「情念・倫理学・主意主義」カテゴリーアーカイブ

プロティノスの徳論

Traite 19 Sur Les Vertus (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)フランスのヴラン社が出しているプロティノスの年代順新解釈シリーズ。すでに『エンネアデス』から第31論文と第20論文の訳・解説本が出ているが、今度は第19論文を扱ったものが出ていた。『プロティノス―第19論文:徳について』(Traité 19 Sur les vertus (Bibliothèque des textes philosophiques), Dominique J. O’Meara, Vrin, 2019)。タイトルこそ「徳について」だが、具体的には、徳によりいかに神との合一をはかるかという問いが扱われている。もととなっているのはプラトンの対話編『テアイテトス』の176 a-bだといい、プロティノスはその注釈というかたちで神との合一を哲学の目的と規定してみせている。

というわけで冒頭の解説序文からメモ。純粋な知性としての神のほか、一者としての至高の神を置く新プラトン主義の神学体系においては、合一の概念も二種に区別されなくてはならない。合一する側が合一対象と同じ属性を必要とする場合と、そうでない場合だ。徳による合一は後者にあたる(神そのものは徳を必要としないからだ)が、今度は知性と感覚的なものとの関係性が問題として浮上する。徳とはここでは、魂が有するある種の調整力ということになるようだ。

プロティノスは徳も二種類に区別されるという。「政治的な徳」と称されるものと「上位の徳」だ。前者は要するに、肉体に由来する情動を管理し、感覚的な誤った知見を斥ける方途のことをいう。それを通じて人間の魂は超越的知性へと近づくことができる、と。後者は魂が情動への従属から解かれているときの力のことをいう。政治的な徳をもつからといって上位の徳をもつとは限らないが、逆に上位の徳をもてば、政治的な徳を潜在的に含み持つことになる。プロティノスによれば、魂それ自体は情動や不合理なものを属性としてもってはいないが、魂が肉体を活性化する際に、情動などの攪乱要素が肉体の側から生じてくるとされる。それを秩序づけ、管理するための力が徳(政治的な徳)であるという。プロティノスのこの見解は、プラトンの『国家』で示された徳概念についての、新たな定義なのだと解釈されている。

動物からのグラデーション

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)今週もあまり時間が取れなくて、本読みは低迷中。というわけなのだけれど、いちおう今週見ているのはこれ。アラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』(高島和哉訳、法政大学出版局、2018)。まだ全体の3分の1ほどの6章目まででしかないが、マッキンタイアがプルタルコスの系譜に名を連ねていることは実によくわかる。動物と人間との線引きを強調してきた過去の哲学的議論を批判的に相対化し、両者の差異をグラデーション、程度の差として捉え直すことを提唱している。マッキンタイアは、言語をもたないもの(すなわち動物)に、信念(概念化と判断)を帰することに反対する論者たちが、全般に、みずからの論を支える根拠を提示できていないことを示していく。たとえば真と偽との前言語的な区別が、言語を用いる諸能力と地続きであることを言い募る。

もちろん、言語をもつことによって獲得された能力には、前言語的な根をもつ信念を反省的に捉え返す(あるいは判断の理由をもつ)といった側面が含まれるわけだけれど、それもまた、連続性の相のもとで見直す必要があるのだ、ということのようだ。確かにそれは言えているだろう。前回、プルタルコスの考える動物の推論があまりに人間的・言語的だというようなことを記したけれど、プルタルコスがやや性急に、あるいは一足飛びに連続性を強調してしまうところで、マッキンタイアは慎重に踏みとどまり、より精緻な検証を加えようとしているかのようだ。同書は副題にもあるとおり、徳の概念にまで話が及んでいくようで、最初の3分の1を読んだ印象としては、話の流れとして他の動物にもそうした徳性が当てはまるというところにまで進んでいきそうに見える(?)。そのあたりについては改めてメモすることにしよう。

生得論か経験主義か

自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアーチョムスキーがかつて提唱した普遍文法の思想的射程というのはなかなか広範で、全体としては科学に立脚する自然主義を哲学の領域にまで浸透させる一助となったほか、そこに生得説をもちこんで定着させもした。けれども、自然主義そのものはよいとしても、それがときに生得説とイコールのように扱われることには、個人的にも違和感を感じたことがある。自然主義と生得説との繋がりは、必ずしも必然的ではないのではないか、と素人考えでも疑問に思う。そのあたりを改めて問うてみせているのが、植原亮『自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー』(勁草書房、2017)。入門書の扱いだけれど、全体としてなかなか刺激的な内容でもある。チョムスキーの言語観を受けて、たとえば道徳の普遍文法といったものを提唱する人々が登場し、倫理的判断が人間にもとより内在しているといった議論を展開する。この一派はそれなりに認知されて、一定の影響力をもつようになるわけだが、ある意味それは倫理的な判断がすべてあらかじめ内在しているという「強い」生得論をなす。一方で生得論の中にも諸派があって、たとえば生得的モジュールという考え方を採用する中庸な一派もあったりするという。いずれにせよ、そうした議論に対して、経験主義の人々が対立する。彼らは、生得的な部分を最小限に留め、基礎的な感情や汎用の学習メカニズムのようなものに縮小し、道徳的価値観がそこから経験を通じて発達すると考える。

こうした生得論vs経験主義の構図は、なにも倫理の問題に限定されてはおらず、心理一般にまで拡大される。科学的な知見からは、生得論的なものが圧倒的に有利になるかに思われた。けれどもここで著者は、むしろ経験主義の巻き返しについて言及していく。心理的なものが経験を通じて発達するという議論においてとりわけ弱点となるのが、抽象概念の獲得についての説明だというが、近年の人工知能の深層学習などを見るに、汎用学習メカニズムの実質として「統計的学習」の可能性が浮かび上がってくるのだ、と著者は言う。もしこれがそうした抽象概念の獲得、あるいは言語の習得について十分な説明を担いうるなら、道具立てのシンプルさにおいて、それは生得論に勝ることにもなる……と。なるほど両者のせめぎ合いの尺度の一つとして説明的合理性を競う面があるのは確かだ。けれども結局はどちらも推論・仮説同士をぶつけ合うほかなく、著者も言うように、どちらか一方の全面的勝利は期待できそうにないという印象も強い。それもあって、同書の終盤では、生得説と経験論の融合の試みがまとめられている。とりわけ中心的なものとして紹介されている二重プロセス論(人間の認知を、システム1、システム2のプロセスからなるものと考える立場。デュアルモードカメラに喩えられているのがなかなか愉快だ)の仮説は、それはそれで問題含みな気もするものの、一つの仮説の立て方としては興味深いものがある。

ガレノスの道徳論

Oeuvres Completes: Ne Pas Se Chagriner (Collection Des Universites De France)ガレノスの著書から、通常の医学ものではないものを読んでみた。『嘆かないことについて』(Περὶ Ἀλυπησίας )という一篇。底本はレ・ベル・レットル刊の希仏対訳ガレノス全集の第4巻(Galien, Oeuvres complètes: Ne pas se chagriner (Collection des universités de France), trad. V. Boudon-Millot et J. Jouanna, Les Belles Lettres, 2010)。おそらくは旧友と思われる人物に宛てた書簡の体裁で書かれた、心の平静を保ち続けるための道徳論だ。旧友から、ローマの火災(解説によると192年にあった大火らしい)で自著の医学書・薬学書のほか、貴重な書が多数失われたというのに、なぜそんなに嘆かずにいられるのかと問われたガレノスが、おのれの人生観を語り出す。自分が事足れりと思えるだけの財さえあればそれでいい、というのがその核心部分なのだが、そういう信条を抱くようになるには受けた教育が大きいと言い、すこしばかり教育論的でもある。前半は失われた書の数々を振り返ってみせ、どこか自慢げなのかと思いきや、後半はそういうわけで過剰な欲を抱かない生き方を、どこか穏やかに推奨してみせる。ガレノスの希文はちょっと凝っているのか読みにくいので、辞書引きその他で時間がかかるけれど、なにかこの文体からも、飄々とした孤高の学者という風情が湧き出てくるような気がして好感がもてる。校注者ら(V. ブードン=ミヨー、J.ジュアンナ)が巻頭に載せている序文によれば、この文章はガレノスの生涯やその書物の収集などについても貴重な資料となっているのだという。

内面化と社会化と

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)文庫化されたフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)』(中島隆博、志野好伸訳、講談社、2017)を読んでいるところ。まだ全体の4割ほど。原著は1996年、もとの邦訳は2002年刊。西欧では「道徳」というものの根拠をめぐる議論がルソーとカントを経て行き詰まり、ニーチェをもって道徳の論争史的な対話の方向へとシフトした、と著者のジュリアンは言う。その上で、ニーチェのその立場を継承し、より豊かな対話のために中国の思想と照らし合わせることを試みる。ここで持ち出されるのは孟子の思想だ。それによって、西欧と中国それぞれの道徳論が何を考察していないか、あるいは何を考察しないことによって成り立っているのか、をあぶり出し、それぞれの見識をより広いパースペクティブに開けないかと問い直す。とても野心的な試みだ。翻訳もすこぶる読みやすい。で、「憐れみ」について取り上げた最初の章からまずもって明らかになることは、ルソーがそうした「憐れみ」を想像力の問題として個人の内面へと掘り下げていくのに対して、孟子はそれを自然的な反応として捉え、社会的なネットワークの関係性の中へと拡げていこうとするということ。垂直方向と水平方向、と言ってもよい。孟子の側でももちろん内面は問題にはなるものの、それをカントのように定言命法には仕立てない。孟子において道徳というのは「拡充」するだけなのだ、とジュリアンは解釈する。このあたりはいわば最初の「掴み」の部分なのだが、まさに読み手をぐいっと引き込むことに成功している感じ。そこから、西欧のように命じる内なる声としての超越的存在ではなく、「調整する理」としての天の概念とか、本性としての潜在的な性善説といった、孟子の思想的な広がりが語られていく。