先日まで呼んでいたインゴルド本は、ある意味世界というものの混合状況、さらに言えば一元論的なものへの回帰と捉えることもできそうだ。で、これはインゴルドに限らず、ある種のパラダイムシフトとして進行しつつあるような印象をも受ける。たとえば、そうしたシフト感を強く訴えているものとして、エマヌエレ・コッチャの『植物生命論』(Emmanuele Coccia, La vie des plantes : Une métaphysique du mélange, Éditions Payot & Rivage, 2016)がある。以前アヴェロエス主義をめぐる著書が興味深かった同著者は、文献学的なものから哲学エッセイのほうへと重点を移しているように見える。伊語からの翻訳ではなく仏語で書かれたらしいこの著書は、植物というものが、動物全般の、ひいては人間の生を下支えしているのに、考察の対象としては限定的にしか取り上げられない状況から説き起こし、植物を核に据えた哲学的な考察をめぐらしたもの。その考察は、単に植物の生態などにはとうてい収まらない、あらゆるものが混合するという突き抜けた壮大な世界観にまで広がっていく。まさに上記のパラダイムシフト的な前衛、野心作という感じだ。
前回取り上げたプロティノスの『第31論文』(Traite 31 Sur La Beaute Intelligible (Bibliotheque Des Textes Philosophiques))。ここで問われているのは、知性にとっての美や知解対象の美というものをどう考えればよいかという問題。当然ながらそれは感覚的な美ではなく、狭い意味での「見る」「聞く」といった感覚にもとづく美的な感性では太刀打ちできない。そもそもそうした知的な「美」とは何かといえば、プロティノスによると、どうやらそれは調和の取れた、組織立った(秩序立った)全体のことだとされているようだ。つまりそれはコスモス(宇宙)そのもの、世界そのものだということになる。そうした全体こそが知的に言うところの「美」そのものであるとするなら、それを感覚に依らずに味わう・捉えるとはどういうことなのだろうか。プロティノスは、そのような美を知るには、みずからがその全体に合一する以外にない、とする。みずからがその秩序・組織に与すること。感覚器官ではなく、全身・全体でその美に合一する、というわけだ。はき違えてはならないのは、その美はコスモスとイコールである以上、この上なく壮麗なもの、一点の曇りもない完全性だということ。神との一体性、と言ってもよい。全体とはまさに無限の総体であって、地上に現に存在するような、どこか不完全さをもつ諸「事物」の美などではない。合一的な思想はどこか危ういとか言われるけれども、それは一つには、そうした不完全さをもつ現実的事象を、無限の全体と取り違えてしまうからなのだろう。弊害はまずもってその全体の「矮小化」にあるのではないか……。