、まずは修辞学的な文法の隆盛が挙げられる。これは古代以来の形而上学と密接に結びついていたといい、とりわけ重要なのが中世における代名詞の扱いで、「純粋存在」(神はそういうものだとされるわけだけれど)の形而上学の成立と代名詞の意味論的な考察とは時を同じくしているのだという。とくに指示詞、シフターとして、発話行為そのものが指示されるような場合だ。このあたりはとても示唆的(多少アガンベン独特の横滑りも感じられるけれど)。存在するものから存在への形而上学的な超越の関係は、体系的言語に対する発話行為の関係と対偶のような配置になる、という次第。

次に指示詞のいわゆる「指示」とは何かを考えていけば、言葉を乗せる声(それは言語が有する場だ)そのものにいきつく。声は行為であり、古代からすでに意味への志向と捉えられてきた。かくしてそれは、再び形而上学の基礎へと返り咲くことにもなりうる(デリダを超えて?)。さらにまた、それはまだ意味する手前の段階として、大きな意味の裂け目を開くことにもなる……とまあ、一貫して言語の外部を考える同書は、ある意味、哲学の目線から再び言語を見直すことを促しているとも言えそうだ。その昔、記号学などが流行った当時には、ある著名な言語学者が「哲学的な存在論はしょせんBe動詞をめぐる考察にすぎない」などと勝ち誇った雄叫びを挙げていたものだけれど(苦笑)、ことはそう単純ではなく(中世などに遡及すると、そのことはよく見えてくると思う)、哲学と言語学(あるいは記号論)相互の視線の応酬がときに根底的な問題を焙り出すこともありうるわけで、そのあたり、改めて押さえておきたいところ。