「通史の風景」カテゴリーアーカイブ

デモノロジー略史

新しい論考ではないけれど、ディアナ・リン・ワルツェル「中世悪魔学の出典」(Diana Lynn Walzel, Sources of Medieval Demonology, The Rice University Studies, Vol. 60, No.4, 1974)をざっと見てみる。これはいわば古代ギリシアから初期教父あたりまでの、いわばダイモンから悪魔までの言及の略史。全体としては、幅広い意味を担っていた古代ギリシアのダイモンが、中期プラトン主義、ユダヤ教、さらにはキリスト教などの手を経るうちに、意味の範囲を狭められ、悪しきものへと貶められていく様子を、様々な文献に追うという形式で綴っている。扱われる項目をメモしておくと、ダイモンを神々とイコールとしたホメロス、単なる霊としたヘシオドス、プラトン、宗教との関連性を示すクセノクラテス、オリエント世界の宗教の影響による古代末期の迷信、アプレイウス(←プルタルコス)によるソクラテスのダイモン再考、フィロンにおけるユダヤ教神学とプラトン哲学の結びつき、徐々に悪を体現していくダイモン、初期キリスト教でのコズミックな聖霊としてのダイモンと、世界の救済というテーマ、初期教父のイグナティオスなどによるキリストの悪魔に対する勝利というテーマ、聖ペルペトゥアのビジョン、アタナシオスの『アントニウスの生涯』などに見る異教観、異教起源の悪魔の飛翔という観念とヘカテ=ディアナの再浮上……。特に、初期教父からアンティオキアのイグナティオスや、アレクサンドリアのアタナシオスが取り上げられている点が個人的には目を惹いた。

wikipedia (en)より、アンティオキアの聖イグナティオスのイコン

キルウォードビーとペッカムの誤算

前にちらっと言及した論考だけれど、坂口昂吉「オクスフォードにおけるアリストテレス禁令について」(史学 34(1)、慶応義塾大学、1961)を読み直してみた。うーむ、今なお実に読ませる論考だ。というわけで、内容をメモ的にまとめておこう。オクスフォードのこの禁令というのは、パリでタンピエの禁令が出た1277年3月7日からわずか11日後に、アリストテレスの教説を禁止しようとカンタベリー大司教のロバート・キルウォードビーが、オクスフォード大学の教授の会議で発布した30箇条から成る禁令。キルウォードビーに続いてカンタベリー大司教になったジョン・ペッカムもこれを1284年に再発布するのだけれど、パリの禁令と違い、こちらは後に大いに批判されて総スカンを食らってしまう。同論考によれば、両禁令が大きく違うのは、オクスフォードの方には禁令事項にトマスなどが主張する形相単一説が含まれていたという点。で、これがどうやら両禁令のその後を分かつことになるらしい。

キルウォードビーはトマスと同じくドミニコ会士なのだけれど、思想的にはアウグスティヌス主義を標榜し、そのため形相多数説(複数形相論)を擁護する立場にあった。続くペッカムはフランシスコ会士で、こちらはもとより形相多数説を取っていた。形相単一説を採用すると、無からの創造や死後の肉体の在り方といった教義との整合性に支障をきたす。そのために彼らは形相単一説を糾弾するのだけれど、キルウォードビーの発布後すぐに、コリント司教のコンフレトのペトルスからその点についての批判が寄せられ、またペッカムのほうは、ドミニコ会の英国管区長ホットハムのウィリアムから、トマスとドミニコ会への侮辱だとの非難を受ける。当時アウグスティヌス主義は高位聖職者の間に広く浸透していて(ドミニコ会、フランシスコ会の別なく)、その意味でアリストテレス主義に対する危惧は高まりを見せ、パリの禁令とほぼ連動する形でオクスフォードの禁令は出されるのだけれど、キルウォードビーとペッカムは見誤った点は、一方でトマス主義もまたじわじわと勢力を拡大していたという点。同論文によると、キルウォードビーが禁令を出した翌年の1278年にミラノで開かれたドミニコ会の総会は、彼と英国管区長を非難しているといい、翌1279年のパリでのドミニコ会総会では、トマスの教説がドミニコ会の公の学説として認められた。一方、ペッカムが属するフランシスコ会もその後に態度を硬化させていて、1282年のストラスブールのフランシスコ会総会では、トマスの書が禁書扱いになっているという。ペッカムは形相単一説がそうした両修道会の争いの要になっていることを見誤っていたらしい。

wikipedia(en)より、ロバート・キルウォードビーの肖像画(詳細不明)

パスナウ本にオッカムを追う – その1


昨年出たロバート・パスナウの『形而上学的主題 – 1274-1671』(Robert Pasnau, Metaphysical Themes 1274-1671, Oxford Univ. Press, 2011)は、中世末期から初期近代にかけての西欧の思想的変遷を、形而上学の主題ごとに俯瞰的に見ていくという趣旨の大著。これもまた最近ようやく入手して、ちらちらと眺めているところ。これ、なにせ本文だけで700ページ超ときている。しかも扱う領域も年代もかなり広範にわたっているので、頭から漠然と読んでいくのでは、個人的にはいろいろ消化不良も起こしかねないように思える。というわけで、ここはむしろ扱われている主題そのもので区切るより、人物ベースで横断的に拾い読みするほうがさしあたりは面白いのではないかと考えているところ。とりあえずメルマガのほうで扱っているオッカムをキーにして、しばらくは全体を眺めていこうと思う。ま、正統的ではないものの、こういう読み方もあってよいかな、と(苦笑)。

オッカムについての最初のまとまった言及は、「無からは何も生まれない」という議論についての箇所(2章3節)と、質料がすでにして限定されているという議論を紹介した箇所(4章4節)あたり。これは昨日のメルマガでもちょろと触れたところ。オッカムは、事物の生成・消滅(つまりは流転)に際してなおも存続するものとしての質料を原理として立てる。同時に、一方ではそこにすでにしてなんらかの現勢態があると考える(そのあたりはオリヴィゆずりの議論だ)。質料には限定的な「拡がり」、すなわちなんらかの「量」があると見るのだけれど、オッカムの場合、この「量」なるものは実体にもとより含まれるのであって、いわゆる範疇論での独立した範疇をなすとは見なされない。この範疇論解釈はある意味とても重要で、それはオッカムの唯名論の立場とも大きく関係している。

唯名論全般についても、同書に簡単なまとめがある(5章3節)。「唯名論」の呼称が使われるようになるのは15世紀初頭になってからで、それ以前には用語としても使われていないし、それが哲学的なムーブメントをなすなどとは考えられもしなかった。唯名論と実在論の対置に言及した嚆矢としては、たとえばプラハのヒエロニムスがいるのだという(1406年、ハイデルベルク大学を訪問した際の記述だとか)。また、この対立的構図は1425年のケルン大学の文書にも明示されているというのだけれど、そこでの対立軸はむしろ新旧論争的で、トマスやアルベルトゥス・マグヌスなどの旧派と、ビュリダンやインゲンのマルシリウスなどの新派とが対比されていた。で、15世紀後半になるとその新旧対立に実在論・唯名論の対立が重ね合わせられていくのだという(なるほどこのあたりの話は、コートニー『オッカムとオッカム主義』(William J. Courtenay Ockham and Ockhamism: Studies in the Dissemination and Impact of His Thought, Brill, 2008)などでも取り上げられている)。

で、重要なのは次の点。今でこそ唯名論と実在論を分けるキーとして「普遍」をどう捉えるかが問題にされるけれど、当時その両者を区別する議論は別にあって、それはつまり用語と指示対象とが一対一対応になるかどうかという問題だった。用語が複数化した場合、対応する外的事象も複数あるとみるのが実在論、外的事象は複数化しないとするのが唯名論というわけだ。たとえば「神性」は神のもとにあってとことん一つだとするのが唯名論、「神の賢慮」といったものが神そのものとは別にあるとするのが実在論(という例が1475年のパリの唯名論弁護論にあるのだという)。この、いわば言語の表層構造が現実の構造に対応しているかどうかという問題は、普遍をめぐる問題というよりは、むしろ範疇論をめぐる論争を招くことになる。こうして上の、オッカムの範疇論へと話がつながっていくことになる……。

ビザンツ方面のアリストテレス主義

これも小論だけれど、思想的布置のまとめとして面白い。ディミトリス・ミカロプロス「アリストテレスvsプラトン:バルカンの逆説的啓蒙」(Dimitris Michalopoulos, Aristotle vs. Plato: The Balkans’ Paradoxical Enlightenment, Bulgarian Journal of Science and Education Policy, Vol.1, No.1, 2007)(PDFはこちら)。思想史的にかなり大まかな枠組みとして、西洋世界が中世盛期以後、トマスに代表されるようなアリストテレス思想の受容を軸に動いていったとするなら、ビザンツ世界は9世紀のコンスタンティノポリス総主教フォティオスがギリシア文献の再興を図って以降、プラトン主義が席巻したとされる。ところが15世紀くらいになると状況が変わってくる。まず西洋世界では、ポンポナッツィ(1462-1525)が「魂の不死性は合理的議論で証明できるか」という問題を掲げて登場する。その際の鍵となる議論が、アリストテレスの言うエンテレケイア(現実態)が、キリスト教の死後の生と矛盾しないかという問題だった。そこからパドヴァ大学では、いわゆる唯物論的アリストテレス主義が導かれる(魂の不死は基本的に否定されていく)。パドヴァは1405年からヴェネチアの支配下に置かれていたため、結果的に教会側からの直接攻撃に晒されずにすみ、そうしたある種の異端的な思想が擁立できたということらしい。やがてジャコモ・ザバレラ(1532-89)が先導する形でパドヴァの新アリストテレス主義は勢いを増し、1591年にチェーザレ・クレモニーニがパドヴァ大学に着任しピークを迎える。

クレモニーニはガリレオとの相反で知られているけれど、どうやらガリレオのことをプラトン主義者と見ていたらしい。けれども論文著者によると、もっと重要なのは、クレモニーニにはそのアリストテレス主義を信奉する二人のギリシア人学生がいたことなのだという。その二人とは、後のコンスタンティノポリス総主教キリロス1世となる(1602年)コンスタンティノス・ルカリス、そして後に哲学者としてファナルのアカデミーを率いるテオフィロス・コリュダレオス。両者の名はバルカン半島に広く知られ、とりわけ思想面では後者の影響によって、アリストテレス主義はギリシア正教会の論理武装に一役買うことになるのだとか。パドヴァ流のアリストテレス主義がビザンツ、さらにはバルカン半島全域にまで拡がっていった、というのはなんとも興味深い話。しかもそうした唯物論は、ギリシアを中心にその後も長く続き、近代にいたるまでバルカン一帯の学問的な支えとなっていくのだという。

↓ Wikipedia(en)から、チェーザレ・クレモニーニの肖像

知的スペキエス:クザーヌスとか

都合により個人的に長らくおあずけ状態だったリーン・スプルイトの『知的スペキエス:知覚から知識へ』の第二巻(Leen Spruit, Species Intelligibilis: From Perception to Knowledge : II., Brill, 1995)をやっと読み始める。章立ては一巻に続いてなので6章からで、まずこの章が「フィレンツェからパドヴァへ」になっている。さしずめ15世紀後半の論者めぐりということで、クザーヌス、ピコ・デラ・ミランドラ、フィチーノ、ジャック・ルフェーヴル・デタープル、シャルル・ド・ボヴェル、フラカストロと続き、さらにパドヴァからはニコレット・ヴェルニア、アレッサンドロ・アキリーニ、ティベリオ・バチリエリ、クリストフォロ・マルチェッロ、そしてアゴスティノ・ニフォへと、総覧のごとくページが展開していく。なんと華麗な……とため息がでる感じ(笑)。こうしてスペキエス(可知的形象)がいかに意味を縮減され、むしろ力能としての知性の働きに「呑み込まれて」いくかが示される。

最近の個人的な関心でもある「受動の中の能動性」みたいな話からすると、どの論者も興味深いのだけれど、とりわけクザーヌスが意外に重要そうな気がする。その流れの嚆矢のような扱いのクザーヌスは、基本的に感覚の励起が知識の生成の基本部分をなすと考えている一方で、心がまったく受動的にのみ感覚の刺激を受け取るのではなく、知識の獲得には判断能力が不可欠だとも考えている。で、感覚の刺激という意味でのスペキエスは認めているのだという(知的スペキエスについての言及はないのだとか)。「形相的スペキエス」(species formales)が心の中にある、という言い方も出てくるようだけれど、ただその場合でもプラトン主義的な実体的像があるというのではなく、力点は心がそうした像を形成できる心の力能に置かれていることをスプルイトは強調したりしている。ちょっとこのあたりは深く潜ってみたい話だ。また、今オッカムとかをかじっているせいもあって、オッカム主義者として知られるアレッサンドロ・アキリーニあたりもとても気になるところだ。