「生命、自然、コスモロジー」カテゴリーアーカイブ

世界のもろさについて

流行語というか、今年最も鮮烈な印象だったのは、やはりなんといっても若き環境活動家グレタ・トゥンベリの「How dare you?」だ。環境問題が切羽詰まっているという今、相変わらず経済の話しかしない為政者らに、「よくもそんな(ことがいえたものだ)」と言い放ったという例の一言である。その後この活動家は様々な誹謗中傷に晒されることになったし、科学への妄信といった批判もあるけれど、見逃してはならないのは、彼女が問題として捉えなおそうとしているのは、「世界のもろさ・脆弱さ」にほかならないという点だろう。世界は案外もろいのではないか、と思わせるような事象(災害その他の)が、このところますます多発するようになった。「世界」というものがどの外的因子に対してどれほどの耐性があるのか、そろそろ正面から問題にすべきかもしれない。

少し前に取り上げたアルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス――生物学の創造』の下巻(森夏樹訳、みすず書房、2019)には、「宇宙」と題された一章があり、その目的論的な世界観について現代的な問いかけと回答を示している。その中に、ちょっと興味深い一節がある。アリストテレスの世界観ではあらゆるものが人間のために存在しているとする一種世俗的な解釈を、この著者はテキスト的にそう読めるような箇所はないと一蹴し、そこで問題になっているのはむしろ動物個体の生き残りなのだと述べている(p.475)。植物・動物・人間は、食料としての関係で密接に結びつき依存し合っていて、それは自然によるある種の調整作用だと見ることもできる。宇宙は全体をなすと言われるが、その場合のアリストテレス的な全体とは部分やそのシステムを超えた何かであり、一方でアリストテレスはその「全体の脆弱性」を敏感に感じ取っているのだと著者は言う(p,476)。そのような脆弱な全体だからこそ、個々の要素(生物)を生きながらえさせるために、質料が流れ相互に調整作用をなすようなかたちで世界はデザインされなくてはならない。アリストテレスはそう考えているというのだ。うーん、そのような観点からアリストテレスのコスモロジーを捉え返したことはなかったので、個人的にはなんとも刺激的・示唆的な指摘に思える。

さらに最近読み始めた次のデカルト論も、そうしたことを考えるための補助線になるかもしれない、と個人的に考えている。ティボー・グレス『デカルトと世界の不確かさ』(Thibaut Gress, “Descartes et la précarité du monde”, CNRS Éditions, 2012)。まだほんの序論部分(第1部)のみだが、そこでは、デカルトが唱える方法的懐疑の背景としての「世界の不確かさ」について再考している。デカルトが、方法的懐疑として感覚を疑い、さらには知性的なものをも疑うのは、その背後に、人間が世界を直接的には認識できないというもどかしさ、裏返せば世界が不確かなものとしてしか人間の認識に現れてこないという限定性へのやりきれなさがあるということだ。数学ですら、それが世界の記述へと応用されるときには、疑わしさをまとわずにはいない。それとは別様のものとして思い描かれた普遍数学すらそうした疑わしさを払拭できない。世界を成り立たせる存在論の次元へと、それは接近していかない、と……。翻って、現代の科学はその点どうなのか、という悩ましい問いも当然浮上する。

アリストテレス生物学の射程

アリストテレス 生物学の創造 上メルマガのほうでも少し触れたが、このところ読んでいるのが、アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造 上』(森夏樹訳、みすず書房、2019)。まだ上巻のみだけれど、すでにして秀作の印象。生物学者がアリストテレスを丹念に読み込み、『動物誌』や『動物部分論』など一連の動物学的著作を中心に、その「生物学」としての評価を試み、アリストテレスが何を知っていて、何を知りえていなかったのかを腑分けしていこうとする刺激的な一冊だ。

なによりもまず、その手さばきの鮮やかさが目を引く。上巻を章立て順に追っておくと、まずはその生物学的な取り組みの特徴(観察を中心とし、ときに大胆な仮説へと飛躍していく)、その対象の広がり(現物の観察のほか、旅行者からの伝聞なども含まれている)、解剖学界隈での後世(19世紀など)のアリストテレス再評価とその限界、自然学の原理(その機能的な生物学)の諸特徴、生物の分類学的な試みと限界、論理学との関係性、生体構造の分析(『動物部分論』など)、霊魂論の捉え方(機能的総和としての霊魂)、発生論の特徴(目的論との絡み)……。現代的な視座ももちろん取り入れながら、一方的に限界を言い募るのではなく、当時の自然学的な文脈を様々な側面から浮かび上がらせようとしている。そうした点で好感度は高いが、一方で多少一面的な評価もなくはない印象でもある。

個人的に霊魂論のあたりは面白く読んだ。アリストテレスの生物学的な著作を中心に捉えるならば、それはまずもって栄養摂取の霊魂(植物的魂)として記され、栄養摂取のメカニズムを組織し支配する司令塔のようなもの(心臓とされる)として考察できる。したがってそれは、はるか後世の生気論のような、身体と完全に分離したものではないように見えたりもするだろう。けれどもアリストテレスの霊魂論はそこにのみとどまりはしないし、その基本的スタンスは自然学以外のものも含めた様々な著作からすると、曖昧なまま宙づりになっているかのようだ。魂は身体の中にはないとも言えるし、身体全体に広まっていると言ってもよい。心身の中間領域的な部分は、不問のままに留め置かれる。たとえば感覚的魂においては、外部刺激を受けて感覚器官に生じる心的表象(ファンタスマ)が問題になるわけだけれど、著者も指摘するように、アリストテレスにはファンタスマの機能的・機械論的な説明はない。生理機能の説明はあっても、その先の肝心なファンタシアの内実の説明については、アリストテレスは言いよどんでしまわざるをえない。例として臭いについて挙げられた一例を再録しておくなら、「悪臭を放つものが空気に触れるおかげで、空気が臭覚に対して感じられるほどのものになるのであり、臭いを嗅ぐことは、それによって作られたものの観測ということになるのだろうか?」(p.248)という具合だ。さらにまた、著者は同書において、理性的魂の諸相を事実上取り上げていない。おそらくはそれが、同書が扱う自然学的な領域を超え出てしまうからなのだろう。

朱子学の問題機制

朱子学 (講談社選書メチエ)これもずいぶん前からの積読もの。木下鉄矢『朱子学 (講談社選書メチエ)』(講談社、2013)。でも読んでみると、扱われているのはまさに(西欧の)哲学史研究の醍醐味でもあるような細やかな文献解釈の諸問題であり、こういうのは個人的にも高揚感を覚えるところだ。朱熹のテキストに沿って朱子学のいくつかの大きなテーマを読み解いていくという内容で、その誠実かつ実直な、細やかな手際に好感度も高い一冊。「学」「性」「理」「心」「善」といった概念について、細かく読み解いていく。学はもちろん学ぶことだが、ここでの学知は西欧の哲学的伝統とパラレルに、先覚(先達)の残した書の注解を通じて「まねぶ」こととされている。「性」は「性善」というような場合の「性」で、これは日常の具体的な「事」を抽象する一時的な抽象と、さらにその根拠にいたるもう一段の抽象を経た、いわば二重の抽象化で示される「理」だと解釈される。そこでも、太極(全一的な絶対存在)から事物が発出する構図があるというあたり、まさにプロティノス的な流出論を想わせたりもする。そして最重要ともいうべき「理」。これは流出の最初の段階から後の諸段階にいたるまで、媒質としての「気」を介して万物を化生(生成)するというプロセスの法則そのものを言うとされる。

何度か出てくる話として、朱熹(12世紀)が用いている「物」という語が、いわゆるモノを指すのではなく、むしろ「事」を指しているのではないかという仮説がある。これが実は全体を貫く一つの基調になっているようにも思われる。その仮説の根拠はもちろんテキストにあるのだけれど、漫然と読んでいては浮かび上がらないような、精妙な機微を含んだ説になっている。またそのように精緻に読むことで、朱熹の言う「理」、つまり万物の「造化発育」(生成)を貫く根拠としての「理」(二段めの抽象)が、単なる作用ではなく、能動的な行為、いわばプロセスにとってのおおもとのプログラムとしてあることが浮かび上がる。

そうした解釈の鍵は、当然ながら細かなテキストの照合にある。そしてテキストは、もちろん単純なものではありえない。たとえば個人や物に賦される「性」が、陰陽五行の「仁義礼智信」の気に対応するのか、それとも「仁義礼智」のみの四端に対応するのかをめぐる揺らぎがあるようだし、また上の「物」を「事」と解釈する議論の典拠をなすテキスト群にも、朱熹自身による改訂の際の異動があるようで、その改訂の方向性の話などはとてもスリリングだ。

そんなわけで、朱子学は(従来思われていたように?)安定的で一貫性をもった完成度の高い思想体系というよりも、むしろ動的で、展開途上にあるような、ある種の強度をもった自然哲学的試論という位置づけ(?)がふさわしいようにさえ思えてくる。テキストをめぐる問題機制というのは、洋の東西を問わずパラレルかつエキサイティングなのだなということを改めて感じさせる。

動物からのグラデーション

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)今週もあまり時間が取れなくて、本読みは低迷中。というわけなのだけれど、いちおう今週見ているのはこれ。アラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』(高島和哉訳、法政大学出版局、2018)。まだ全体の3分の1ほどの6章目まででしかないが、マッキンタイアがプルタルコスの系譜に名を連ねていることは実によくわかる。動物と人間との線引きを強調してきた過去の哲学的議論を批判的に相対化し、両者の差異をグラデーション、程度の差として捉え直すことを提唱している。マッキンタイアは、言語をもたないもの(すなわち動物)に、信念(概念化と判断)を帰することに反対する論者たちが、全般に、みずからの論を支える根拠を提示できていないことを示していく。たとえば真と偽との前言語的な区別が、言語を用いる諸能力と地続きであることを言い募る。

もちろん、言語をもつことによって獲得された能力には、前言語的な根をもつ信念を反省的に捉え返す(あるいは判断の理由をもつ)といった側面が含まれるわけだけれど、それもまた、連続性の相のもとで見直す必要があるのだ、ということのようだ。確かにそれは言えているだろう。前回、プルタルコスの考える動物の推論があまりに人間的・言語的だというようなことを記したけれど、プルタルコスがやや性急に、あるいは一足飛びに連続性を強調してしまうところで、マッキンタイアは慎重に踏みとどまり、より精緻な検証を加えようとしているかのようだ。同書は副題にもあるとおり、徳の概念にまで話が及んでいくようで、最初の3分の1を読んだ印象としては、話の流れとして他の動物にもそうした徳性が当てはまるというところにまで進んでいきそうに見える(?)。そのあたりについては改めてメモすることにしよう。

動物の論理性

Plutarque, Oeuvres Morales: Traite 63, L'intelligence Des Animaux (ollection des universites de France)このところ目を通しているのが、プルタルコスの『モラリア』から第63論考「陸生動物と水生動物のいずれがより賢いか」(底本:Plutarque, Oeuvres morales: Traité 63, L’intelligence des animaux (collection des universités de France), trad. par J. Bouffartigue, Les Belles Lettres, 2012)。まだざっと前半のみ。動物と人間とのあいだに明確に線引きをするプラトンやアリストテレス、さらにはストア派などと違って、プルタルコスは動物に不完全ながらある程度の理性・知性の存在を認めている。それを示すため、この対話編では様々な動物の諸行動について言及する。それらを実例として、動物のもつ知性的な面を言い立てていく。

たとえばトラキア人たちが凍った川を渡る際に、キツネを参考にする話が出てくる。キツネは川の近くまで来て、耳をそばだてて、氷の下を水が流れている音がすれば、底まで凍ってはおらず氷は薄いと推論し、歩みを止めるとされる。プルタルコス(というか、対話編の登場人物であるアリストティモス)はここで、「音を出すものは動いている。動いているものは凍っていない。凍っていないものは液状である。液状であるものは抵抗力がない」という弁証がキツネにおいて成立しているのだとみなす。あるいはまた、歩いている犬が岐路にさしかかる際、その犬は選言的(!)に、次のような三段論法を繰り広げるのだ、と。「(追いかけている)獣は、この道、あの道、もう一つの道のいずれかを行った。この道とあの道でないのは確かだ。よってもう一つの道を通ったに違いない」。

このあたり、あまりに言語的な析出に依存した推論形式の記述だという印象はぬぐえない。そうした人間的な言葉に依存した弁証法的な推論が、動物においてどこまで正当なものとして働いてはいるのかはわからないが、動物の判断はもっと瞬時に、いわば短絡的になされている印象もあるわけで……。こうしたステップ・バイ・ステップでの分析的な推論構成は後付けにすぎないこと、そしてそれをもってはじめて「理性的」と評されることには、やはりどこか微妙な違和感がないわけでもない……と。自分でもあまり整理できていないが、動物が体現する論理性は、それだけで大きな問いを投げかけていそうに思える。