放言日記「かくのごとく」ログ - 1999年12月〜2000年4月

05/01: i-mode再び…2
考えてみると、i-modeってAOLと同じように、Webサービスにある種の「ラッパー」(とでもいえるもの)を施して、自社規格を通じてのみサービスが提供されているかように振舞っている。「AOLは自分がインターネットになりたいのだ」みたいなことが言われていたが、i-modeもまさにそうだ。しかも課金までする。確かに賢い商売だが、実際には他人のフンドシで相撲を取っているようなものだ。こういうのが乱立してきたら大変かも。少なくともWebサービスは、もしそういうことになっていくなら、内破しないわけにいかないのでは?しかもi-modeの場合は一元管理だという。これっていわゆるパソコン通信への先祖返り状態?だけれど一元・集中管理が実は脆弱だってことはさんざん言われてきたじゃないの。分散化、それがキーだ。安全管理にとってもそうだし、自由主義経済に絡め取られることへの抵抗についてもそうだ。
04/29: i-mode再び…
DoCoMoのi-modeにまたしても障害が発生したという。うーん、結局あまりに安易すぎる接続に、誰もが殺到してしまうということなんだろう。あれだけ販売攻勢をかけているんだから、もう少し基本インフラに還元しろよと言いたくなる。それからいくら画面が小さいからとって、半角文字を多用するのも困ったもんだ。インターネットでは基本的に半角はご法度だったはずでは?画期的とされる「コンテンツのバイト数で課金する」というやり方も、画面が小さいから可能なのだろうが、これだけの小さな画面では本格的な情報端末としてはほとんど使えないだろう。結局はお遊びものでしかなく、それはそれで需要があるのだろうけれど、このままだと本当に単なる「バカメディア」で終わってしまうように思える。
04/23: 腐れスピーチ
昨日はパソコン通信時代からの知合いの結婚披露(疲労?)パーティ。言っちゃあ悪いが、会場の某ドイツ料理屋の規模の割に人数が多すぎてイモ洗い状態だった。ここは湘南海岸か?まあ、お決まりのビンゴとかあって、それなりに盛り上がったようだったが、それにしても最後の、新婦の上司だとかいう野郎のスピーチは何だありゃ?取引のある会社同士に務める二人だったのをいいことに、この上司、「◯◯社と××社の二人のご結婚ということで、今後とも一つよろしく」みたいな営業話をしやがったのだ。てめ〜それで祝福してるつもりかよ。こういう馬鹿なのが上司だなんてご愁傷様だ。TPOのわからん奴を出世なんかさせてはいかん。まったくもって最後に不愉快な思いをした。会場にいた人々のおそらく大多数がそう感じたはず。この大馬鹿野郎!
04/21: EZ Vison
ゴールデンウィーク前進行という感じで、慌ただしい一週間をようやく乗り切ったので、少し遊ぼうと思い、midiキーボードに付属していたシーケンサソフトのバージョンアップをしたら、キーボード(兼音源)経由で音がしなくなってしまった。EZ VisionのMac版。なんかドライバがちゃんとインストールされていないみたい。QuickTime経由ならばちゃんと音がでるので、まあいいかと…。音符入力でトルヴェール音楽などの楽譜を打ち込んでいるのだが、これがまた、なかなか楽しい作業なのだ。

今月の『Software Design』誌には、Linuxでのグラフィック系、midi系などのソフトが紹介されている。徐々にLinux方面もソフトが拡充してきてはいるみたいだが、キラーアプリケーションみたいなものは出ていない。紹介されているものだって、ほとんどが既存のプラットフォーム、つまりWindowsとかMacとかにあるようなものばかり…。なんだかなあという感じがしなくもない。仕事で使えるOfficeみたいなものが出てこなければ一般普及もまだまだだろうしねえ。Sunが進めているというStar Officeだっけ?あれの日本語版が出れば状況はよくなってくるだろうが、現状ではすっごい中途半端。まだまだだなあ。このまま沈没状態になる可能性も…。


04/14: オーストリア…
「三国人」発言で東京の現知事は、「遺憾だが謝罪はしない」という詭弁を弄して「逃げ」を打った。今仕事のからみでオーストリアの現代史をおさらいしているのだが、都知事の当選も、プロセス的に見るとオーストリアの自由党の台頭と類似の構図をもっているように思える。また、自由党のハイダーは暴言を吐いては撤回することの繰り返しを演じているが、都知事もおんなじようなもんだ。今や東京はオーストリアのケルンテン州と似たような状況にあるということか。うーむ、こんなんでいいわけがない…。
話は変わるが、最近日本のオペラファンなどの間でオーストリア行きを取り止めるケースが続出しているそうだ。でもそれって「抗議」の積極的意味ではなく、結局大半は「なんだかこわいん」みたいな気分でキャンセルしているのではないかと思う(たぶんね)。だけど考え直してみてほしいぞ。そういう文化を守るためにも予定通り現地に行くべきじゃないのか?これだけ国際的に囲い込まれている以上、逆においそれと外国人排斥などはできないはずだ。むしろ、表立った政治以外の場で、オーストリアの人々に制裁を感じとらせ内向をいっそう強めさせてしまい、それが文化の領域にまで及ぶとしたら損失は大きいのではないだろうか。オペラや音楽ファンの方々には、場合によっては現地の抗議運動に参加してもいいぐらいの気概で行っていただきたいものだが…。
04/03: 批評誌のたそがれ…
『批評空間』を久々に手にとってみたら、なんと第II期はこれで終刊とのこと。特集タイトルは「批評と運動」だが、なんともパラドクサルな感じ。巻頭の共同討議でも示されているけれど、今や知識人が批評を展開したってムーブメントにはなりえず、そういう諦観というか、それすらないところから批評を始めるしかないというわけだ。柄谷あたりは情報革命の先にアルタナティブが探れるといったスタンスのようだが、浅田以下の若い参加者はひたすら「醒めて」しまっている。「(運動と切り離されても)批評は批評でいいんだ」というのは、あらかじめなされた敗北宣言でしかなく、「偉大な敗北」とか言われているけれど、最初から分かってて最後にそれを繰り返すんじゃ生産的とはいえないんじゃねーの、とか思ってしまう(ちなみに東浩紀の『存在論的、郵便的』にもそんな感じがあったっけ…)。そういう諦観を意識するのは確かに仕方ないことかもしれないが、今やむしろ柄谷的な「それでも批評は運動でしょ」みたいなスタンスが必要になっているんじゃないか、と…。
03/27: リファレンス
ご多分にもれず昨年唯一ハマッたテレビドラマ『ケイゾク』の映画版を観に行く。どうしようもないギャグの連発に若干閉口しつつも、押井守『うる星やつら2 - ビューティフル・ドリーマー』へのオマージュににんまりとしたものの、推理小説ファン(似非)的に言って「ちょっとフェアでなーい」と思いつつ、アサクラネタでここまで引っ張るのは蛇足じゃ〜、と思ったりして、なんだか落ち着かない作品だった。サブカルチャー的な引用の織物は、これからもいろいろな形で出てくるだろう。だけれどこれも一種の末期症状だと言えなくもない。追い切れないリファレンスというのが当然出てくるだろうが、それらのデッドストックが一定量を越えると、織物はほつれ、やがて解体する…。観終ってそんな危惧を抱いたのだが…?
03/25: 予習が必要な映画
新刊の訳書(レジス・ドブレの著書)を某センセーに謹呈したら、そのお礼に(?)と、日仏学院で開催中の「クリス・マルケル特集上映」の案内をいただいた。マルケルといえば第一級のドキュメンタリー作家。で、ドブレとは革命のドキュメンタリーの製作を通じて長年の友人なのだそうだ。うーん、知らなかったなあ。で、今日は同センセーお薦めの『アレクサンドルの墓』を観に出かける。併映の『ふくろうの遺産-8 音楽あるいは内的空間』はなかなか面白かったのだが、不覚にも『アレクサンドル…』では眠ってしまった…(苦笑)。この映画、アレクサンドル・メドヴェトキンというロシアの映画作家の足跡を追いながらソ連の歴史を浮かび上がらせるというものなのだが、メトヴェトキンの作品なんて観たことがなく、またソ連の歴史のおさらいも怠ったせいで、強烈な睡魔の餌食になってしまう…。うーん、こういう映画はやはり予習が必要だなあ。今回の特集期間では再映はないようだが、次の機会があったら必ず予習してから行くことにしよう。久々に予習の必要な映画だった…。
03/18: SIC
SICとはScience de l'information et de communication(情報コミュニケーション科学)のこと。日本でも研究している人は少なからずいるだろうけれど、在野にとどまっていると、どうもその最先端の状況というのがなかなか見えてこない。主要文献も翻訳されないままだ。で、この状況を打破しようという在仏の若手の研究者の方がサイトを立ち上げているのでご紹介しておこう。「SICの部屋」がそれだ。メールマガジンも立ち上げており、こうした活動がSICの日本での普及・啓蒙につながっていくことを切に願う。ぜひ行ってみていただきたい。
03/17: iモード
最近はPHSもさっぱり使っていないのだが(古い機種だからね)、利用者数があっという間にniftyを抜いたとかいうiモードを試そうと、Docomoの携帯に加入してみた。この表示形式はどうやらhtmlのサブセットらしいが、コンテンツ的には結構貧弱だ。たとえば「チケットぴあ」なんか、画面上で予約できるのかと思いきや、Pコード予約に繋がるだけ。文字数制限のためニュースも皮相的なものになってしまう。メールの入力も馴れないと文字の打ち込みが超面倒。まだちょっと使えんなあ。でもネットに繋ぐ上でのこの手軽さは確かに大きな利点だ。可能性も感じられる。もう少し大きくてもいいから、手軽な情報端末が出現してほしいところだ。本当は海外でも使えると嬉しいのだが、そういえばイリジウムなんて新規加入を中止してしまったし…。
03/14: 「議論のための議論」
このところ、どうも「議論のための議論」に横滑べりしかかっているような本が目につく。たとえばちょうど読んだばかりの菅野楯樹『恣意性の神話』(勁草書房、1999)。ソシュールはもちろん、パースの記号論(有名な三分割)をも批判して、新しい「記号機能の分類」を打ち出すという野心作なのだけど、そこから芸術(美術)への応用に話が向かう時、芸術の解読理論の提唱というより、その記号機能分類の確認という様相を呈してくるのがどうも気になる。あるいは大澤真幸『恋愛の不可能性について』(春秋社、1998)。クリプキの固有名詞論から、他者の問題を捉えかえそうとする試みなのだが、恋愛という現象を持ち込んできても、一体何を理解しなくちゃならないのかが見えてこない(表題から、憑依論的なものを期待していたのだが、そういう展開ではなかったし)。そういえば去る1月に、一般参加オッケーというので、某大学で開かれた某研究会を聴講しに行った時も(「委員会の論理」で知られる中井正一の美学理論についての発表)、やはり引っかかったのは、「論としては確かに面白いけれど、それで中井正一を理解することになるのかしらん」という疑念だった。うーん、学問的営為って、結局はやはり理解のためになければならないと思うんだけど…。というわけで、最近なんだか不満足気味だ。
03/11: 技術大国の落日?
今月号(4月号)の『世界』(岩波書店)は反原発特集だ。その中で、特に1本目の記事の最後で、著者の喬木仁三郎氏がはき捨てるように述べている発言には思わずうなってしまう。引用しておこう。「(…)技術立国とか言いながら、実は日本は非常に技術的に底が浅いんじゃないかということです。安全文化の欠落とか倫理がどうとか言っていますけれども、その前に技術的に底が浅い」(p.88)。数日前の電車の脱線事故も、あるいはそういう不安定な技術的基盤がもたらしたものなのかもしれない。そう考えると空恐ろしい気がする。原因究明や今後の対策が、原子力の場合のようにウヤムヤになってしまっては困る。だが、もしかすると、ウヤムヤにせざるを得ないのは、それだけ足もとがハリボテ化しているからではないか…。「日本はやがて世界の部品生産工場になり下がってしまうかも」という見解もあるが、もしかするとそれ以下になってしまうかもしれないのだ。テレビでもちょっと前に紹介されていたが、下町の工場などにはものすごい技術・技巧が確かに存在する。CADシステムなんか使わなくても、たとえば金属の打ち抜きの正確さは比肩するものがないほどだそうだ(携帯電話がこれほど小型化されたのは、そういう技巧があったからだ)。だけれど問題は、それが生かされない環境が出来上がってしまっていることだという。そうして全体的に、あらゆる細部がハリボテになっていってしまうとしたら…?
03/03: たわけた話
今週は通訳業務などがあって出ずっぱり。出先で昼メシを取っていたら、隣に若い男女が座った。二人とも同じ職場って感じ。で、なんだかしらないけれど、男性の方がパソコンオタク(?)らしく、ひたすら一方的に、マックがどうとか改造マシンがどうとか喋りまくっている(オタクの典型的特徴として、喋っていると声がうわずってくる…)。女性の方は「へ〜、そうなの、ふーん」という感じで流している。男性の方は喋ることが楽しくて仕方ないみたいで、女性の反応になどお構えなし。これじゃ女性の方はメシもまずかろうに、ご愁傷さま。

ハイデガーの立て組みではないが、マシンに熱中することによってそのマシン以外のことが見えなくなる、判断できなくなるという典型がここにある(a-raisonnement)。マシンに溺れる(憑依される?)と、感覚を捕綴するはずのマシンが遮断装置に転じてしまう。そういう意味では、ギブソンなどのサイバーパンクが描く、マゾヒスティックなまでに機械に取り憑かれつつもどこか内省的な人物造形など、現実のマシンの拡散状況においてはとてもあり得ないように思えるのだが…。マシンの遮蔽幕に穴を穿ち、その間隙(echappee)から向こう側を、その先を見据えること。これしかない。機械の牢獄に閉じ込められてたまるか、ってところか。そしてそういう意識化のための解決策の鍵も、やはり技術史にあるのだろう。


02/27: コンコン問題
もう10年以上昔の話になるが、フランスに遊学(というか学をすっとばしてひたすら遊んでいたが)中に、大学の寮のあたりをウロついていたモロッコ出身の不法入国・滞在者がいた。その女性は友人を作ってはそこに転がり込む生活を送っていた(私も数週間ほど転がり込まれたクチだが)のだが、その口ぐせが「Il est con !(あんちくしょう、くそったれ)」という罵り言葉だった。フランス語でconというと俗語で「バカ、アホ」ということ。なんでこれを思い出したかというと、最近あちこちのサイトで(特に、いつも痛快なエッセイで楽しませてくれる『がんばれ!!ゲイツ君』のサイトに詳しい)、Windowsの「コンコン問題」が取り沙汰されているからだ。c:\con\con\conにディレクトリを移そうとすると、システムごと落ちてしまうという話で、Win95/98で生じるという。NT/2000は大丈夫だそうだが、これって結局、コンソールのデバイス名がconだからということらしい。すごいアホな話だよねえ。というわけで、Windowsには思いっきり「Il est con !」と叫んであげよう。
02/23: グーテンベルク生誕600年
あまり知られていないことだが、印刷術の祖、ヨハネス・グーテンベルクは1400年の2月23日に生まれた。ってことはなんと今年生誕600年。うーん、これってなぜ誰も騒がないん?クラシック音楽ファンが、こぞってバッハの没後250年(7月28日)だってんで騒ぐ(?)なら、こちらはむしろグーテンベルクの600年を祝いたいぞ(同じヨハネス/ヨハンだしねえ)。レジス・ドブレも言うように、芸術家はその名を残し、技術者はいともたやすく忘れられてしまう。だが技術者の成し遂げたものも時代を越えて受け継がれていく点では変わりない。広く拡散する点では後者の方が上ですらある。その復権こそがわれわれの課題だ(先日のベルギー行きの際にアントワープにある活版印刷博物館に行ったのだが、アトリエこそ改装中で入れなかったもののなんだか心打たれるものがあった。やはりそれもまた一つも文化なのだ)。グーテンベルクが印刷術を発明したのは1438年、38歳の時だとされる。うーん、やはり偉大な仕事の第一歩はそのあたりの年齢でなされるものなのかもねえ。というわけで、今日は個人的にインド料理屋で飲み食いし(なぜインド料理かに深い意味はないが)、せめてもと盛大に祝ったのだった…。

[訂正とお詫び:3月18日]
グーテンベルクのこの生誕日にはまったく根拠がないことが判明した。大嘘を書いてしまったので、ここに訂正しお詫びさせていただきたい。実際、高宮利行『グーテンベルクの謎』(岩波書店、1998)によると、グーテンベルクの生誕日はおろか、生誕の年も、また没年すら定かではないのだという。具体的な記録は現存しないということだ。個人的に「神話」の餌食になってしまったことを大いに恥じ入っている次第。どうかご勘弁いただきたい…。


02/18: Win2K狂奏曲
15日に帰国したらいきなり各種仕事が。あー、せわしない。相変わらず、今度はWin2Kの発売だとかいって秋葉には人が流れているようだが、なんだかな〜。そんなに盛り上がるほどのもんでもないのに、と思ってしまう。6万3000だがバグがあるという話が伝々されていたりするのに、そんな欠陥システムに飛びつくってのはもうどうかしているとしか言いようがない。そういえばNTの普及率は日本が世界一なのだそうだ。もう末期症状だな、こりゃ。
02/10: ヨーロッパ
Yahooなどが攻撃にあった話は、こちらパリでもそこそこに大きく取り上げられている。先月末には日本でも官庁が攻撃受けまくったばかりだが、ネットのセキュリティ問題がようやくクローズアップされそうな雰囲気だ。そういう方面の研究や開発にもっと資金が投入されることを祈ってやまない。ま、それはともかく、ヨーロッパはいいねえ。この日はブリュッセルに移動したのだけれど、なんかこう、チャラチャラした皮相的な技術革新に振り回されない芯の強さみたいなものを感じる。生活リズムの加速化も、加速すべきところとそうでないところとを分け隔てているというか。そういう姿勢って、これから先とても重要になってくるんじゃないかという気がしている。ま、これもまた追って再考したいと思うのだけれども。
02/04: 大ボケ
3日からパリ入り。で、現地からネットにアクセスしようとカプラーなんぞを買って持って来た(今のカプラーはすごくて、56Kbps対応だという。うーん)。ホテルが安宿なので、おそらくジャックなどはないだろうと思っていたのだが、案の定だった。で、重たいThinkPad 535(1.7キロだったかな)を持ってきたのだけれど、なんと大ボケだったことに気がついた。普段LAN経由でルータの接続ソフトを動かして接続しているせいで、このThinkPadのダイヤルアップツールを削除したままだったのだ!うげ〜。やってしもうた。当然ながらWinのCD-ROMなんて持ってきていないし。打つ手もないので早々にあきらめ、これから約10日間、旅を楽しむことに徹しようと決意する。これぞ天のおぼしめしというところか。まあ、確かに旅先にまでメールに追っかけられるなんてやな生活だからね。
01/24: モバイル…
再びモバイル機探しに。基本的にサブノート持ち歩くのが嫌なので(重いしかさばるし)、探し始めているわけなのだが、どうもいまいち。以前、HPのWindows CEマシンを友人に見せてもらって結構いいなと思った話を記したが、実際に触ってみるとキーが小さすぎて使えそうにない。NECのMobile Gear IIあたりはキーピッチがそこそこ良好だけれど、デザイン的にイマイチ。Windows CEも、なんだかいまいち。それに最近のマシンは、携帯繋ぐのを標準と考えていて、モデムが装着されていなかったりする。それじゃ海外で使えないじゃないの。さらにWindows CE 2.0マシンの一部なんか、重量はともかく、サイズはサブノートとたいして変わらないし。それならVAIOでも買った方がいいのだが、ちょっとそれは予算オーバー。Palm OSのIBM機とかザウルスなど、キーボード別売はやっぱり論外(長めのメールが送れないとどうしようもない)。というわけで結論は「ダメだこりゃ」。結局サブノート持って行くことになるんかしら…。理想的なモバイル機はまだ存在しないことを改めて実感する。
01/20: DTMも始動
近々フランス方面に旅行に行くので、なんかよいモバイルマシンはないかと物色しに秋葉に行ったのだが、めぼしいものが皆無。で、ほとんど衝動買いのノリでMIDIキーボード(いわゆる鍵盤っすね)を買ってしまう。ヤマハのCBX-K1XGというやつ。ミニキーボード(37鍵しかない)なので、あまり実演奏には向かないが、MIDI入力なら後からどうにでもなるしね。さらになんせ音源つき。Mac用ソフトも同梱。うちのLC630は、今やほとんど音楽CD再生マシンと化していて(ごくたまにはMPWでプログラムも書くのだが)、もうちょっとなんか有効利用したいと常々思っていた。「DTM(デスクトップミュージック)やるにはとってもグッドなんだがなあ」と思ってはいたものの、これまでは、音源と入力装置でかなりの初期投資になるという先入観から二の足を踏んでいた。でもさすがはヤマハ。ちゃんと一体型を出してくれていたというわけだ。付属のソフトはデモを見るかぎり、入力した音がそのままリアルタイムで音符表示されるすぐれもの。今ちょっと忙しくてなってきたのでインストールできないのだが、暇になったら本格的に始めたい。運指の練習せねば。
01/17: Y2K的論調…
何もなかったことをいいことに、Y2K問題に週刊誌とかが「騒いだ責任者出てこい」みたいな言い方を始めているみたいだが、これこそ困ったちゃん状態だ。危機管理というものに本当に金をかけない、かけたくない日本的風土まる出し。だけど今やそうはいかんのだぜよ。セキュリティの問題は本当に頭痛い話だけれど、ちゃんとフォローしないとヤバい。いろいろ問題が言われているOutlookなんか使っているなんて人、まだゴマンといるみたいだしねえ。何か事が起こってから騒ぐんじゃ遅いのだが…。それにしてもY2K、「技術者がいろいろ対応したからこそ大丈夫だった」ぐらいの気持ちでいられないもんかね。日本は技術大国だなんて言うわりに、技術者の地位も低く、世間の視線も冷たいのはどういうわけだ?高尚な文化だって、技術のインフラがなけりゃ成立せんのだぞ。もうちょっと技術者にも敬意を払ったらどうなんだ?などと思ってしまう(技術者を翻訳者に置きかえても可)。まじめな話、哲学的思考から技術が放逐されるのは、その放逐自体が哲学的思考を成立させているからだ、などと言われるが(スティグレール)、文化全般もまさにそんな感じ。だけれど今や、文化のただ中に技術の問題を再び置き直してしかるべき時に差しかかっているのだ。21世紀はおそらく、そういう部分からの見直しが必要とされていくんだろうなと。
01/16: Qt本
技術評論社の翻訳記事で以前お世話になっていた編集者の方から、Qtのプログラミング本を送っていただいた。多謝。杉田研治『QtではじめるXプログラミング』(技術評論社)がそれ。最近なんか忙しくてGTK+の方もたまにしかいじれないんだけど、こちらのQtも面白そうだ。GTK+がCなのに対してこちらはC++ベース。なかなかサンプルが多くて助かる。GTK+よりも書き方(引数とかね)がすっきりしているのがよい(C++だから当然か)。うーん、それにしても最近Javaとは超ご無沙汰だな。うちのマシンではちょっと重いので、ちょっとしたツールはやはりCということになってしまう…。そういえば今年に入って早2週間が経過しているのに、プログラムは1行も書いていない。わはは。もう少し暇ができたらいそしもう。
2000/01/09: やばいぞ日本
今月号(2月号)の『世界』(岩波書店)を眺めていて、「バラまかれた『国民の歴史』」(p.34)という記事にちょっとショックを受けた。あの新右翼団体「新しい歴史教科書をつくる会」の関連団体が、ベストセラーとして宣伝されている西尾某の新著(電車の車内広告まで出ている)を、全国的に大量に配ったらしいというのだ。組織力にものを言わせて、一挙に浸透を図ろうということらしい。つまりすでに組織化が進んでいるということなのだ。これはきわめてヤバい状況だ。歴史認識をめぐる議論をやっている間にも、着実にそういう組織化が図られていたわけだ。国旗・国歌をめぐるなし崩し的状況とともに、こういう勢力が組織化されていく…。してやられたという感じは否めない。なぜなら組織が出来上がってしまえば後はなんとでもなるからだ。レジス・ドゥブレ(ドブレ)の指摘を待つまでもなく、「組織こそが力を持つ」のだ。上の記事の著者は早急に対抗組織を作ることを提唱している。だがそのためにはやはり、ボトムアップ型の運動を積み上げていくしかないのだが…。
2000/01/02: バカ親どもに鉄鎚を!
さて、新しいミレニアムになった。幸い、Y2Kは大きな問題にはなっていない。だけれど、今回のことは教訓として長く記憶にとどめてしかるべきだ。こうした問題は、この先いつでも起こりうるんだから。

さて、新年からぶっとばさせて頂くが、それにしても頭に来るのは、年々、舞い込んでくる年賀状のうち、ガキ(赤ん坊)の写真年賀状の比率が高まっていることだ。年齢的にそういう時期だ、で済まされる問題ではない。我慢にも限度ってものがあるんだぜよ。よそ様の赤ん坊の写真を心底可愛いなんて思う奴がいるんでしょうかねえ。もちろん、面と向かった時に見せられれば、社会的コードに従って「可愛いですねえ」ぐらいのことは言う。しかしこうも四方八方から寄こされてはたまらん。だいたい、送られてくる写真の多くは百歩譲っても「可愛くない」ものばかりだ。親にしてみれば、おそらくベストな写真を送っているつもりなんだろうが、それでこのていど…(これ以上言うと友人を多数無くしてしまいそうだが…もう遅いか)。

それよりも問題なのは、写真をあちこちにバラまくという行為についての無自覚さだ。パソコンとプリンタで簡単にできるから、というだけでバラまいている人には、「じゃあ、なぜあんた本人の写真にはしないのか」という問いを突き付けてしかるべきだろう。自分の写真には、どこか隠蔽しておきたい自分の秘部のようなものが唐突に浮かび上る場合がある、あるいは可能性がある(ロラン・バルトのいうプンクトゥムだ)。それは自分のきわめてリアルな身体性、他者性にほかならない。だから多くの人は、私生活での自分の写真をむやみに公開しようとはしないはずだ。だが子どもの写真の場合には、そういうリアルな「おそましい部分」を親が感じとっていないのだ。親にとっての子どもは他者になりきれていない。そこには、均質で「可愛い」という、イマジネールなものだけで覆いつくされてしまうような、通俗的に言うならば「モノ自体」としか見ていない「まなざし」が歴然とある(敷衍するなら、そこから子どもを玩具のように扱う「お受験」競争すら導かれる)。そして「うちでも子どもが出来たら送ろう」という無邪気さによって、こうした「まなざし」が再生産されてしまうのだ。しかし実際のところ、よそ様の子どもの写真は「異様なもの」として現れてくる。もし、自分で写真を送りつける親(あるいは送りつけようと考えている予備軍)が、他人の子どもの写真を見てもそういう部分をまるで感じとれないとしたら、それほどまでにその親(もしくは予備軍)のイマジネールな部分は肥大化してしまっているということになるだろう。早い話、それでは「ずったりべったり」のバカ親でしかない。

例えばヨーロッパでは、写真は暖炉の上に飾るか、あるいは肌身離さずもっているものだ。つまり家族の写真は、あくまで私的、内密なものであり、リアルなもの(自己の身体性)とサンボリックなもの(家族という離散した個人の単位)の間にあって、両者を結ぶ回路の一つとして(イマジネールとは本来そういう中間項ではなかったか)機能する。ところが、日本ではそれを大量に、安易にバラまく。そこにはイマジネールの異様な肥大化が見てとれる。イマジネールの肥大化は、それ以後の子どもの(心的)成長と自立を妨げる要因になりうる。ひいては、人間同士の共存関係すら損なう可能性すらあるかもしれない。だから提言させていただこう。写真年賀状をやめい!あるいは、どうしても送りつけたいなら、親も一緒の写真にしろよ!


12/28: Windows 2000?
年末のあわただしい中ですっかり忘れていたのだが、日経BPからダイレクトメールが来ていた。『日経NT』が『日経Win2000』だか何だかになるという宣伝。アホらし。確実にバクだらけの全面書き換えコードのOSなんか、誰が使うっつんじゃ、という気分だ。NTでは実現していないプラグ&プレイやらUSB対応やら、いろいろ宣伝はなされているけれど、そもそもオフィス向けのワークステーション系、サーバ系でそんな機能なんか誰が要るっつのーだ?冗談もたいがいにしてもらいたい。日経もそんなもんで専門誌作ってるんじゃねーっつの。で、ダイレクトメールは当然ながらゴミ箱直行。

最近、キットラーの『グラモフォン、フィルム、タイプライター』(筑摩書房、1999)を読んだせいで、ちょっと影響を受けている…のかな?コンピュータというのは本来サンボリックな機構の上に成り立っている。それに向かい合うこちら側にはリアルな書き手の身体がある。では、両者の中間にあるUIが、イマジネールなものになっていくのは必然だったんだろうか、という疑問だ。そんなイマジネールなものの厚みが増していくなら、本来のマシンそのものの理解は一層困難にならざるを得ない。さらに問題はもっと複雑だ。フランスでも、そして日本でも、実験的試みとして、小学生の低学年からパソコンに触れさせようという計画が進行中らしいのだが、そこで問題なのは、文字の習得やお絵画きなどをすべてディスプレー上でやらせようとしていることだ。身体感覚のないイマジネールな世界にのみ遊ぶ子供を大量生産しようとしているわけだ。しかも教師の側は、それをパノプティコン(一望展望装置)よろしく、サーバ経由で管理しようとする。そう、パノプティコンというのは、結局のところ、「監視されている」というイマジネールな感覚を植え付ける装置だったはずなのだ。そんな管理システムが大手を振って学校に入り込むとしたら…。考えただけでも空恐ろしい。


12/22: 「ミレニアム・ブルー」
11月に体調をくずして以来、なんだか気分が陰欝で疲労感ばかりが累積している。勝手に命名させてもらうなら、「ミレニアム・ブルー」とでも呼べそうな状態だ。とりたてて1月1日の2000年問題がどうこういうわけでもない。この段になったら、1月1日には、もはやなるようにしかならないだろう。そうではなく、問題なのは、いわば2000年問題なんてものが、1月1日を過ぎればそれで終りというわけではないということだ。なぜ誰もそこの部分を取り沙汰さないのか。2000年問題とはすべての象徴だ。それは1日だけの問題ではないのだ。こんなことを考えるのは、今あらゆることがあまりにもエフェメールだ、はかない、という事実に、このところ改めて直面せざるを得ない事態が続いたからだ。昔書いた文章などが当時のワープロの独自規格のため今は読み込めないなんてのは今に始まったことではない。電源が落ちればCDなんてただのプラスチックに過ぎない(最近スタートさせた古楽蒐集日誌には反するが…)。電話も、ISDNにしていれば電源がなければ使えない。このサイトだってサーバが落ちれば読み込めない。なんだかそんな風にして、人は機器に隷属させられているような気分になる。情報の加速化が、ごく些細な、脆弱なインフラの上に成り立っていることが、最近妙に「不安」なのだ。ネットに転がっている情報や、あるいはコミュニケーションは、その不安を癒すために繁殖しているかのようだ。だが結局はその繁殖がさらに不安を増す。イリイチが言うように、どこかで本当に「プラグを抜く」ことをしないと、本当にヤバいんじゃないか、日に日にそういう感触が強まる。焦燥感のようなものがこみ上げてくる…。
12/17: UNIX系にオサラバする日…?
今月号の『Software Design』誌(特集は「最新OS活用百科」)をながめて、改めて思った。UNIX系のOSは先が短いのではないか、と。Linuxのパッケージの乱立は、早くもほとんど「熱死」状態を思わせるものがある。成熟していない段階で様々なものが乱立すること、それはオープンソース的理念が導く必然かもしれないのでは?オープンソースはビジネスモデルとして扱われることが多いけれど、本質的な部分でそれはビジネスに相反する。そんなことは最初からわかっていたはずなのだが、今の状況はなんだか、そういう本質部分を隠して、「これぞ新しいビジネスモデル」とコンセプトだけをぶち上げて、とりあえずセコく儲けようとしているだけのような気がするのだ。発意的行為が商業行為にからめ取られてしまっては、あとはゆっくりと地盤沈下が起こるだけなのではないだろうか。つられてフリー化したFree Solarisも、ほとんど共倒れ状態になる危険性がある。単なる危惧か?いやそうではない。この話はもうちょっときちんと考えていきたい。余談だが、私は自分が翻訳を担当させてもらっているKyle氏の「政府の介入には反対。なんでも市場原理にまかせればいいじゃないか」という見解には反対だ。政府は信用できないというのはその通りだが、だからといって市場はそんなに「甘く」はない。第3の理念系としてのユーザ(消費者ではない。むしろ「市民」に近いものだ)を育む道を探れないか、と考えているのだが、これも思索を深めないといけない…。
12/6: 「高貴なるチンピラ」…
日仏会館で行われたフランソワ・ドッスの講演会。ドッスといえば最近『構造主義の歴史』の邦訳が刊行されている。講演内容はなんとも抽象的な話だったがそれなりに面白かった。さて質疑応答の時間になり、個人的にもお世話になった某先生が質問された。その質問は「あなたはモノグラフ(専攻論文)を書いたことがないという話だが、専門は何なのか」という、おだやかながらも辛辣ともいうべき問いかけだった。アカデミズムの側からすれば、ごく普通な問いかけなのだろうが、質問を受けた本人もちょっと歯切れの悪い回答をしていた…。

これを見て、ちょっと昔の光景を思い出してしまった。別のある先生の話なのだが、確か日本版『マリ・クレール』誌(当時はちょっとポストモダン的知性を売りにしていた)だったと思う。ガタリが来日した際に対談をしていたのだが、研究室で「ドゥルーズに比べるとガタリはチンピラだね」という感想をもらしていらしたのだ。ガタリもスキゾ分析なんてのを振りかざしてはいたが、確か専攻論文みたいなものはなかったのじゃないだろうか。おそらくニュアンス的に、上の話となにかしら通じるところがあるように思える。そう、アカデミズム系の人からすれば、専攻論文がないなんてのは愚の骨頂、チンピラでしかないということなのだ。なんとも身につまされる話だが、逆に言えば、専攻論文なんてものしか評価の基準をもたないというのは、あまりにも了見が狭いんじゃないかという気がしないでもない。つまり、そんなところにしか、すがるものがないということなんじゃないのかという気さえするのだ。それは一種の権威主義でしかない。学者の中には「私は権威主義がきらいだ」なんて口にする人がいる。だがそういう物言いほど信用できないものはない(もちろん本当に権威主義とは無縁な、そういう意味で立派な方もいるだろうけれど)。おそらく学者なるものは、ほとんどが権威の階層を登るための戦いを経てきている。だが一旦自分が権威になってしまうと、そのことにあまりにも無自覚になってしまう。メディアの自己削除機能(ブーニューの用語)と同じだ。

だから、ここから逆説的に次のように言うことだって可能だろう。つまり、そういう人たちの無自覚を打ち砕くためにこそ、「高貴なるチンピラ」は必要なのだ、と。単なるチンピラではない。それは蔑視と憎悪(?)の対象になりながら、堅実なる「作品」(論文なんぞのチンケなものではない。それは生き様そのものかもしれない)を軌跡に刻むような、そんな存在だ。まさしく、ノマドと言ってもよい。決して軽々しくなく(ドッスやガタリにはどこかしら、ある種の軽さが漂っている。その正体は何だろうか?)、移動することを余義なくされたとしても、あえてそれを潔しとし、自ら進んで僻地だろうが敵地だろうが敢然と赴く。そういう人でありたい、それが今の率直な心持ちだ。それは私個人の、ある種の戦い方になるかもしれない。



Last modified: Tue May 30 20:52:37 JST 2000