「懐疑論の系譜」カテゴリーアーカイブ

セクストス・エンペイリコス

Outlines of Pyrrhonism (Loeb Classical Library)懐疑論の系譜ということで、少し前からセクストス・エンペイリコス(前2世紀)の主著『ピュロン主義概要』をLoeb版で読んでいる(Outlines of Pyrrhonism (Loeb Classical Library), tra. R.G. Bury, Harverd Univ. Press, 1933)。まだ第一巻が終わったところ。一巻はピュロン主義(懐疑論)の概要をまとめた後、エポケー(判断停止)に至る一〇の方途ほかを示し、さらにピュロン主義が用いる表現の解説が続き、その後、他の哲学各派との違いを列挙していき、最後にアカデメイアとの違いを提示するという構成になっている。個人的に興味深いのは、前半の主要部分を占める、エポケーに至る方途だ。伝統的な一〇の方途とは、次のような差異にもとづくものとされる。(1)動物性、(2)人間性、(3)感覚器官、(4)環境要因、(5)場所、(6)混成、(7)対象の量や構成、(8)関係性、(9)一貫性・稀少性、(10)倫理・慣習。これに後からのものとして、論理学的な五つの方途(矛盾、無限後退、相対性、仮定、循環論法)、さらに認識論的な二つの方途(直接的な対象把持の不可能性、他の事物を手段とする対象把持の不可能性)が付加されている。いずれにせよ、これらの諸要素によって事物(対象)は不確定なものであることが喚起され、結果的に判断停止という宙吊り状態に置かれなくてはならなくなる。エンペイリコスが描くエポケーは、このように広く網羅的で、ある意味徹底している。それはなんらかの真理を抱く哲学諸派を、ドグマティストとして一蹴しているところからも窺える。一方でエポケーはその都度の、さしあたっての平静を保つための優れた方途であるようにも見え、それはとても慎重な議論でもある……。とくにそのあたりの慎重さを中心に、さらに二巻以降の議論の深まりに注目したいと思っているところだ(面白い箇所があればメモを取ろう)。

ちなみに、17世紀のガッサンディも研究していたというこの懐疑論だが、『ケンブリッジ・ルネサンス哲学史』(The Cambridge History of Renaissance Philosophy, ed. C. B. Schmitt et al. Cambridge Univ. Press, 1988)の付録の記述によると、エンペイリコスのテキストは部分的なラテン語訳が中世からあったものの、ギリシア語の写本がイタリアで出回るのは15世紀初頭からで、サヴォナローラのサークルで本格的な研究がなされたという。ピコ・デラ・ミランドラとかもエンペイリコスのテキストを多用しているのだとか。アンリ・エティエンヌとジェンティアン・エルヴェによるラテン語訳(1562)を経て、モンテーニュ以降、16世紀後半には様々な論者がそれを活用するようになり、1621年にようやくギリシア語のテキストがフルに印刷本として刊行される(別の資料には1617年とあったりもするが……このあたりは不明)。

ヒューム論への取っ掛かり

ヒューム (ちくま学芸文庫)ドゥルーズとアンドレ・クレソンなる人物との共著とされる小著ヒューム (ちくま学芸文庫)』(合田正人訳、筑摩書房)を読んでみた。ドゥルーズのカント論がそうだったように、ここでもヒュームの思想にある種の一貫した流れ、全体を通じての思想的命脈を掘り下げるという作業がなされているようだ。その筋道の一つはもちろん複合的観念の成立という問題。観念がいかに束をなすかという議論は、複合的なものが単純なものから成るという考え方において原子論とも結びつくし、さらにはニュートン的引力の考え方とも関係する(引力がどんなものかはわからなくても、物体同士が引き合うことはわかるように、観念同士を結びつけるものがわからなくても、観念同士が結びつくことはわかる、とされる)。それを突き詰めていくと「実体」なるものの存在を否定するところにまで至り、さらには自己の実体性までうち捨てられる。その先に残るのは想像力以外にない、ということに。後半では、芸術・道徳・宗教がもつ意味合いが、観念を束ねる想像力との絡みで検討されている。そこでドゥルーズが前面に出してくるのは、相反するもの同士の表裏一体の関係性だ。拡張と矯正、自然と人為、さらには偶然的なものと一般的なものなどなど。たとえば道徳性について。自然な「同情・共感」は「道徳的一般性に至る」とされるものの、「道徳的一般性に至るためには、同情・共感はその広がりを制限しなければならない」(p.67)といい、そこに図式ないし規則(正義という)という形で人為的なものを持ち込まなければならないという逆説が強調される。複数の特殊で偶有的な利害を損なわずに道徳性を全体に行き渡らせるには、一般規則が必要となる。けれどもそのような一般規則(それは所有の権利、所有の安定を意味すると言われる)は、広がりによって薄まっていく情念の自然な強度を保つために、人為的な補完(忠誠だと言われる)が必要だとされる。正義は目的ではなく、情念を満足させるための手段であり、情念の満足は人為的な満足しかないのだという。

訳者による解説も読み応えがある。「共著」の割り振りについての推論、「超越論的経験論」の出自(デリダが明かすにように、直接的にはフッサールに由来するもの……なのか?)、ヒュームの思想的受容の系譜、ヒュームとシステム論、ドゥルーズ解釈によるヒューム経験論の射程などなど。おそらくこの解説だけでも、微妙に取っつきにくい(と個人的にも思う)『経験論と主体性』への良い手引きになっている印象で、なかなかお買い得なのではないかと思う(笑)。