すごく久々に、ジョルジョ・アガンベンを読んでいるところ。ものは『いと高き清貧』(Girogio Agamben, Altissima povertà. Regole monastiche e forme di vita, Neri Pozza Editore, 2011)。「ホモ・サケル」シリーズの第四部第一分冊ということらしいが、タイトルから想像できるように、「規則」というこものが「生の様式」(forma vitae)と一体となっている様を、修道院規則(とくに後半はフランシスコ会が中心となっていく)を題材に検討するというもの。相変わらずその大胆かつ繊細な着眼点がとても刺激的だ。たとえば次のような論点。修道院規則はその古い形において、すでに生の在り方を規定していた。というか、生の完成ということを目指して共同生活を送るという修道院の存立の理念からして、それは生活のモラル化、規則による生の規律化を目指すものだった。では一三世紀のフランシスコ会は、先行する他と諸会派とどう違うのか。アガンベンはここで、「生の規則」(regula vitae)という場合の属格(「生の」)の意味を問う。それは意味上の主語なのか、それとも意味上の目的語なのか。regula fidei(信仰の規則)、regula juris(法的規則)、regula loquendi(話法:発話の規則)という場合、属格に来るものは意味上の主語をなす。regula vitaeはどうか。かつての修道院においては、それもまた意味上の主語をなしていた。生が規則になる限りにおいて、その規則は生と一体化していたのだから。で、どうやらフランシスコ会の場合は(その属格に意味上の目的語の含みももたせて?)そこに、ある種の緊張状態を孕ませている。規則は生を生み出し、そのうちに規則みずからを成立させるのだ、と……。この微妙な渾然一体性と差異とに、アガンベンは規則の口承性と文字化の対立や、規則と典礼(とくに聖典の朗誦)の一体性などを重ね合わせていく……。
さらに、フランシスコ会の文献から、生活様式(forma vitae)に類する表現の数々を拾い上げ、その微細な差異を問題として取り上げてみせる。たとえば規則と生(regula et vita)という表現のこのet(〜と)。もっと古い修道院文献には、規則もしくは生(regula vel vita)といった表現が見られるといい、両者の渾然一体性を表しているとされるが、フランシスコ会のほうは、両者が一体でありながらも一方では(並記されているところから)分離し、ある種の緊張状態を保っていることが示されている、とアガンベンは見ている。こうして、規則が生へと転じるところに、生の様式「と」生を与える規則とが同時に成立する、という生成的な論点が浮かび上がってくる。
佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ – 修道院の起源』(中公新書、2014)をざっと読み。新書とは思えないほど情報が詰まっていてボリューム感に富んでいる一冊。全体として見渡すと、タイトルの「禁欲のヨーロッパ」よりは副題の「修道院の起源」のほうに重きが置かれていて、ややミスリードな感じがしなくもない。ま、それは些末なことにすぎないのだけれど(苦笑)。前半は確かに古代世界の身体ケアの文化史が中心。精神の自由を支えるための古代ギリシアにおける欲望の統制はローマの支配層にも受け継がれ、医学的知見こそそぎ落とされつつも、欲望の節制と食養生を主とする生活規範になっていく。その一方で女性においては、著しく不利な婚姻制度ゆえに、欲望の統制ならぬ欲望の否定が広く浸透していく。このような二重の禁欲的土壌の上にキリスト教の隠修士たちの修行実践が広がっていったというのが話のメインストリーム。個人的に興味深いのは、ローマ時代において「禁欲修行に必要な著作の普及に、貴族層に属する教養ある女性が縁の下の力となって支えた」(p.84)というあたりの記述。文脈は違うけれど、イスラム教においても、その初期段階での普及に女性たちが貢献したという話があり、ちょうど、クルアーンの筆写・編纂においてハフサ(ムハンマドの四番目の妻)がどのような貢献を果たしたかという研究論文が出ているという話を目にしたばかり(Was a Woman the first editor of the Qur’an?という記事を参照)。女性の存在・役割はなかなか前景化しないものの、その重要性はやはり侮れないのだなあ、と改めて。
先日取り上げたジョングルールの社会的認知の論文では、職業や住居の史料として租税台帳が使われていた。で、租税台帳といえばやはり徴税システムそのものがとても気になるところ。というわけで、タイユ税に関するとある論考を眺めてみた。スリヴィンスキ&サスマン「中世パリにおける徴税メカニズムと経済成長」(Al Slivinski and Nathan Sussman, Taxation Mechanisms and Growth in Medieval Paris, published online, 2010)というもの。歴史経済学系の論考で、扱っているのは一三世紀末から一四世紀初頭のパリの租税台帳。当然ながらそこからいろいろなことがわかってくるらしい。タイユ税というと、王権が課した直接税としか認識していなかったのだけれど(苦笑)、一三世紀末から一四世紀初頭あたりのそれは、王権とパリ市とが一定の納税で取り決めを交わし、その負担分をパリ市側が広く納税者に分散して集めるというものだったらしい。パリ市は租税台帳すら王権側から隠していたといい、税額もパリ市と王権との間で協議され、王権側も税の評定と徴収について全面的にパリ市に任せていたという。市は低コストで税の徴収ができ、そのためタイユ税は、王権側の所有権の濫用を抑制する仕組みにもなっていた。著者たちはこの徴税の在り方を、グライフという研究者の呼称でもって「コミュニティ責任システム」(CRS:community responsibility system)と称している。このシステムは、住民たちに一種の連帯義務を負わせることにもなり、コミュニティの強化にも役立つ側面もあった。そのあたりが、エリート商人階級が市の統治を担っていた北イタリアの自由都市とは状況が異なるという。