放言日記ログ「かくのごとく(Telquel)」ログ - 2001年3月〜8月

08/30: MacOS X導入記 : 日本語環境
ちょっとまとまった時間が取れなかったのだけど、ぼちぼちとやっているMacOS Xの環境整備。Terminal.appが日本語通さないことに嫌気がさして、ネットからJTerminalをゲットする。設定などは「Macintosh Days」あたりに簡潔に書かれている。おお、これはすばらしい。デフォルトで入っていたEmacsだが、JTerminal内でことえりでインライン変換できる。なかなかこれは快適。ついでにnkfやjlessも入れる。コンパイルするのもいいけど、「DarwinJPなページ」あたりがとても便利。XFree86なんかも入れてしまったが、ルートレスで起動できる(XDarwinを入れる)とはいえ、これがAquaとインテグレートされたらどんなにいいだろうと思ってしまう…。
08/26: MacOS X導入記 : samba導入まで
せっかくUNIXになったMacOSなのだから、Windowsのネットワーク(自宅LAN)に加えなくては面白くない。というわけで、『Software Design』6月号の小特集を見て、sambaをインストールすることに。コンパイルが必要になるらしいと思ったので、確認したら、デフォルトではコンパイラが入っていない。で、Appleのサイトから開発者コミュニティ(ADC)に登録し、開発キットをゲットする(単体でOSを買う場合には添付されているらしい)。で、「さあコンパイルだ」と思った時に何気なくソフトウエアダウンロードのページを見たら、なんとsamba 2.2.1がコンパイル済みで掲載されていた。ラッキー(笑)。最近のsambaはSWATなんてのがあって、Webベースで楽に管理できるのが嬉しい。
08/25: 新マシン
「ADSLになったことだし、ここいらでマシンも新しくするかな」と思い立ったが百年目、速攻で新マシンを2台購入。いずれも「書物」をメタファーとする2台だというところが笑えるかも。1つはリストラ問題に揺れる(?)東芝の新版Libretto。Windows 2000標準搭載の奴。XPはまたもや史上サイテーのOSなような気がするので、今のうちにWin2Kにしておこうと思った次第だ。モバイルも視野に入れての選択だが、まあ、とりあえずは自宅用途だからね。セットアップはNT4.0に比べてすっげー楽になっていやがった(笑)。もう一台はAppleの新版iBook。UNIX化したMacOS Xを使ってみるというのが主眼の選択。うーん、しっかしこのインテグレーション、いろいろと問題もあるというのが第一印象。Terminal.appで日本語が通らないことなどを考えると、UNIX環境としてはいきなり5年くらい前に戻った感じだ。これのセットアップの様子は順次ここに記録していくことにしよう。
08/22: 速度
おくればせながら、ISDNをやめてADSLにした。確かに快適で、従来ならばキャッシュのファイルを読み込むような感じの体感速度にはなった(利便さの追求欲についに屈してしまった次第…と考えると情けないんだけど)。ただしうちの場合、ラストマイル問題ならぬUI表示性能問題が(笑)。なんせもう古いマシンなので、表示が遅い。データ転送速度にはそれに見合ったマシンが必要ということなのか。なんだかなあ。ISDNもわずか数年で「遅く」なってしまうというこのご時勢、こんなんでいいのかという気もしなくない。すでにBフレッツなんかも始まってきているし、ADSLも数年の運命かと思うとなんだか虚しいんだけどね。資本主義の究極の形、なんて言われもするこの速度のスパイラル、もはや簡単には引き返せないところに来てしまっていると思うけど、いつかどこかで反転(単なる反動ではなく)するなんてこともありうるのかしら。旋回する機構そのものがオーバーチャージで内破する、なんて事態を、あるいはちゃんと想像しておいた方がいいかもしんないと思ったりも…
08/18: 批判的非専門家
ようやくまとまった時間が出来たので、『現代思想』8月号をぼちぼちと読む。特集はサイエンス・スタディーズ。このところイタリア人医師がクローン人間を作ることを発表した話とか、ES細胞の研究をめぐるゴタゴタとか、さらには遺伝子組替え作物の認可などが報じられ、なんともタイムリーな特集になった気がする。特に面白かったのはブライアン・ウィンによる論考かな。科学技術の当事者たちが、公共の一般人が抱くリスク概念を感情的だと決めつける構造と、実は公共のそうしたリスク概念には知的な裏付けがあることを擁護する内容。専門家が一般公衆に抱く「愚民感」は、利権がらみの政治家が自分の発言への批判をマスコミのせいにするのとよく似た構造をとっていることがわかる。自分たちがある枠組を通してしか懸案とされる事象を見ていないことは巧みに隠され、非専門家の反応が問題として俎上に乗せられることもない。一番危険なのは、やはり「専門家は知的な人たちなんだから、自省的に制御してくれるだろう」なんていう盲信だ。だからこそラディカルな批判がいっそう必要になってくる。そのためには、批判的な非専門家が取るべき言説のあり方というような問題も、改めて考えないといけないだろう…。
08/15: memento mori
お盆というこの時期に、悲報が届いた。大学のサークルの昔の知合いが5月に亡くなったのだそうだ。死因その他詳しいことはわからないが、徐々にそういう年代に差しかかってきたのだなあという感慨を強くした。30代での死というと、それだけでなにか壮絶な感じがしてしまってやり切れないのだが、考えて見ると、あるいはそれは周囲の感傷なのかもしれない。彼岸とか来世とかを信じるかどうかにかかわらず、本人がどういう形でその死を受け入れたか、受け入れることができたのかというのが本当は一番大事なことだ。だけんど凡庸なわれわれは、自分が死ぬということをその最後の瞬間に果してきちんと受け入れて幕引きができるかどうか、なかなか自信をもてないのが普通だろう。メメント・モリ(死を想え)。結局、生というのはその最後の瞬間を受け入れるための壮大な修行期間、準備期間なのかもしれんという意味で、この一句を生きるほかないのかもしれない。亡くなった当人には冥福を祈りたい。
08/12: アヴァロン
劇場公開で見逃していた押井守監督作品『アヴァロン』をおくればせながらビデオで見る。この実写作品、日韓同時公開ということで話題になった。全編ポーランド語で、実際にワルシャワでロケされたという話だったっけね。アヴァロンといえば、アーサー王と円卓の騎士たちが死後運ばれたという西方楽土の島。作品内ではヴァーチャルリアリティのゲームが舞台になっているけど、今回はこういう神話的要素の取り込み、さほど成功していない気もする。とはいえ、現実が一つの幻想的舞台にすぎないというテーマ系は、『ビューティフルドリーマー』『とどのつまり』あたりから一貫しているからね。それにまた音楽がいい。うーん、サントラが欲しくなった。

で、この作品に登場する疑似3Dのコンソールがとてもいい。キャラクタベースで、新規の文字を打ち込むと、前の文字が後退したようにぼやけていくのだ。十字のカーソルもいいなあ。そういえば次世代の3次元ファイラーみたいなものも以前開発されていったけ。最近はそういう話をさっぱり追っていないので現在どうなっているのかわからないけれど、WindowsだろうがMacOSだろうが、さらにはUNIX系のGNOMEだろうが、画面の2次元的メタファーはいいかげん飽きた気がする。そろそろ次の革新が出てきてもいい頃合いじゃないのかしら?


08/07: 一元化の危険
「Sircam」もそうだが「Code Red」も2なんかが出て猛威を振るっている。サイトによっては、この2による無差別パケット攻撃をログから抽出してカウンタにして公開しているところもある(笑)。そういうのを見ると、かなり頻繁に攻撃されていることがわかる。うーむ、凄まじい。MSのIISに責任の一端がある気もするんだけど、MSはだんまりを決め込んでいるようで…

それにしても世の中、仕事の環境はますますWordとExcelだけになりつつある今日この頃。バージョンによって互換性のないファイルをため込んでいくなんてまっぴらごめんなのだけど、これはもう食い止めることのできない流れになってきている感じがする。一元化は便利なのかもしれないが、危機管理の面での脆弱さと、それをカバーしようとする無意味な肥大化を招いてもいる。Office XPのアクティベーション問題なんかを見ていると、まさにそういう感じを強くする(余談ながらWord2002(XP)の情報ページというのがある。インストールする人など必見)。エンドユーザが自分で工夫をするという主体的な関わり方が、大きく制限されてしまっているのも問題だ。思うに特にこの5、6年、コンピュータは間違った方向に大きく振れてしまった気がする。これから逆の振り戻しはできないもんだろうかなあ。


07/26: サーカム
話題のワーム「Sircam」。うちにもちょっと前に送られてきていた奴だった。「アドバイスが欲しくて送りました」みたいなメッセージとともに、docファイルが添付されていた。当然、開かずに即削除。それにしても、ゴミ箱に潜むなど、いろいろ盲点をついてくるワームだというのが新しい。Outlookが一番危ないとのことだが、SMTP機能を自前でもっているので、Outlook使ってなくてもヤバいという話のようだ。ブラウザのキャッシュからメールアドレスを拾い出して、人の文書を勝手にどっかに送りつけるのだという。やれやれ。なんだか発想がP2Pネットワークの考え方とどこか通じている気もするのだが…。
07/24: 音響…
風邪をひいてしまったのだが、ちょっと無理して蜷川演出の『三文オペラ』を観にいく。ブレヒトのテクストにクルト・ヴァイルの音楽…うーん、だけど蜷川演出は写実性と実験性とが中途半端な感じで、しかも歌詞の日本語がうまく旋律に乗っていない感じがして個人的にはノリきれんかった…。ブレヒトのメッセージ性の高い芝居を、こんなメジャーなプロダクションで観てもなあ…という思いも増してしまった感じ。PAの大音響だと、なに歌ってんだかわからんという局面も。うーん…風邪がますます悪化してきた(笑)。

先日、昔の知人らとボサノバギターの店というのに行った時も思ったのだけど、なんでこう、なんでもかんでもPA入れてしまうのだろう?その店はスペース的に小さく、生ギターでまったく問題がないような空間。そこにマイクを持ち込み、しかもミキサーの設定のせいか低音部がさっぱり響かず、妙にスカスカな演奏に聞こえてしまった。ちょっと残念。PA使うなとはもはや言えないご時勢だけど、調整がいい加減なのは困る。先に<東京の夏>音楽祭で西アフリカのグリオの演奏を聴いたけど(古楽蒐集日誌参照)、こちらは低音部をちゃんと響かせている細やかさだった。サウンドエンジニアの腕かしらん?


07/18: メッシュとツリーと
インターネットが「網」ではなくて実際は「ツリー」でしかない、ということは周知の通り。だけれどここに認識論的にも興味深い問題があることも事実だ。『Software Design』誌8月号には、おおいしかつのり「『地域IX』今昔物語…そしてこれから」と題された記事が掲載され、メッシュトポロジの誤解と実際のスタートポロジ(ツリー階層)とが図示され、ネットが東京を中心とするピラミッド構造になっていることを明示している。初期には投資の集中を可能にするという利点もあったこの構造が、今や合理的とはいえなくなっているとし、その代替案として分散化が挙げられている。これは確かに重要なことだ。都市部ばかりのIT革命ではどうしようもないのであって、ブロードバンドの意味付けも含めて具体的な実装を考え直そうという著者の姿勢にも共感が持てる。

しっかしこのツリーがメッシュに見えてしまうというからくり、ポストモダン系のリゾームの比喩なんかも、場合によっては絡め取られているような気もしなくもない。あるいは、メッシュだったはずのものが、いつの間にかツリーに変容している、なんてこともありえないわけではないかもしれない。この間、先に日仏会館で行われたE.グリッサンと加藤周一の講演会(残念ながら行けなかったのだが)をNHKがダイジェスト的に流していた。カリブの文化が混成的・関係的だとするグリッサンの話に、加藤周一が、むしろキリスト教世界の一元的世界観の特殊性をこそ分析すべきだ、みたいな話で応答していたのが印象的だったけど、それにしても、カリブの文化圏が歴史的な認識として起源の神話をもたず、相互の関係性のみで築かれているのだ、という話は、どこまで真実なのかが気になるところだ。グリッサンはそれを、理想としてではなく、むしろ今現に胎動している力であるかのように語っていたと思う。あらゆる文化とはそもそもそんなものだったはずというのがグリッサンの言い分だとすれば、果してそうなのかということと、もしそうならいかにして一元化が起こってくるのかということがちゃんと説明されなければならない。いかにしてメッシュをメッシュのまま維持するかという戦略も、そんな中から拾い上げないといけないだろう…。


07/12: 国内・国外
歴史教科書の修正問題で韓国は対日解放を凍結。右派な人々は「修正要求は内政干渉だ」なんて話をするけれど、国益という観点からしても、むしろ修正に応じない方が利益を害する結果になっていくとは皮肉な話だ。それだけ、今や国の中と外という区分が緩くなってきているということか。グローバリゼーションという現象は、「これはあくまで国内問題」というスタンスをはねつける。今や外部と内部のあいまいな区分の中で、いろいろなことを調整していかなくてはならないということなんだろう。ちょうど『現代思想』の今月号で、ネグリとの共著を出したというマイケル・ハートのインタビュー記事が翻訳で出ていた。「諸国家を演者に見立て、まるでそれらが個人のごとく振る舞う主要な行為主体であるかのように想定しながら、世界情勢を読もうとする現実主義的な立場が、国境の不鮮明化によって、ますます怪しげなものになっていく」(p.112)。この人は「もはや外部は存在しない」とまで主張しているけど、まあ、そこまではいかずとも、外部/内部の像がぼやけているのは確か。これを鮮明化しようとすれば、いろいろな圧轢も産まれるだろうし、まずもってそれは反動的に集中管理をいっそう強化することにもなる。そういう事態だけは避けるべきだと思うんだけどね…。
07/06: キャスター
夕方の某局ニュースに出ているオッサンキャスター。「小泉総理のメールマガジンはHTMLメールにしてカラフルにしたらいい」なんて言ってヒンシュクを買ったと思ったら(HTMLメールはセキュリティ上問題あり。これはもはや常識)、今度は沖縄の米兵による暴行事件が日米首脳会談にプラスになったなどと、良識を疑う発言をしたという。なんなのだ、この無知で横暴なコメントの類は?勉強してないというか、ちゃんと考えてないというか。キャスターなんかを信用しちゃいかんというよい見本だ。別の局の某キャスターも、これ見よがしに英語で現地とのやりとりをやっていて、「見通しはどれくらい明るいのか」という質問で、"How bright is the perspective ... ?"なんて英語を喋っていた。おいおい、How brightはねえだろう。"The futre is bright"とは言えても、"The perspective is bright"ってなんか変でないの?"The perspective is clear"の方がよいんでないかい。それに「どれくらい」という部分も、Howより"To what extent"を使う方がよいと思うのだが…機械翻訳じゃあないんだからね。
07/01: 語学とおちゃらけ…
初めて参加したどこぞの飲み会で、仏語の翻訳なんぞやっていると紹介されたら、本業はドイツ語だという若い兄ちゃんが「おれもちったあやったんだぜ」って感じでなんか一言二言仏語を喋ってみせていた。酒の席でそういうことを平気でやってしまう人って、個人的には苦手だ。というか、なんらかの語学をきちんとやっているなら(ましてやプロだっつんなら)、そんなところで他言語についてのおちゃらけ(たとえ本人はそうは思っていないとしても、客観的にはそんな感じにしか見えん)をやってみせるなんて、神経を疑ってしまう。場を盛り上げようっていうなら話題なんざ他にいくらでもあるだろうにねえ。ま、一応その場は適当に流したけど、やっぱり後味はよくない。そういえば状況はちょっと違うけど、田舎なんかの飲み会などの場所で「フランス語やってんだったら、なんかしゃべってみてよ」なんて要求されることもある。あのなあ、料理人が酒の席で包丁振り回したりするかよ、とかわすことにしているのだけれど、これも大変後味が悪い。相手にしてみりゃ別に興味があるわけでもなく、むしろ「ほんとにできんのか」という悪意が見え隠れしたりする。まったくアホくさい話だ。まさに横並び意識の反映という感じがするのだけれど、それが文化的な心性である以上、教育の影響というのは大きいのかもしれない。理想的には、いろいろな個性の人間が混在することによって、個人相互の能力をレスペクトしあうという風になることなのだが、現実はそう簡単にはいかない。うーむ、この話はある種の組織論に繋げていける・いくべきかも、と改めて思った。
06/18: 疑うこと
池田小学校を襲った犯人、精神病を装っていた話が報道されていた。これだけいろいろな情報が出回ると、こういう偽装も楽に出来てしまうということか。さらには、内実を知らないくせに名称だけ濫用するなんてことも安直に出来てしまう。素人が分かりもせずに「精神分裂病」などの名称を使って、軽いノイローゼになっている人を惑わすなんて話を、最近身近なところで耳にした。「あんた精神分裂病じゃない?」なんて普通の人が言われたら、「バカかこいつ」で済んでしまうけど、ちょっとノイローゼに陥っている人は、たったこれだけのことで底知れない恐怖に襲われてしまうらしいのだ。なんとも罪な話だ。ネットに転がっているいろいろな情報も、結局どこかで裏を取らないと、変な形で影響を受けないとも限らない。とりあえず疑ってかかるという姿勢は、ますます大事になっている気がする。情報リテラシーなんて一時言われていたが、要はそういう根本姿勢なんじゃないかと。
06/13: 公約数…
この間、実家にロースター(魚焼き器)を買って送ることになって、いろいろ見て回ったのだが、最近はたかがロースターでもマイコン制御なのね。魚や野菜のメニュー式ボタンがついていて、それを押せば最適な焼き加減になるという…。うーん、だけど、なにもそこまでしなくても、という気がするんだけど…。こういう最大公約数的なメニュー方式、生活様式の画一化の流れを作っている気がしてやりきれん。焼き加減なんて、自分でどうにでもできる方がよっぽど健全だよな〜。そういえば電子ピアノなどの音にも同じような問題があるとかいう話を前に聞いた。自由に調律できないものは本物ではない、ということか。
06/11: 秋葉
昨日はちょっと用事があって秋葉へ。ついでにパソコンの販売店をちょっとめぐってくる。だけど以前に比べてあまり活気がない気がした(ケータイ売場の方が賑やかだ。もっと賑やかなのは昔と同じく、店内ではなく外の街路だったりするが(笑))。そりゃそうだな。今これといったトピックスがないもんなあ。Office XPのビラ配っていたけど、MSの一元管理なんか絶対やだ〜。OSまで完全にそうなってしまう前に買い替えといた方が無難かという気もしないでもないが…Win Meもちょっとなあ…。Win 2000モデルはさっぱり出回っていないし(企業向けだからか?)。む〜。ハードは東芝の新しいLibretteが触った感触の点でなかなかよかった。今ノート買うとしたらこの辺りか?PowerBook G4やiBookも感触は悪くない(これらはいずれも品薄のようだが)。とはいえマシンの革新性みたいなものがあるわけでもないしなあ…やれやれ、全体に低迷だ。
06/05: 管理社会
今月号の『現代思想』(青土社)、特集は「恐怖の政治学」。で、「構造改革とグローバル資本」と題された斎藤貴男へのインタビューが超恐ろしい。福祉の前線に郵便局をもってくるというところまではいいのだが、実はそこに警察などが絡み、個人情報の管理に乗り出す危険が迫っているのだという。口あたりよく福祉から入ってくる管理社会。うーん、これは空恐ろしい話だ。見えない「ビッグ・ブラザー」(オーウェル)か。教育改革の背景に優生学的言説が控えているというのもかなりヤバい話。ゆとりの教育なんて聞こえはいいが、実は国民全体を愚民扱いしている(エリートだけを優遇する)ということだという。某ノーベル賞受賞者などは遺伝子解析などまで引合す始末だというし。そういえばはるか昔の学生時代、さる知合いが「能力別クラスの方が断然よい」なんてことをホザいていたっけなあ。だけど実際のところ、地方の高校あたりで進路別にクラス分けするだけでも、例えば私立系クラスは国立系クラスに対してルサンチマンを抱き、校内行事の球技大会ともなるといきなりそれが爆発したりする。これはまあ、ガス抜きの場をまがりなりにも与えたということなのだろうけど、ガス抜きで済まないほどにルサンチマンが高まってしまい、それを鎮めるためにより強固な管理が敷かれるとしたら…むぅ、それは最悪だぞ。

なんか支持率9割とかいう首相。これも異常な現象だと思うけど、あのメールマガジンも1億かけて何をやらかそうというのかちょっとウサン臭い気が…メールマガジンだけじゃないんでないの?


06/03: オープンソース…
当り前のことだけど、コンピュータとの接し方において、市販のソフトにばかり頼らず、自分でツールを作ったり工夫したりするというのは建設的なスタンスだ。その上でユーザ同士がそうした工夫の仕方を情報交換できたらそれは便利だろう。さらにその延長に、自由なコミュニティができたら素晴らしい…とまあ、ここまではいい。だけどそう単純には行かないのが世の常。コミュニティとして組織化された段階(つまりはなんらかの利害関係をもった段階)で、監視と排除の論理が生じてくる。そうしなければコミュニティそのものが劣化・荒廃してしまうからだ。OpenBSDに標準で付いていたipfilterの作者がライセンスを変え(コードの自由な変更を原則不可とした)、その結果OpenBSDから放逐されたという話が報じられていたが、まさにオープンソース運動が側面から崩れていく危険性をも感じさせる出来事。フリーのOSをCD収録などして稼ぐ連中がいる一方で、運動の大きな部分を占めているのはボランティアな開発者。従来そういう形で活動してきた人々が、より大きな見返りを求めて事業化に出る…。動きとしては当然出てきておかしくない。むしろ企業が絡むことで、そうした商業論理への取り込みがいっそう奨励・加速される。ボランティアな開発者は、オープンソースに企業論理への対抗原理を見出し、それに賛同して開発に携わってきたはずだが、どうも具体的なコミュニティの中身が、準企業論理というか一種の権威の構造になってしまっている印象も受ける。「なんだ、企業とたいして変わらんじゃないの」と。緩やかな、それでいて強固な(荒廃しない)コミュニティというのは、やっぱり夢の夢でしかないのか…?
05/31: 首相のメルマガ
首相が発行するというメールマガジン。総予算1億と聞いてのけぞった人も多いはず。「一桁多すぎるんじゃないの?」が普通の感想だよね。ハードウエアを新規調達してOSを新規に入れ、運用ソフトを調達して、MSあたりにボラれたにしても、そこまでかかるというのはちょっとねえ…閣僚の資産公開よりも、そのメールマガジンの運営費こそ明細を示せよな〜。ちなみに「らいおんはーと」ってタイトル、SMAPの歌から取ったってのはわかるんだけど、本家は12世紀のリチャード1世(獅子心王)だからなあ。この王、フランスのアキテーヌ公からイングランド国王になり、母親(アリエノール)ゆずりで詩や音楽を愛する一方、十字軍遠征にも精を出した(戦争も好きなんだね)。で、遠征から帰国する際に捕まって、神聖皇帝(ハインリヒ6世)のもとに連れていかれ、多額の身代金を払って解放されたものの、その負担のしわ寄せをうけたイングランド人は不満タラタラとなる…うーん、なんだかこのエピソードを地でいきそうな気がするんだけど(大笑)。つまり、国会でコンサートをやらかそうというほど音楽好きだが、実はひそかに戦争も好きで、米国あたりからは「早うド派手な改革やらんかい」と圧力をかけられ、その重圧に国民は不満爆発…なんて。
05/25: 医療訴訟
ハンセン病訴訟の控訴問題。控訴にならずに済んで本当によかった。「一審をそのまま呑んだら判例として残ってしまうから、形だけ控訴して和解を目指す」なんてまったくお役人的なセコい発想だ。こういう形式主義がはびこるのは本当に窮屈でしかない。確かに役人どもが危惧するような衛生問題はこれからも数多く出てきそうな気配だ。フランスの報道ではアスベスト禍などもこれからだという話が取り上げられているし。情報や物資、環境の共有が加速化している以上、そうした問題は各国でいっそうパラレルに生じてくるはず。病気や衛生問題もまた世界化し、それにまつわる裁判などもまた世界化するというわけか。で、それが避けられないのなら、対応するのはあくまでローカルなのだから、判例がどうこう言うよりも、包括的な対応の枠組をちゃんと整備する方がマシというもの。そういうのってできているのかしらん?なんかあまり聞かないんだけどねえ…。
05/21: 映像的先入観
雑誌『現代ギター』の少し前の号に、「チューブラ・ベルズ」の合奏用アレンジ譜が載っていた。この曲、映画『エクソシスト』のテーマなせいか、やたら不気味がる人もいたりするみたいだが、その解説記事には、「ミニマル・ミュージックの手法を取り入れた、どちらかというと癒し系の音楽だ」ということが書かれていた。なるほどねえ。これを読んで、映像的記憶の影響というのは恐ろしいわな〜、と思ってしまった。先入観はまずもって視覚から与えられるということ。話は違うが、ちょっと前のNHK「芸術劇場」でも、J-classicなどというわけわからん旗印のもと、若手のルックスのいい演奏家の売り出しをかけるプロデューサーが紹介されていた。売れてなんぼなのだから、イメージ作り上げたもん勝ち、中身は二の次、という理屈。ここでは先入観をまず作ってしまえということで、したがって視覚重視型となる。商業論理と結託した視覚重視ほど胸クソ悪いものもない。ならば対抗措置として、今や視覚の猛威をこそ相対化すべきなんでないかしら。まさに視覚の「悪魔祓い」か(笑)。
05/18: 課金スキーム
以前、よせばいいのにVisual C++なんぞを購入したことがあったため、時おりMicrosoftからダイレクトメールが郵送されてくる。で、今回はOffice XPの案内が来た。正規に買うとなかなか高いのが笑える。当然、購入する気なんざこれっぽっちもなし。ご愁傷さま。それにしても、この会社、今後は年間使用料を取ろうなんて考えらしいが、本当にもうどうしようもない。一部にはこれで企業ユーザのLinuxへの転向が加速すると見る向きもあるけど、これまでのデータ資産の問題とかがあるからどうだろね。WordとかExcelとかの文書だけ取ってみても、各企業が大量に溜め込んでいるはずだし、業務アプリケーションをいきなり変えるわけにもいかんだろうしねえ。だから最初の導入時の判断というのはとても大事なことなのに…。とか言ってもはじまらんけど、次に来るものへの開かれた姿勢だけは養っておいた方がいいんでないかい?
05/09: iアプリ
雑誌『C Magzine』の小特集でも取り上げられていたiアプリ。携帯で動くJavaアプリですな。まだ503i系ぐらいしか対応機種がないっつー話じゃなかったっけ。ま、いろいろ出てくるだろうけどね。株価のリアルタイム表示なんてのもあるらしいけど、ほとんどがゲーム。しっかしあんな小さい画面でゲームなんかよくやれるよな、と思ってしまう。ゲームを作っているソフトウエアハウスなどでも(iアプリ仕事ってのもボチボチ発注されているらしい)、ちょっと年配の人たちは「いつか来た道〜」という感じで、さほど乗り気ではないという話を聞いた。まー、そりゃそうでしょ。画面も色も動作も、むちゃくちゃに制限があるわけで、DOS以前の状態。でもそれだったら、昔のポケコンの方がよかった気がする。少なくとも自分でプログラム打ち込んで遊ぶ楽しみが提供されていた。C言語対応の機種とかもあって、学生時代の家庭教師のバイト先(はるか昔の話だが)で、中学生の坊主がそれで遊んでいた。雑誌に載ったプログラムを打ち込んで、ロケットが動くなんて単純なプログラムを組んでいたっけなあ。今は立派なプログラマにでもなっているのだろうか?
05/05: イタリア年
今年は「日本におけるイタリア年」だということで、いろいろな催しが控えているようだ。だけどちょっとね、という気がしないでもない。ちょっと前にニュースでやっていたが、その一環として開かれた「イタリアまつり」は小室哲也が歌を提供したとかいう話。なんなのだ、これは?話題性があるからって、それは無節操に過ぎるというものでないの?だいたいコムロとイタリアなんて関係ないじゃんよ。イタリアに深く関わっているアーティストとかだっているだろうに…。日本人オペラ歌手とか。あるいはイタリアンポップスでも流す方がよっぽどマシ。考えて見ると、数年前の「日本におけるフランス年」も、なんだかさっぱり盛り上がらなかったような気がする。あの年間イベント、なんだったのかしらという気がしないでもない。フランス側とかはどう見ていたのだろう?
05/02: 生物学…
先には第二次大戦中のナチスのホロコースト関与問題なども出て、なにかと話題のIBM。その「国際実務機械」(IBMを直訳するとこうなるかな)社が、なんでも自己回復サーバの開発に着手したという話(詳しくはCNETの記事をどぞ)。生物の自己回復能力をモデルに、不具合をみずから修復してしまうサーバ…うーん、確かにそんなのがあったら、シスアドの仕事の一部は軽減されるかもね。IBMはちょっと前から、これからは生物学だ、というスタンスを取っている。確かにITの先はそういう方面だろうなあと思う。まだ読んでいないけれど、『現代思想』(青土社)の2月臨時増刊は「システム - 生命論の未来」という特集を組んでいた。学際性の高い領域だけに、食らいつくのも大変な分野だろうけどね。ヨーロッパ系のシステム論はやはりドイツだろうという話も以前耳にした。うーむ、やはりちょっと覗いてみたい気もする(笑)。
04/27: 愚民政策…
おそらく今飲み屋に行けば、必ずや話題になっているであろう自民の総裁選(笑)。久しぶりに面白い見世物になったことは確かだが、なんとなく、これまで周辺からじわじわと進められてきた右傾化が、「強いリーダー」の華々しいイメージに粉飾されて一気に進展する感じもしなくはない。筑紫哲也の番組では「中国の文化大革命の時の最初の主張に似ている」ということが指摘されていた。うーむ。強いリーダーは一種の愚民政策に走りやすい。特にこういう不況にあってはなおさらだ。思い切ったことをやるには、反対する側(任意の)に文句を言わせてはダメなので、強硬姿勢こそがモデル化されてしまう。これは一元化の悪しきモデルだ。しかもメディアが動員されて、そういう抑えつけの部分はオブラートでくるまれてしまったら…。だからこれから必要になってくるのは反・リーダーかもしれない。とはいえ自民党の旧来型の土建屋オヤジどもは論外だし、本来そういう立場にあるはずの野党も期待できそうにないし。もしかすると別の意味で危うい状況かも…。
04/24: Kylix
今ちょっと忙しいのだが、そんな中、再び社名が元に戻ったBorland社から優待販売の案内が届いていた。Linux用のビジュアル開発環境「kylix」の案内。言語的にはobject pascal。あの「begin -- end」で囲む構文、妙に懐かしかったりするけどね(その昔、PC98用にTurbo Pascalとか買ったことがあった。結局、さっぱり使わなかったけれど(笑))。部品を台紙にくっつけて、あとは部品相互の処理を書いていくというスタイルは楽でいいけれど、スクラッチから試行錯誤で書く楽しさがあんまりない…。記述スタイルが押しつけられてしまうのだ。「記述が楽になるのはいいことじゃん。後はアイデア勝負でしょ」とも言われるかもしれないが、この記述のための環境(全体的な)というのは、案外、アイデアにもいろいろ影響を及ぼすんじゃないかという気がする。ホームページ一つとってみても、最近グラフィックこてこての個人ページが多いのは(個人的にはホームページはやっぱ文字情報だと思っているけど)、一つにはツールそのものの視覚表現がビジュアル志向になっているからではないかと思う。プログラミングにしても、画面の格好よさ先行で処理のきめ細かさがおざなりになってしまうという心理的傾向があるのではないか、と…。

ま、それにしてもこのKylix、一番のネックはやはり価格だという気がする。優待販売でも結構高いぜよ。しかもライブラリ依存のため、正式サポートはTurboLinuxとRed Hatだけ…。マシンの要求スペックも結構高いしなあ。うーん、このツールでLinux界隈は今後さらに飛躍していけるのだろうか…大いに疑問だ。


04/16: コンビネーションコード
携帯電話を使っていてどうにも頭に来るのが、設定メニューなどの階層の深部に降りる際に番号の組合せコードを使わなければならない点。手もとにあるのはちょっと前の機種だけど、どの数字とどの数字の組合せでどの機能が呼び出せるのか、いちいちマニュアル見ないとわからない。マニュアルが手もとにない時には万事休すだ。よく使う機能なら覚えていても、滅多に設定を変えないものなどはいちいち覚えていられない。しかもおそらく機種依存しているはず。機種を変えれば役に立たない知識になってしまう…。操作キーが少ない場合の対処として出てきたであろうコンビネーションコードだけど、これほど多用されてしまうとゲンナリだ。インターフェース的には決して洗練されていない方式だし、やっぱしょせんは過渡的なものに過ぎないんではないかと。これなら数字同士のコンビネーションではなく、ゲーム機のような機能切替えボタン(AボタンとかBボタンとか)などとの組合せの方がはるかにわかりやすいはずなのだが…。
04/12: デジタルアート…
11日の読売新聞の夕刊に、規模縮小で再開されたというICC(InterCommunication Center:東京オペラシティ内にあるデジタルアート系美術館)の批評話が紹介されていた。インタラクションが売りの展示物は技術先行で、観る側にそのインタラクションを押しつけてくるところに問題あり、という指摘だ。確かにね。アートでの作品世界への没入は、あくまで想像領域でなされるものであって、そういう身体的インタラクションの部分にあるのではない気がする。身体を動かした段階で、想像領域の中断が起こることもしばしばだし。まあ、理想はそうした想像領域の没入感と身体的操作とが混然一体となる、ということなんだろうけど。うーん、現実はほど遠い感じ。あるいは発想の転換が必要かも。そういえば2月に東京のドイツ文化会館(ちなみに青山にあるここの一階のレストランはなかなかよい(笑))で、モニカ・フライシュマン(仮想現実ものの草分け的存在だ)の講演があったのだが、残念ながら逸してしまった。この人などは今どういう風に考えているんだろう、というのが気になるんだけど…(余談ながら、テクノポップなんかもそうだけど、テクノカルチャー系はドイツ方面が意外に充実している気がする)。
04/08: ニーベルング…
一昨日、新国立劇場の『ラインの黄金』の公演を観に。日本では超珍しい『ニーベルングの指輪』のツィクルス公演第一弾。うーん、話には聞いてはいたものの、なんか変な演出。映画のスクリーンを模した完全モジュール式舞台が笑える。全体にちょっとチャチいんだけどね。それにメインじゃない方のキャストのせいか、現代風の格好をしたヴォータン以下、登場人物が全体的に影が薄い。音楽はよくいえばつつがない感じだけど、この演出と一緒になったせいか、ワーグナーがいかに映画音楽っぽいかよくわかった(笑)。なんか終演と同時にブラボーオヤジも出ていたが、そんなにブラボーだったかい?ブラボーのインフレはやめた方が…。うーん、これで本当に4年間続くのかしら?

新演出というのは伝統的な演出が揺るぎないものとしてあるからこそ生きてくるのであって、それ自体が新しい伝統になることを目したものではないだろう。日本の歌舞伎とかを考えてみればよい。現代の服を着た赤穂浪士があってもいいかもしれないが、それはやはり普通の『忠臣蔵』が、演ろうと思えば演れる、観ようと思えば観れる機会が転がっているからこそできる芸当だ。あくまでそれはカウンターカルチャー。とするなら、そうした環境にない日本で(そりゃ情報だけはそりゃ伝わってくるし、ビデオなんかで観れるけどね)、滅多に観れないツィクルスを演るのであれば、やはりそれは伝統的な演出を持ってくる方がはるかによい気がする。そうじゃないと、これからのファンなんか育成されないのでは?(なんだか80年代のスノッブなだけのニューアカが思い起こされる…)


04/06: 文化…
今月号の『現代思想』は特集がロボット。まだちゃんと読んでいないんだけれど、最初の方に連載されている岩谷宏「歩行と思考」にはなんとも閉口。この著者、昔は早くからユーザプログラミングの重要性とか(著者自身が自分で使う前からUNIXを推奨していた(?))、文系的視点に立ったコンピュータのあり方などを説いてそれなりに面白かったのだが、話が世界的規模に及ぶと途端に図式的な思考に陥ってしまう感じがする。その点では、著者が批判するルーチン的な「学者」(ものすごいルサンチマンが込められている。なんかコンプレックスでもあるのかしらん?)とたいして変わらないかも。で、グローバリゼーションをもろ手を挙げて賛美するこの著者は、土着文化には価値はないという感じで、あろうことかマヤやインカは西欧によってグローバル化されたなどと平然と言ってのけるのだ。異文化接触によって文化の変容が生じるのは当り前のことだが、問題はそこに貼り付いてくる征服的な意図だろう。南米へのキリスト教の侵入には、西欧の帝国的な殺戮行為が付随している(竹田英尚『キリスト教のディスクール』(ミネルヴァ書房)に詳しい)。今のグローバリゼーションもまた、ほとんど米国の巨大資本が世界を牛じることでしかなく(それは単に通信技術の問題ではない)、結局それが経済的・環境的な「殺戮」行為を伴っている…。そういう部分をひたすら棚上げして、単に「因習的な硬直化した制度を壊すのだから好ましい」というようなことのみ取り上げるわけにはいかないんでないかと。制度の改革の必要性と、グローバリゼーションの是非とは別ものだし、米国万歳などとはもはやとても言っていられない。グローバリゼーションという言葉で世界規模での国益追求を包み隠そうとしている米国は、ブッシュ政権になってそういう本音を前面に押し出し始めている。そんなものを野放しにしておいていいわけがないでないの。
03/31: USJ
なんか「ユニヴァーサル・スタジオ・ジャパン」のオープンがあちこちで取り上げられている。アメリカの方ではディズニーが珍しく職員を解雇したとか報道されていたが、この不況のまっ只中で新規のテーマパークがオープンするというのも、なんだか妙な話ではある。しかもスヌーピーなんかをマスコットにしたりして…。

個人的にはテーマパークってどうも苦手だ。葛西のディズニーランドはほんの数回しか行ったことがないのだが(しかも大半はアテンド仕事(笑))、どのアトラクションもアラが目立つ感じだった。「暗闇を駆け抜けて恐怖倍増」とか言われていたスペースマウンテンは、目が馴れてくると中の鉄骨構造が見えてしまう。これじゃ「鉄骨マウンテン」でないの、とか思ったし、あのスターウォーズのアトラクションも、ヴァーチャルリアリティなんて言ったところで、結局は座席を傾かせるだけの「経費削減お手軽アトラクション」としか思えないし。極めつけは「イッツ・ア・スモール・ワールド」で、あのどこか耳障りなテーマ曲が鳴りやむと、機械のガッタンゴットンという音だけが響き渡り、不気味な人形がひたすら反復運動を続けるという「ちょー気持悪い」空間に早変わりするのだ…。なんだか全体が途方もないガラクタ市のように思え、しかも人々はその中に完全に閉じ込められる、という感じなのだ。19世紀の博覧会の末裔か…。USJも同じようなもんなんだろうなあ、きっと。


03/28: OS…
去る24日、MacOS Xがついにお目見え。で、時を同じくしてWindows XPのセカンドベータもリリース。だけど昔のOS戦争みたいなノリはほとんどない。なんとも静かなもんだ。MacOS Xの方は面白そうだけど、基本的にはUNIXなのに、なんでもデフォルトではrootで入れなかったりとかするらしい。うーん、なんだかなあ。でもま、Muleあたりが使えるのなら結構いいかも。うちには今動かせるハードがないが、もう少し様子を見て、場合によってはPowerBookあたりを購入してもいいかもね。MacOS 9でVirtual PCを立ち上げてWindows Meを使う…なんて、結構お得な使い方もあるみたいだし。Win XPの方は「XPとはエクスピリエンスのことだ」という話だけど、「エクスパイアじゃないの」みたいな悪口も噴出している(笑)。これまたすっげー重いOSになっているらしい。Pentium 300MHz以上で128MB積んでないとダメだって?再び買い替え需要を狙っていこうというわけなんだろうけど、昔ほどの殺到はまずないだろうにね。そういえば軽さが売りだったLinux方面も、最近はUIコテコテになってきて、それなりに重いそうだ。うーん、うちでは今だにFreeBSDの古いバージョンが快適に動いているけど(あくまで内部利用なのでアップデートせずにほったらかし(笑))、旧ハードで動かせなくなるんじゃ困るんですけどね…
03/22: 金銭至上主義
反骨の闘士こと天本英世が「ここから先は有料になります」とのたまうCMは笑って見ていられても、なんだかネットのこれからはお先真っ暗な感じ。CNETの記事の記事によると、米国では広告収入で収益を挙げられないことがわかった情報系サイトが、次々にコンテンツの有料化に踏み切っているという。しかもMSは鼻息荒く「HailStorm」(って大嵐のことじゃん)なる計画を打ち出しているという。なんだかよくわからんが、これって早い話が、Webメールを他のサービスにまで拡張して、アクセスのたびに課金しようということみたいじゃないの。iModeでも参考にしたのかしらん?ま、そうでなくてもMSNのWebメール機能なんざボロボロなのにねえ。よーやるわ。ま、これは論外としても、コンテンツ課金の流れは以前より強化されてきている。こうなるとホント、商業利用ご法度の「インターネット2」がいよいよ必要不可欠になってくる…これが学術利用ということで、一般ユーザを排除しない限りでの話だが…やれやれだ。
03/15: 交通…
以前「ニュースステーション」なんかもちょっと取り上げていた謎の(笑)商品「ジンジャー」。最近、夜中に某局が再送しているCBSニュースでも「想像図」を紹介していた。その図で見る限り、なんだか竹馬とスクーターを合わせたような変な乗物(?)。なんだこりゃ、という感じだ。これ自体はどこがどう革新技術なんだかさっぱり分からないんだけど、それにより全体としてどういうシステムを構築しようとしているのかが妙に気になる。

交通手段の革新には当然ながら政治が絡んでくる。山田登世子『リゾート世紀末』(筑摩書房)では、オスマンによるパリの整備が郊外の貧困をもたらす結果を招いたことにちょっとだけ触れられている。東京も、タカ派の知事のもとに、なんか都市機能の集中化と権力の増大とを狙っている気がひしひしと伝わってくる感じ。「分散化」が叫ばれている時代に、「集中管理」を推進しようとするのは、権力の側にとっては楽だろうけど、それだけ危機的状況における脆弱化やなんらかの社会排除が進められていくとしたら問題だ。


03/08: 「ハル」
『2001年宇宙の旅』で登場した狂っちゃうコンピュータ「ハル」。その題一歩となるかのような「言語学習機能」をもったコンピュータがイスラエルで開発されたという話(CNETの記事を参照)。従来の自然言語処理とは違い、学習アルゴリズムを装備したものなのだそうだ。発想の転換という奴か。うーん、さすがはコンピュータ大国イスラエル。本当なら大したものだ。逆なのが金ばっかりに目がくらんで悲惨な状況のアメリカ(?)。考えてみると、どこかで開発された優れた新技術は、すぐにアメリカが取り込んで商売にしちゃう。だけど商業化されるころには革新性はそんなになくなってしまい、結局は類似製品の乱発でどれもこれも売れなくなってしまったり…。Yahooが赤字だという話だが、まさしくそういうスパイラルを端的に表しているという感じ。コンピュータはいい加減、商業論理から脱した方がいい気がする。どこぞのアホ首相が騒いだIT革命なんてものも所詮は幻影か…。
03/05: 仏像破壊
タリバンによる仏像破壊。なんという宗教的不寛容だろう。それにしても「神」ではない「仏」像を壊すというのはまったく解せん。それって仏の「聖性」を認めているということになる。てことは、多神崇拝を禁じたイスラムの教えに、すでにして反していることになるんじゃないのかしら?うーん、謎だ。専門家に聞いてみたいところ…。さらに言うと、イスラム世界にだって造形芸術はある。絨毯などの文様がまさにそれ。あれは無限なる神の表象であり、イスラムが偶像の否定を暗に回避していることの現れなのだという。いかなる表象も用いない宗教などというものは、そもそもありえない。レジス・ドブレ風に言うなら、「柄のない刀は無用」なのだ。ならばタリバンには、まずもってイスラム圏に存在するあらゆる文様芸術を禁止する方が先だろう。自分たちの文化を省みることなく、他の文化(信仰そのものとは別に)を侵害するなんざ、近代的宗教とはとてもいえないと思うんだけどね。ま、「近代的」ってのがいいか悪いかはまた別問題だが、少なくとも「何か選ばざるをえないなら、悪しき度合の最も低いものを選ぶべき」(再びドブレ)だろう。
03/01: 二進法コード
情報工学の父ことクロード・シャノンが27日に没した。享年84歳。二進法コードがこれだけ全世界を覆っている現在の状況は、記号論理学をリレー回路に応用するというこの人物の研究によるところが大きい。とはいえ、誰もが言うように、あらゆるものが二進法的に処理されるようになって失われたものも大きい。例えば昔の語学の研究者は、辞書やあらゆる文献を読みあさり、語の用例を集め、抜き出しては体系化していった(私個人の先輩筋にもそういう人たちがいたっけ)。ところが今や端末で検索をかければたやすく用例は集められる。だけれど、かつての研究者たちは、探し出すために丹念に読むことで、同時にその検索目的以外の膨大な知識を蓄積することができたのではなかったか。現在の安直な検索では、目的に達するための効率は飛躍的に高まったものの、「自分にとっての蓄積」が得られない。目的以外のものは読まれもせずただ捨てられてしまうとしたら…。かくして記憶は貧弱になってしまう。また、古い文献(写本とか)は、デジタル化されてしまうとその微妙な質感やフォーマット、細かな色合いが捨象されてしまう。結局、なんでもかんでもデジタルでオッケーというわけにはいかない。当り前だけどね。要は住み分け、使い分けなのだが、なんだか巷の議論がそういう議論になっていないことが妙にひっかかるのだ…。

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Last modified: Sun Sep 16 10:08:04 JST 2001