「日曜哲学」カテゴリーアーカイブ

アーレントによるソクラテス(または思考と道徳)

責任と判断 (ちくま学芸文庫)今年も年越し本(読みかけで年を越した本)がいくつか。そのうちの一つが、ハンナ・アレント『責任と判断 (ちくま学芸文庫)』(ジェローム・コーン編、中山元訳、筑摩書房、2016)。もとの邦訳は2007年刊。アーレント(個人的には慣例的にこの表記を用いている)の道徳論を中心に、情況への発言なども合わせて収録した一冊。とりわけ、思考と道徳との関係性についての考察が大きな比重を占めているように思われる。とりわけ重要とされるのは、最も長大な「道徳哲学のいくつかの問題」(1965年から66年)という連続講義だけれど、より端的に思考と道徳の関係性を扱っているのは「思考と道徳の問題–W. H. オーデンに捧げる」(1971年)という文章。アーレントによると、たとえばカントは、人間の意志には「理性的根拠にも「ノー」と言うことができる」として、義務の概念を導入するという。その義務は自明なものではなく、ただそれに従わない場合の自己への軽蔑という脅しが道徳律を形作るというわけなのだが、アーレントは道徳をめぐるこの構図を、「自己との関わり」という観点でいっそう深めようとする。その際に引き合いに出されるのは、ほかならぬソクラテスだ。というわけで、以下そのあたりの話を簡単に抽出しておく。

ソクラテスにあって問題とされるのは「自己との不一致」だ(『ゴルギアス』)。人は道徳の問題についてたやすく心変わりすると認識される。プラトンはゆえに、『法律』において、法律を書き下ろして「定着させる」ことが必要だと説く(年末にみた『政治家』でも、聖人君子がありえないからこそ法の統治で妥協しなければならないとされていた)。けれどもソクラテスは、そうした法すらもが容易に置き換わってしまうことを憂慮する。立法のプロセスも含めて、議論や言葉、推論は際限なく「歩き回る」のであり、真の説得など到底できないのだ、と。しかしながら、とアーレントは言う。ソクラテスはそこでなお、そうした議論を止めることができない相手として、自己というものがあるとしている、と。「一人のうちにいる二人」としての自己。そしてこの自己との一致(もちろん不一致もありうる)こそが、倫理の基本になるとされる。悪しきことをした自己と一生過ごすことを、人は堪えられないというわけだ。

ただしこれには一つの前提がある。それは自己との対峙は思考を通じてなされるということだ。思考というものは元来、純粋に内的な営為であることから、現実的な秩序、あるいは「現れの世界」の外にあるものとされる。一般的な常識に反するなど、一見して「役に立たない」ものでもある。あるいはそれは一種のシニシズム、ニヒリズムをも呼び覚ます危険な営為でもありうる。けれどもそうした思考がなされない場合、自己との一致は目されず、悪しきことへの規制もかけられない、とソクラテスは言うのだ、とアーレント。内的な対話を放棄してしまうなら(そのような事態はいともたやすく、しかもたびたび起きてしまう)、もはや倫理の芽は摘み取られるしかない。人が組織の歯車になるような事態は、まさにそうした思考の放棄に連動している。ひとたび犯罪などの悪しきことをなせば、そのことは忘れ去られ、顧みられることはない。もちろん、思考がもたらすそうした道徳性にはおのずと限界がある、とアーレントは言う。ただ、その規制的歯止めがまったくなくなれば、極端な悪すら起こりうる……。問題の大きさに対して、示される処方が一見なんとも非力に見えてしまうが、それでもなお、これがまさしくベースラインをなしている、とアーレントは見る。この上にアーレントは、「力の余剰」とされる意志の問題をカントに即して考察しようとする。そうした意志の判断もまた、思考に密接に結びついているのだ、と……。

さしあたり、ここに関連して、偽書かもしれないとされる『ヒッピアス(大)』とプラトンの書簡集を読むことが今年の課題の一つに浮上した。

主体論の深度

〈私〉の哲学を哲学する先に触れたアラン・ド・リベラの主体の考古学は、歴史的な事象をアナクロ的に行き来しつつ、その主体という問題圏を多面的に(立体的に?)浮かび上がらせようとする試みと見ることができる。それはときに、思想史的な論究を越えて、その哲学的な問題そのものの深みに潜って行きさえする印象だ。それに類する哲学的な論究で、邦語で読めるものとして代表的なのはというと、永井均氏などの哲学的思索がある。というわけで、積ん読の山から、同氏ほかによる論集〈私〉の哲学を哲学する』(講談社、2010)を読んでみた。基本的に永井氏の一連の著作をめぐるシンポジウムの記録ということなのだけれど、参加している各人(入不二基義、上野修、青山拓央)の応答などが大変興味深い。個人的に永井氏の著作は網羅的に追っているわけでもないのだけれど、いくつかは既読なので、さほど抵抗感なく議論を追うことができる(ように思う)。議論はいくつかのトピックを中心にめぐっていく。その一つで、前半のメインになるのが、「無内包」の概念(語義的には概念が内包されていないということなので、これは妙な言い方になってしまうけれど)。「私」というものの問いを突き詰め、構造的にその成立条件へと遡ろうとするときに行き着く(そして問題となる)、実体的な拠り所のなさを語る言葉だ。

それはいわば前言語的な段階へのアプローチ。コンピュータにたとえるなら、機械語のレベルに遡る試みは現象学などにも見られるものの、こちら永井哲学はある意味、ほとんどBIOSにまで迫ろうとする話のようにも見える。もちろん、それ自体を高次の言語の側からのぞき見ることは不可能なのだけれど、その段階にあってもなお、なんらかの原初の痕跡をどこかに探れないかと健闘しているかのようだ。そんなわけで、そうしたアプローチの一つという意味では、永井氏の「第0次内包」や、入不二氏が批判的に示唆する「マイナス内包」といった区分けは、永井氏曰く「どちらでもよい」ような話ではある。もちろん、だからといってそれが刺激的な議論にならないわけではないのだけれど。

デカルトの言う「コギト」の内実もまた、現実でないわけにはいかない唯一のもの(上野氏)ではあるけれども、それ自体は前言語的な何かでしかない。それを考えるのが永井氏による主体の開闢論、ということになるわけなのだが、上野氏はそこに、ラカンのシニフィアンの構造(他者が言う「私」を、主体が自分を指す「私」として取り込むという逆転現象の理拠)とデイヴィドソンの真理についての根源的解釈(意味がわかるということは、その発話が真になる真理条件を知っていなくてはならない云々)を繋ぐという、とても意義深い解釈を差し挟んでいる。また、一方で青山氏が提起したような、様相理論で言うところの可能世界と、他者が主体として抱くであろう世界との差異の問題(様相と指標の大きな違いは、実在性についての直観だとされる)なども、同様に興味を誘うところだ(これに対する永井氏の応答では、氏の「独在論」に則るならば、どちらも「場所」と「発話の口」がないがゆえに、実在しえないとされる)……。分析哲学系の微細な話と、主体の構造的な捻れの話などが絶妙に接合されて、同書はとても豊かな意味論的空間を開いてみせる。もちろん、そうした問題に携わる際の、言語そのものに内在する不自由さのようなもの(それと格闘するのがすなわち哲学だ)も、如実に示されたりするのだが……。

[時勢]保守とは何かを考え直す

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)時勢の話が続くけれど、ご勘弁のほどを。このところの時勢の流れを見て、アメリカの保守主義について押さえておくことはとても重要かもしれない、と改めて思った。というわけで、宇野重規『保守主義とは何か – 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)』(中央公論新社、2016)を読んでみる。著者曰く同書は、「必ずしも自らを保守主義者とは考えていない」者による、外的な視点での保守主義論だという(あとがきより)。この、外部に立つという姿勢は、ある意味共感を呼ぶスタンスではある。実際、同書はまさしく、主に欧州(というか英国)とアメリカ(ついでに日本にも触れているが)についての歴史的保守主義論。フランス革命に対するある種の反動として制度の維持・保守を訴えた17世紀の英国人エドマンド・バークから始まり、20世紀のエリオット、ハイエク、オークショットなどが紹介されていくのだけれど、やはり同書のハイライトはアメリカを扱った第三章という感じ。「大きな政府」に対抗するという特殊なスタンスが、アメリカの軸線として浮かび上がる。中心となるのはいわゆるリバタリアニズム。フリードマンとかノージックとかが中心人物となるわけだけれど、これが草の根のティーパーティー運動(もとはボストン茶会事件に由来するのだそうで、課税反対・小さな政府をスローガンにしている)にまで流れ込んでいくという。なるほど、だからソローもその文脈で取り上げられたわけか。一方で今やバリバリの保守とされるネオコンは、よく知られているようにもとは転向左翼。それがリベラル反共主義、ある種のリアリズムを経て、新保守主義へと移り変わっていった、という話。アメリカの保守派はまったくもって一枚岩ではないということが、改めて浮かび上がる。さて、次のトランプ政権はどういう位置づけになるのかしら……。

ソローを読む

市民の反抗―他五篇 (岩波文庫)19世紀の作家ヘンリー・ソローというと、『森の生活』ばかりが有名という印象だけれど、もう一つ忘れてならないのは、反抗的人間という側面もあるということだ。というわけで、いまさらではあるけれど、意外だった米国の大統領選以来、ちびちびと市民の反抗―他五篇 (岩波文庫)』(飯田実訳、岩波書店、1997)を改めて読んでいるところ。この表題作「市民の抵抗」がやはり凄まじい。基本的に大きな政府を批判しているということで、ソローは一時、新自由主義(というかリバタリアン?)の連中の議論で取り込まれたりもしていたそうなのだけれど、そんなチンケな枠組みに押し込めて矮小化できるような論者ではまったくない。不正を働く(戦争など)ような政府をそもそもいっさい認めず、日和見的な態度を一蹴し、一言で言って積極的で孤高の否定を貫く。連帯に向けて行動する人ではない。ただひすら散発的に反抗を示すことが、たとえそこに相互の連携がなくとも、大きなうねりの発端をなすのだという信念に貫かれた人物像だ。巻末の解説にも、これは同じく所収の「ブラウン大尉を弁護して」についてのコメントだが、ソローは決して、納税拒否のような穏当な手段による平和革命、非暴力的不服従運動を提唱しているわけではないと記されている。そんなわけでカミュなどともまたずいぶん違う印象の、アメリカを憂うしなやかな知性といったところか。で、その精神はどこか今なおアメリカに息づいている気がしなくもない(トランプ選出後の人々の動きとか)。それは少しうらやましいところでもある……。

ルイスの可能世界……

世界の複数性について
早読みできない・しても仕方ない部類のものとして今秋最大の一冊といえば、個人的にはやはりディヴィッド・ルイス『世界の複数性について』(出口康夫監訳、名古屋大学出版局、2016)。少し前からちびちびと読んでいるところ。でもって、さっぱりはかどらない(苦笑)。まだ一章が終わっておらず、その末尾あたりをウロウロしている。でもその様相理論(様相実在論)の考え方はなかなか興味深い、ということだけはわかる。「〜は可能である」「〜は可能でない」といった様相を伴った命題を、集合論的な考え方で捉え直すというのは、その命題の論理的な関係性、あるいは記述的妥当性を、大きく拡張することになる。たとえば「Aは可能である」という命題は真になるが、「Bは可能である」という命題は偽であるとされるような場合でも、それらの真偽の線引きを集合によって説明するならば、それらは別々の集合の要素ということになって、命題としての妥当性においては両者はともに同等ということになる。ただそれぞれの属する集合、つまりはそれぞれの立脚する世界が違うことによって、相対的・構成的に真理値が異なってくるだけだ、と……。

この集合論的な考え方は、思考ばかりか、たとえば言語そのものの捉え方などにも適用されうる、という。ルイスは人工的なミニチュア言語を想定し、たとえば修飾詞や結合詞などについて、それを「意味論的値を返すもの」という考え方で一種の関数と見なしている。文の意味論的値を真理値と同一視すると、それら修飾詞や結合詞は、その文の真理値を受け取って、真理値を返す関数となる(たとえば「真」を受け取って「偽」を返すとか、「偽」を受け取って「真」を返すとかetc)……。このあたり、なにやら大昔に読んだ、計算機での自然言語処理の教科書本を少しだけ思い出す(笑)。