放言日記ログ「かくのごとく(Telquel)」ログ - 2002年3月〜2002年11月

07/28牧草
フランスの今年の夏は干ばつ(sécheresse)だそうで。牧草地の草が育たず、一部地域の畜産農家は別の地域から飼い葉を買い入れている。こんな事態は第二次大戦直後以来初めてだという。この話で、ちょっと前に読んだ熊野聡『ヴァイキングの経済学』(山川出版社)を思い出す。略奪行為でばかり有名なヴァイキングも国に帰れば農民だったという話で、実に興味深いのだが、この中に、不作の年に干し草を求めにきた農民が、販売を断られて略奪に及ぶ話(サガ)が紹介されている。当時の社会では、多く持っている側が少なくもっている側に、請われれば分け与えるのが社会規範とされていたのだという。うん、これまた互酬性(贈与)の発展的事例だ。現代の「連帯」が、そうした贈与の残響を留めているのは間違いないが、その意味づけはだいぶ変わってしまった。そしてその意味づけが、再び価値を帯びる形で再度変わることがありうるのか、とどうしても考えずにはいられない。
07/22貨幣
「イーリアス」の話題をさらに続けると、岩波文庫の松平千秋訳の『イーリアス』は、アガメムノーンもアキレウスも、みんな爺さんっぽいせりふ回しになっているのがどうも気になると思っていたのだけれど、そんな中、先日、呉茂一訳の『イーリアス 上』が文庫で出ているのに気がついた(平凡社ライブラリー)。うーん、これを見ると、一種の格調を重んじると、こういう訳にしかならないのか、という思いが改めてする。もっと口語的にくずしても面白い気がするのだけれどね。

さて、例のMLで一度「身代金」という訳が問題になったことがあった。貨幣がないのに「金」はないだろう、というわけだが、しかし考えてみると、貨幣そのものではなくても、貨幣機能を担っていた財貨は十分に存在したはず。カール・ポランニー『経済の文明史』(ちくま学芸文庫)にもあるが、交換手段として用いられなくても、尺度標準または支払い手段として用いられる物品が存在する場合があるという。アッシリアの穀物、バビロニアの銀などだ。同時にそれらの社会では、それらの物品が貨幣化しないような配慮すら払われていたらしいという。そのあたりの配慮を、どう考えるべきか。いずれにしても、市場経済は経済体制のありうべき唯一の姿ではなく、かなり特殊なものだというポランニーのスタンスは、ますます重要なものになっているよね。


07/18役割分担モデル
遅ればせながら、『月刊言語』の7月号を読む。特集は「伝聞」だが、これよりも吉田和彦の新連載「比較言語学の愉しみ」が面白かったり。ホメロスの「イーリアス」を取り上げ、韻律(六歩格)の規則に合わない部分を、サンスクリットや古典アルメニア語の例から推測し、失われた子音の存在を導いていくという一例を示している。中世研究をやるなら、アリストテレスなどを読まなくてはならないし、古典ギリシア語のアッティカ方言&コイネーあたりは必要になるけれど、それとは別に、イオニア方言のホメロスもなかなか面白い。話は変わるけれど、この半年ほど、「イーリアス」を冒頭から読んでいくというとあるメーリングリストに参加した(主催者の「輪読会」サイト)が、今はちょっと個人的にお休みに入らせてもらった。このML、いわゆる先生-生徒モデルを用いているが、こういうモデルがうまく機能するには、教師役がやはり複数いたほうがよい気がする(以前覗いていたラテン語MLがそういう感じだった)。役割分担方式は相互にストレスを貯めやすい欠点があるような気がする。なんだかドイツ映画の『エス』(原題は"Das Experiment")を思い起こしてしまうよね(もちろん、ML程度ではあんな極限状態にはならんけど(笑))。メーリングリストのあり方というのも、意外に難しい問題を孕んでいたりするのかも。
07/14運動……
国立大学の独立行政法人化も法案が通ってしまったようだが、これでいよいよ教育はアメリカのように、あくまで対価と引き替えに与えられるサービス業でしかなくなってしまうのかしら?研究活動もますます大学のポストを得たり維持したりするための手段と化し、過当競争がさらに煽られていくのかしら?なんだかなあ。さらにこの大学の行政法人化、一般事務の人減らしの側面も当然あるのだという話。ではなぜ、この改革に反対する教員たちは、そういう一般事務の人々をも巻き込んで反対運動をしなかったのか。非常勤の講師たちや、あるいは授業料にしわ寄せのくる学生だって取り込めるはずだったろうに。

フランスでは、フリーランスの舞台関係者(intermittants)のストで、アヴィニョンの演劇祭は中止。エクサンプロヴァンス音楽祭も一部取りやめの事態になっている。先週、コルシカが自治権拡大のための身分規定(statut)の変更に関する住民投票で政府案を否決したが、これも先の年金改革・教育問題を受けた、政府への抗議票の側面もあるとの見方が強い。根は同じで、自己責任化をいっそう進めたい政府と、それではやっていけないとする国民との対立だ。日本でも同じような状況にあるのに、フランスとのこの対照はなんだろう?暴言を吐いて知性の欠如を晒している議員が、それでも選挙であっけなく勝ってしまうような制度(と有権者)をもった国で、どうすればちゃんとした抗議運動ができるのかしら?


07/07恐怖の「祖国」
イラク支援法は、なんだかさしたる議論も反対もないまま、衆院通過。これで日本の、集団的自衛権への関わり方は大きく転換してしまうのだろうか。アメリカに唆される犬、というよりは、なんだか「まねっこ猿」になりたい政治指導者たちの思惑がすけて見える気がする。暴走するミメーシスのゲームは本当に危険なのだけど……。とはいえ、そうした思惑は、「大国としての責任」とか、「国益」とか、国ばかりを前面に出すわりにせこい利益の話にしかならない大義でもって、粉飾されてしまう。

先に挙げたカントーロヴィチによれば、西欧の「祖国」概念が再浮上する13世紀、その概念は教会の言語を取り込んで、情緒的価値を備給する。信仰を守るためだった戦争の正当化が、「祖国」概念によっても正当化されるようになる。フランスでは、単なる租税にすら「祖国の守護のために」という要素が加わるのだという。十字軍遠征での戦死はすでにして殉教扱いされていたものの、祖国のために死ぬことの美徳へとスライドされていく。しかもそれは、ルネサンスにいたる人文主義的な風土の中で、国民的自己賛美にすらなっていく。うーん、こうした一連の歴史的プロセスは、きちんと把握しておくべきだ。その同じプロセスは、これからも繰り返されていくだろうから。どこかで歯止めをかける契機を見いだすためにも、そういう作業がぜひ必要になるぞ。それはきわめてアクチャルな問題だ。


06/30マルティネ
なんだか大人数での宴会がめっきり苦手になってしまった。せいぜいワンテーブルくらいの人数じゃないとなあ。しかもあまりよく知らない人々と飲むのだと、もう最悪。話が二分三分されて面白くないし。昨日のある集まりも、まさにそんな感じ。座席に座ってから後悔することしきりだ。認知科学系の研究で、鳥の歌に「文法」があるなんて話をぶっていた御仁がいたが、それってせいぜい、プロソディの解析で波形にパターンが認められるって話でしょ?うーん、それだけじゃ文法(言語)とは言えないやね。マルティネいうところの二重分節話とか、もうすっかり忘れられているのかしら。

マルティネというと、最近『共時言語学』(渡瀬嘉郎訳、白水社)が復刊した。訳者は、私などが学生だった当時の先生。重要な本なのに、今まで在庫切れだったなんてひどい話だ。さらに『「印欧人」のことば誌』(神山孝夫訳、ひつじ書房)なんてのも出ている。マルティネの書籍としては最後のものだというから、原題が"Des steppes aux océans"という奴かしら?こちらの訳者は(昔は顔見知りだったおっさんだが)、本職はロシア語ほかスラブ系言語だった人。フランス語系の研究者でない点が斬新というか、あるいはフランス語系ではかなり地味(といってはナンだが)な比較言語学方面は、それだけ人材がいないということか……。うーん、いろいろ考えさせますなあ。


06/27大統領職
欧州レベルでも「大統領」の現実化に向けて動き出している中、フランスでは、大統領の刑法上の身分に関する憲法改正案が出ている。これはシラク再選の公約でもあったわけだけど、「一定の身分の保護を与えつつ、アメリカ型の弾劾手続きをも定める」ということのようで、これは実現すれば大きな転換点をなすのかもしれない。任期の短縮以上に重要なものになる可能性も。というのも、フランスの大統領権限というのは、その刑法責任が追及できないなどの点で、王権時代のハレーションを引きずっているように見えるから。それって、王の無謬性議論そのままみたいだよねえ。そのあたりの話、最近文庫版で出たカントーロヴィチ『王の二つの身体』(小林公訳、ちくま学芸文庫)に詳しい。教会と王権の中世初期の関わりから、徐々に王権が分離・確立していくまでを丹念に論じていく様はド迫力。うーん、名著と言われるわけだよなあ。ま、それはともかく、そうした流れの延長上にある大統領職が、これからどう変わっていくのかも要注目かも。
06/23コミュニスト……
日本共産党の綱領改定案を待つまでもなく、「共産党」の退潮は世界的な傾向。なにせ北朝鮮はあんなだし、聞くところによるとキューバあたりも状況は結構悲惨らしい。なにしろ市場には食品が大してならんでいないのだそうで、レストランに入っても、メニューに掲載された料理がちゃんと出てはこないのだそうだ。「開店以来出したことがないよ」という皿もあったそうな。こう語っていたのは、行きつけの飲み屋のマスターなのだが、その人いわく「ああいうのを見ると、競争というのは必要なのだとしみじみ思いますね」。

けれど問題なのは競争を煽ることというより、敗走した場合の受け皿の方だ。今、そういう受け皿がどんどん解体しているのが実情(日本に限らずだ)。そういえば、さる5月末、プラハで開かれた欧州の労働組合連合(CES:Confédération européenne des syndicats)の総会では、執行部の入れ替えが行われたり、総会では仏社会党のドロール欧州委員会議長へオマージュが捧げられたりと、欧州全体を視野に入れた存在感のアピールを前面に打ち出しているようだ。けれどもこれ、欧州憲法の実現に向けて大きな動きがあるなど、このところ機構の輪郭が明確になってきたことに対する組合の焦りの現れとも取れなくはない。


06/13外からの眼
夢野久作の名作(迷作?)『ドグラマグラ』の仏訳が刊行されたそうだ(Kyusaku Yumeno, "Dogra Magra", ed. Philippe Picquier)。訳者はPatrick Honnoré氏。Le Monde紙で、おなじみの特派員フィリップ・ポンスが伝えている(12日)。なかなか素晴らしい企画だ。日本の文学作品の仏訳は、最近では結構出ているというものの、まだまだ偏りが大きい気がするもんね。そんな中での『ドグラマグラ』刊行は喜ばしい限り。うーん、同書に並ぶものとして、中井英夫の『虚無への供物』とか、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とかもぜひぜひ仏訳して頂きたいものだ(笑)。

ポンスの最近の記事には「日本はまだ平和主義か?」というものもある(6月10日付けの記事)。有事関連法案の採択が日本の政策的転換をなしている、という内容で、「アメリカの軍事覇権主義(…)は、アジアでの犠牲者を出した。それが日本の平和主義だ(L'hégémonie militaire des Etats Unis (...) a fait un victime en Asie : le pacifisme japonais.)」という書き出しが振るっている。有事関連法案のあいまいさにも触れ、そもそも日本の平和主義そのものに根本的なあいまいさ(米国に戦争の権利を預けるという意味での)があったとも指摘されている。

同記事では、集団的自衛(défense collective)体制への日本の参加支持派が増えているとも伝えている。あの「集団的自衛権は認めても、行使しない」というような言い方が通用にするのは現代の日本だけかと思っていたら、柴田平三郎『中世の春ーーソールズベリーのジョンの思想世界』(慶應義塾大学出版会、2002)によると、中世の教権論(教権が俗権に勝るという議論。クレルヴォーのベルナルドゥスなどが論じた)において、教会は強制力使用の権利(jus coactivae potestatis)は持つが、権利の執行権(executio juris)は世俗の権力に委ねる、という理屈が練り上げなれていたのだそうだ。うーん、しかしながら、そうした理屈はその後、用語の混乱などからどこかですり替えが起きてしまい、教権が俗権自体を管理できるというような極論にまで発展していくのだそうだ。翻って現代日本に戻ると、やはりそういう理屈のすり替えがこれから出てこないよう、十分に注意しなければならないことになるよね。


06/11顔のプレザンス
遅ればせながら昨年秋の『カイエ・ド・メディオロジー No.15』(ガリマール、2002)を眺める。特集のタイトルはfaire face。「対面する」ということだが、表紙にはニュースキャスターらしい女性の顔がのっぺらぼうになった絵が使われていて、「顔を作る」の意味も重ねていることはおよそ察しがつく。

顔といってつい最近まで話題だったのは、やはり岩手県議のザ・グレート・サスケの覆面着用問題だけれど、こういうカリカチュアのような事態が生じるのはいかにも日本の「記号論的先進性」(笑)という感じがする。フランスあたりだと、多くは作家が写真やメディアに顔を出すことの是非などを議論している程度だけに、こんな問題が生じるなんざ想像をはるかに超えているに違いない。サスケの場合、覆面をしていると本人識別が問題だなどと言われているが、実は本当の顔を見せないことにある種の気色の悪さというか、おぞましい部分をかぎ取っているから排斥しようとするんじゃないのかしら。上の『カイエ』に収録されたフランソワ・フラオーの論考にもあるけれど、顔の識別能力は言語以前の知覚とされている。つまり、サスケの場合はコミュニケーション(全体的な)上のハンデを自らに課しているわけで、表情を補うためにはいっそう言語を駆使せざるを得ない。もちろん声や全体的身振りはあるけれど、言語そのものの比重は高くなるだろう。年寄りの議員たちはおそらく、抽象化された顔からそういう戦略的な言語が繰り出されるギャップをアブジェクトせざるをえない。さらにまた、顔の表情のなさをハンデと見なし、一種のマイノリティとして二重に排除しもするだろう。うーん、逆にサスケには、そういう記号論的な仕掛け人として、議員たちがもつ密かな安定指向・体制追従指向に揺さぶりをかけ続けていくしかないかもしれない。


06/03広場
フランスは退職年金制度の改革問題で大荒れのスト続き。それにしてもこれほどの社会運動が行えるというのはうらやましい限りだ。大勢の人々が広場に集まる光景は、やや不謹慎な言い方をすれば実に「絵になる」。そう、ヨーロッパの広場というのは、こういう時にこそ特に存在感をあらわにする。イラク戦争時の反対集会もそうだが、日本でこういうデモンストレーションが行われない理由は、案外こうした「広場」がないからではないか、という気もしなくはない。

高山博・池上俊一編『宮廷と広場』(刀水書房、2002)は、中世における宮廷と広場のあり方に着目した論集。この中に収録されている池上俊一「中世都市と広場ーーシエナのカンポ広場を中心に」は、広場のプレザンスの問題がコンパクトにまとめられている。ローマ時代の広場に見られる空間秩序は、異民族(東ゴート、ランゴバルド、フランクなど)の進出により乱され、イタリアの場合、広場が再び日の目を見るのは、12世紀から13世紀のコムーネ成立後になるのだという。中央広場が作られるのは、ちょうど都市が飛躍を遂げる時期でもあるし、古典の文芸復興(12世紀ルネサンス)の流れの時期でもある。叙任権論争を得て教会勢力が後退すると、都市の中心は教会から市庁舎(とそれを擁する広場)へと移り変わっていくのだという。こうした長い伝統の上に立った広場は、今日でもなお、社会的な機能を失っていない。うーん、今からでも遅くないから、東京にもなんとか広場ができないもんだろうか。六本木ヒルズみたいな再開発より、文化的政治的によっぽど健全な気がするんだけどなあ。ま、土地イコール銭という図式が居座っている間は無理か。資本主義は、その物質的な配備を通じて、市民の声をまとめることすら妨げている……?


05/28アニメーション
さて、久々にフランスネタでいこう。France 2のニュースでもやっていたのだが、フランスで松本零士の新作『インターステラ5555』が劇場公開になったらしい。仏のテクノグループ、Daft Punkがプロデュースしたということで、カンヌ映画祭がらみではLe Mondeなんかでも取り上げられていた。実は松本零士は、フランスではAlbator(『キャプテン・ハーロック』の仏題)のアニメータとして知られている。また製作を担当した東映動画もCandy(『キャンディ・キャンディ』)やGoldorak(『UFOロボ・グレンダイザー』)の製作会社として有名だったりする。いずれにしても、現在30歳くらいの人にとってのノスタルジーの対象なのだそうだ。ま、日本でもそうだけれどね。そういえばカンヌ映画祭がらみのLe Mondeの報道(5月15日づけ)でも、シルヴァン・ショメの『Les Triplettes de Belleville』がオフィシャル・セレクションに入ったことを受けて、フランスのアニメーション(dessin animé)がようやく産業化の段階に入ったと伝えている。2004年2月までに長編7本の公開が予定されているという。
05/24医療コミック
テレビドラマ化されたこともあって大人気らしいコミック『ブラックジャックによろしく』。さるジャーナリストの知人のお薦めもあって、5巻までを通読してみる。確かにまあ、医療問題に鋭く迫ってはいるのだろうし、ここに描かれる大学の教授たちの人格破綻ぶりは、現実にかなり近い例があるのかもね(爆笑)。けれどこの作品、ビルドゥングス・ロマン(本質的にはそうだと思う)としては、主人公が絶望的に偽善的で自虐的にしかなりえない点で、すでにして致命的であるような気もしなくもない(ファンの方には悪いのだけどね)。主人公は2巻で後にも先にも唯一の行動を起こすのだけれど、それで反逆者の烙印を押されてしまう。そのため、それ以降の巻では、「自虐的」なだけの傍観者にしかなれなくなる。ああ、このウジウジ加減、やめてくれ〜という感じも(笑)。うーん、そうなると読者は、もとより外部の傍観者として、これまた傍観者の動きを追うだけという、実に楽で安易なトポスに置かれるんじゃないかと……あれれ?これって、先に記したムーアの映画でも感じた、テーマに迫りつつもそこでスルッと横滑りして、あとは傍観者然としているスタンスに結構似ていたりするんじゃないの?こういうのが受ける時代なのかしら?
05/17マイケル・ムーア……
都内の拡大ロードショーになってようやく観ることができた「ボウリング・フォー・コロンバイン」(以下、ちょっとネタバレ注意)。米国の白人の間にある不安神経症が犯罪を招いているという基本的スタンスは、それなりに説得力のある議論ではあるだろう。とはいえこの作品で見る限り、ちょっとばかり単純化された図にもなっている。ただ、それを逆手に取るみたいにして、カナダとの対比を妙に可笑しく見せているところにムーアの巧妙な仕掛けが感じられる。それはどこか断定をさけ、バランスを取ろうというスタンスにも思える。銃乱射事件の遠因を作ったとしてスケープゴートにされたロック歌手が実にマトモな発言をしていたのも印象的だし、事件を取り巻くジャーナリストたちへの皮肉な視線も実に小気味よくできている。だけれど、ここでもまた留意すべきは、カメラで撮影することが人を多少なりとも過激な行動に追い込むということ(昔「ゆきゆきて神軍」がフランスで上映された時、監督とのティーチインでどこかのフランス人が、実際の犯罪にまで当事者を追い込んでしまった責任を問うていた……監督はその質問をほとんど無視したっけ)だ。乱射事件の被害者だった元高校生たちは、あるハイパーマーケットの弾薬の販売中止を勝ち取った。そこで映画は実質(映画的なクライマックスであるヘストンの傍若無人さの強調はその後だが)終わっている。それ以上の要求・運動は示唆されもしない。思うに、ムーアはおそらくカメラの追い込み、つまり逸脱や暴走の危険をよーく心得ているのだろう。だからこそ、どこかで抑制をかけながらカメラを回しているのだろう。だけれど、そのせいか、全体はどこか小ぎれいすぎる形にまとまっていたような気もしなくもない。対象に迫りつつも、その接近可能なぎりぎりのところでわざと横滑りをかけ、対象の印象的なところだけを残そうとしているというか。だから観客は、作者側の問題意識は理解するようには仕向けられても、傍観者であることを自覚させられ、かつ傍観者であり続けることを要求されているような気がする。うーん、こんなんでいいのかしら?難しい問題だけどね。
05/14ジンジャーは今?
13日のフランスは退職制度改革反対の全国一斉スト。France 2の映像では、公共交通が使えないパリ市民がいろいろな手で通勤している様子が流れた。中にはキックボードを使う人なんてのもいた。これで思い出したのが、あの世紀の発明ことジンジャー(別名セグウェイ)はどうなっているのか、ということ。あの一人乗り電動スクーター、その後あまり話を聞かなくなってしまったが(Ginger Japanなんてサイトもあるが、更新は昨年末で止まっている模様)、ま、今から思うと、これはそれ自体が単体で商品化されるというよりは、あくまで別の商品化に応用すべきプロトタイプという意味合いが強かった。ちょっと前にNHKの「プロジェクトX」で取り上げられたトロンにしても、結果的にシェアトップの組み込みOSとして商品に使われるという展開になったわけで、ジンジャーなどもこういうタイプの浸透型技術として生き残っていきそうな感じはしなくもない。どんな展開になるのかちょっと期待したりもするのだが……。
05/06サッコ・ディ・ローマ
陥落から一ヶ月を目前にしたバグダッドだが、美術館などの略奪品が国境などで見つかってきているそうで、やっぱりなあ、という感じ。こうした劫掠は時折起こる。例えばローマ劫掠。ドイツの傭兵(ラントクネヒト)と神聖ローマ皇帝軍が一緒になって暴徒化し、1527年5月6日にローマに入って略奪の限りを尽くしたというこの事件、ローマの退廃に対するプロテスタントの憎悪が背景にあるとされるものの、美術史家アンドレ・シャステルの『ローマ劫掠、1527』("Le sac de Rome, 1527", Gallimard, 1977-83)なんかを見ると、ドイツの傭兵はむしろ金銭目当てで強奪を繰り返したらしい。シャステルのこの一冊は、その事件前後の文化的変容ぶりを克明に負っていて興味深い。余談だが、昨年秋に日仏学院で上映された、映画監督ゴダールと作家ソレルスとの対話ビデオでは、ソレルスがこの書籍を持ち出して話題にしようとして空振りに終わっていたっけ(笑)。
04/29キットラー
ドイツのメディア論者フリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』("Draculas Vermachtnis", Reclam Leipzig, 1993)を読む。邦訳も出ているこの論集(原克ほか訳、産業図書)、うーん、なかなか晦渋だったりする。表題の「ドラキュラの遺言」は、ブラム・ストーカーの小説に、東欧vs民主主義帝国、吸血鬼vs近代女性、手書きの文書vsタイプライターといった対立の織りなしを見る、という論。ほかにも、ラカンの現実界、想像界、象徴界の区分を転送、蓄積、計算の情報処理マシンに見立てることで、脱主体化していたはずの精神分析学に主体が回帰する様を描くのだと論じたり、小説や映画に登場するドッペルゲンガーを自己確立プロセスとしてメディア的に解釈しようとしたりと、着眼点自体は実に面白かったりする。とはいえ、『グラモフォン・フィルム・タイプライター』ではあまり感じなかったのだけれど、なんだか技術の話から社会や主体といった「上部構造」の話への結びつき(飛躍?)がどこか唐突で、どこかグロテスクな感じを与えたりもする。うーん、32ビットCPUのプロテクトモードに、商業化にまつわるユーザと開発者との分離(それぞれの囲い込み)の象徴を見る、なんて、ちょっと飛ばしすぎだよなあ。この感じ、なんだか技術決定論みたいな話になると、程度の差こそあれ常に感じられる違和感という気もする。現象としてのテクノロジーと、ある制度なり体制なりを底支えしている権力構造とは、あくまで事後的に結びつくんじゃないかと思うし、それを読み解くって方が面白いのではないか、という気がするんだけど……。
04/25呼称
民放各局は「サーズ」と言っているのに(BBCなんかもそう呼んでいる)、NHKは頑なに「新型肺炎」とするSARS。フランスではF2はpneumonie atypiqueと言っていて、NHKに近いが、新聞その他ではSRAS(syndrome respiratoire aigu sévère)も使っている。ベルギーとオランダで問題になっている「鶏インフルエンザ」は、家禽ペスト(peste aviaire)ともいう。もちろん、grippe de pouletなんて言い方もするようだが、日本での場合、ペストといってしまっては歴史的な欧州の災禍を彷彿とさせるだけに、こちらの言い方は採用されない公算が大だ。これらはつまり、いたずらに恐怖を与えないようにとの配慮が建前になっているのだろう。「サーズ」というとなんだか具体的なイメージがわかないので怖がる人もいるだろう、肺炎ならそんなビビる人もいないのではないか……ということだ。このどこか的はずれな、それでいて御大層な「配慮」は、実にくせ者だ。それは本当に憂慮すべきことを隠蔽してしまう。パニックとまではいかなくても、ある程度の警戒が必要な場面というのは確実に存在する。そしてそういう警戒の必要の有無を判断する時に少なからず重要な役割を担うのが言葉や表現だ。そしてSARSは明らかに対岸の火事なんかではない。だからこそ、そういうオブラートにくるまれたものの言い方は、もうそろそろ止めてほしいと思うのだが……。
04/16文化遺産
先週土曜あたりから報じられていたが、バグダッドでの略奪行為は博物館や図書館にまで及んでいるそうで。ハムラビ法典の石碑も略奪されているというのが凄すぎる。13世紀のモンゴル帝国による略奪以来なのだそうで(ワシントンポストの記事)。アメリカに対しては「石油利権は守っても文化遺産は守らないのか」との批判の声しきり。いずれにしても今後、闇で売りさばいた美術品が出回ったりもするんだろうなあ。

こういうことがしょっちゅうあるわけではないにせよ、自然災害などもあるわけで、こうなるとレプリカやデジタル化した資料というのはいよいよ重要になる。展示品はレプリカで、本体は関係者しか立ち入れない倉庫などに入れておくとか。ま、もっとも、そういう「ニセモノ」ばかりを並べると、テーマパークなどにある疑似ミュージアムみたくなっちゃうんで、それも嫌だけどね。そういえば今月4日のル・モンドの記事(レジュメ)では、フランスの国立視聴覚研究所(INA)の磁気記録数千時間分(テレビやラジオのテープ)が耐用年数の問題から失われそうだとのこと。コストがネックになって、デジタル化が進まないのだそうだ。


04/13日記
この「放言日記」、装いはそのままだが、昨日からサイトを移した。しかしまあ、最近はサイトの移動や廃止なども多く、日記類(最近ではWeblogなんかだが)に限らず、デッドリンクの頻度も半端ではない。「うちはサーチエンジンじゃなくて、人がちゃんと管理しています」なんて昔は豪語していた某ポータルサイトのディレクトリサービスなんか、少し前でも、すでにデッドリンクの山になってたりしたし。インターネットがぼちぼちと流行り始めた94、95年ごろは、まだHTMLのリファレンス機能は結構画期的だとか思っていたもんだが、リファレンス機能そのものが十分なものではなかったことは今や明らか。たとえば論文になんか、当然ネットリソースは引用できない(そりゃ、してもいいだろうけど、その場合は別の形の傍証が必要になる)。最近はネットでやりとりされる情報のオーセンシティ(セキュリティ関係でいうところの)なんかも問題になっていたりするが、もっと広い文脈で、リファーする情報の「出所」はますます問題になりそうな気がする。そういえば、国会図書館あたりもWebのアーカイビングプロジェクト(Warp)をやったりしている。基本的には認知された機関のWebを集めるプロジェクトのようだが、そういう線引きは当然必要になってくるだろうけれど、なんだかこれはこれでせせこましい印象を与えたりもする(笑)。いずれにせよ、Webのあり方も見直すべき時にさしかかっているのかも。
04/11戦争報道
イラク戦争は予想より早い首都陥落。だけどこれで本当に終結していくのだろうか?今回の戦争、メディアの報道面ではいろいろと新しい試みがなされているものの、どうもから回っている感じがしなくもない。例えば従軍記者。それ自体はこれまであまりなかった取材スタイルだろうけれど、延々と続く砂漠の道や夜間の暗視カメラの映像ばかりを、衛星回線のドットの荒い画面で見せられても、さほどの新規さはない。速報性についても、アメリカやイギリスのいわば「大本営発表」をリアルタイムで流すことに、それほどの意味があるとは思えない。アルジャジーラなどの対立的な報道を取り入れたことによって、米英のメディアの偏りがかえって強調され、速報性の新鮮みをさらに殺いだ気がする。また全体的に見て、同時通訳の技術的面もこの10年で進展したようにはみえない。ニュースの生同通は厳密には「不可能」だとも言われたりするが、それにしても聞きやすさ一つとってみても改善の余地はあると思った。某民放に出ていたが、英語のいまや古参といわれる有名な同通のほうが、その後の世代の人たちよりずっと聞きやすいとは……(苦笑)。なんだか、テレビなどの戦争報道そのものがこのわずか10数年で飽和状態になったように思える。今やWebの方が前面に出てきている感じか。主要なポータルは以前から、ディレクトリサービスなんかより報道関係などを中心に据えてきていたが、その傾向にますます拍車がかかりそうな勢いだ。
04/07アンティゴネーの「主張」
先月半ばのギリシア国立劇場の上演。出し物はソフォクレスの悲劇『アンティゴネー』で、ちょうどイラクへの攻撃が始まる前だったこともあって、なんだか国王クレオーンとアンティゴネーのやりとりが、アメリカ対国際世論の構図に見えてしまった……が、後になってジュディス・バトラー『アンティゴネーの主張』(竹村和子訳、青土社)などを見たりして、あながちそういう見方も外れてはいないのかもしれないという気もしてきた。バトラーの基本線は、ヘーゲルやラカンのアンティゴネーの読みを再検討しながら、アンティゴネーが法が法として成立する場の境界にあること、そしてそれが、オイディプス後(オイディプスはアンティゴネーの父だが、親族関係からすると兄の位置をも占めるという両義性がある)の新たな親族関係の可能性を開きうることを示そうとするのだけれど、政治的な観点からすれば、今回の戦争に反対する人々の声が置かれた立場と読み替えることができそうにも思える。それはまさに聞き届けられない声、「あらかじめ死を宣告された生」という悲壮な立場だが、アンティゴネーの劇のごとく、最後に為政者の一方的な施策に大きな揺さぶりがかけられる可能性にかけてみたいものだ……。
04/02リング二話
新国立劇場のいわゆる「トウキョウ・リング」も3年目。昨日『ジークフリート』を観たが、戦後のポップカルチャーを回顧するといった趣の例の演出&舞台装置は、映画からついに80年代あたりのテレビ文化(お料理番組)、テーマパーク文化(森の生き物)にまで突き進んだ感じ(大笑)。となると次回はやはり「情報化爆弾」的世界となるのかしらね(冷戦後のテロの時代かもしれんけど)。それにしても、こうしたポップカルチャー的なものの回顧でワーグナー的体験を包もうという大胆な(?)演出は、それ自体は面白い試みであるけれど、文明批判とかそういうのをねらっているのだとしたら、それは所詮お門違いというもの。むしろこの演出って、ワーグナー作品を現代において味わうことの意味が、ある種のオーセンティシーを除いて、どれほど薄らいでしまっているのかを逆説的に浮かび上がらせているわけで、そうであるからには、その皮肉さを思う存分味わうべきだという気がする(笑)。一方でオケが変わって音はずいぶん重厚さが増し、ずいぶんオーソドックスな感じになった感じ。さらにこれが、舞台との対比にまで至ったらますます面白いと思うんだけどね。

ちょっと前には映画『ロード・オブ・ザ・リング:二つの塔』を見た。このいわば大量破壊兵器の廃絶に向かう旅の物語、どうしても現実のイラク戦争の文脈を思わせずにはいない。なんだか一作目の、全編に漂う強烈な悲壮感のようなものが後退してしまい、やたらとヒロイックな面を前面に出しているのが、皮肉なまでにタイムリーな感じを醸していて、なんだかなあという感じ……。これまた来年で完結だが、現実の戦争の方は一体どうなっていくのか、まるで先が見えない……。




02/13帝国?
今月号の『現代思想』の特集は、最近邦訳の出たハート&ネグリの『帝国』について。うーん、この著書、読むのはしばらく先になりそうな案配だ(なにせうちにあるのはドイツ語版だったりするので(笑))。これってどういう議論なのか、ジジェクの一文「『帝国』は二一世紀の『共産党宣言』か」あたりから察するに、資本主義はそこに内在する力学からして、国民国家を超えたグローバルな「帝国」化を導き、そこに「散乱したアイデンティティのハイブリッドな集塊が発展する」(ジジェク)のだから、それを賞賛し推し進めれば、その先に資本主義の反転を準備できる、みたいな話に読める(かな?)。で、ジジェクはマルクスに回帰するだけではだめで、ハイブリッドな集塊(マルチチュードってやつか?)の連携を図る上でレーニンの再評価・再創造が必要だ、みたいに語る。なんだか中沢新一の『はじまりのレーニン』を思い出してしまうが、グローバル化あたりの話はともかく(これは実際に著書を読んでみないとなあ)、確かにレーニン的なものは、組織論的な視座としては興味深いかもしれない。うーん、それにしても再びマルクスの亡霊が跋扈してくるとは……世界はまだまだ突き抜けてはいない(笑)。
02/07証拠
シャトルの爆発とパウエルの演説。この二つに共通点があるとすれば、それは「詰めの甘さ」ということになるかしらん。特に後者。イラクの大量破壊兵器開発の証拠を示す、と息巻いていたアメリカだったが、直前になって「決定的な証拠じゃないかも」とトーンダウンし、実際に取り上げたのものも、画像と音声といういともたやすく加工できてしまう「メディア的証拠」にすぎなかった。アメリカでは、ロドニー・キング事件あたりからビデオが証拠として採用されるようになったんだと思ったけれど、こういう「メディア的証拠」視覚的なものに訴えるという意味では、論理的なものを短絡させてしまう危険だってある。基本的には、状況証拠にすら及ばないものなんじゃないかと思う。こういうものが証拠として採用されるということの背景には、一つにはやはり訴訟社会において、あまりにも多様・煩雑になっている裁判過程を、短縮する意味合いがあってのことだろう。そもそも今回のイラク問題は、アメリカがイラクの兵器開発を指摘したのだから、当然立証責任はアメリカ側にある。否認する側ではない。アメリカは自国の裁判をそのまま延長する形で、国際的な協議の場をも短縮しようとしている感じだ。確証も示されないのに戦闘行為におよぶということが一度容認されてしまったら、それはまさに無法地帯でしかないでないの。
02/03チョムスキー
例の9.11以来、チョムスキーの政治的発言が書籍になってが次々に刊行されているけれど、どれもタイトルを見ると中身がある程度予測できてしまいそうで(『金儲けがすべてでいいのか』とか『グローバリズムは世界を破壊する』とか)、結局まだ一冊も手に取っていない(笑)。うーん、でもLe monde diplomatiqueあたりのインタビューの仏訳などを見ても、言われるほどのラディカルさは感じなかったりするんだけどなあ。ところで久しい以前からコンピュータサイエンスの言語処理の教科書にも取り込まれている生成文法だが、最近はどうなっているのかも多少気になって福井直樹『自然科学としての言語学』(大修館書店、2001)なんてのを覗いてみたのだけれど(一般向けに書かれた本だから当然細かな議論はないしライムラグもあるけれどね)、これに「チョムスキー小論」という一文があって、いかにもシンパ(?)らしい賞賛の嵐が吹き荒れている(笑)。チョムスキーは党派を嫌いあらゆるドグマを排する、とされているが、そうはいってもその学問的業績が緩い信奉者集団を作り、他の集団と対立する構図になっていることを考えると、そういう集団性に無自覚ではいられないはずで、それが権威・権力への批判とどう相容れるのか、というあたりでその真価が問われるかもしれない。いずれにせよ、ちょっとチョムスキー本も覗いてみないとなあ。
01/23アレクサンドリア図書館
情報の貯蔵という観点から、図書館をめぐる考察は面白いと思っているのだが、そういえば昨年10月に、紀元前4世紀のアレクサンドリア図書館跡地に新しい図書館がオープンしたと報じられた。サイトも一応出来ている(Bibliotheca Alexandrina)。だけど、ルチャーノ・カンフォラ『アクサンドリア図書館の謎』(竹山博英訳、工作舎、99)なんてのを読んでみると、場所の特定には問題はなかったのかしら、などとつい邪推してしまう。というのもこの本、4万冊を焼いたという有名なカエサル侵攻時の火災が、図書館そのものの焼失ではなく、港湾施設の火災とし、そこの倉庫に輸出用に置かれていた巻物(4万冊といっても、巻物なので一冊が複数の冊数に分割されて数が増える)の焼失なのではないかという仮説を、文献学的にスリリングに論考していくというものだから。今さらな話だけど、古い時代の考証というのは実に面白いものだなあと納得できる。それからこの「火災で焼失する図書館」という、どこか儚さを喚起するイメージが、歴史的にどう生まれ流布してきたのかも面白そうなテーマだ。トリュフォーの『華氏451』(原作はブラッドベリだが)あたりをまた観たくなってきた。
01/15リスクマネジメント
再び注目されていたらしいライプニッツ。佐々木能章『ライプニッツ術』(工作舎、2002)によると、1690年ごろのテクストに「保険論」というのがあるのだそうだ。古代ギリシアのロードスの海上法を範として、「偶発事」の共有を訴えたもので、共済思想に裏打ちされたその議論には、すでにして近代的保険制度を先取りするものだという。偶発事がいつ生じるかわからない以上、保険金を保険以外の目的に運用してはいけない、などという下りは、どこぞの国の役人にぜひとも聞かせてやりたいほどだ。ここで見逃せないのは、ライプニッツが「実利本位の合理性とは異なる、いわば理想主義的な合理性」(p.193)を言に含めているという話の部分だ。「打算を超えたところに保険の意義を認める」というのは素朴な期待にすぎないかもしれないが、これはもっと詰めて考えてみる必要があるかも。リスクマネジメントは、どこかで打算的なものを超越しなければ成り立たないかもしれない……。
01/01世界の関節?
年末年始。31日は午後にケネス・ブラナー監督作品の映画『ハムレット』があったと思いきや、晩にはピーター・ブルック演出の舞台『ハムレット』を放映している。一日に二度もハムレット漬けとは……。いやいや、これぞまさに劇中の「世界の関節が外れてしまった」という状況の予兆か(大笑)。実際、この年の瀬で思うことは、なんだか本当に世界が脱臼(disloquer, dislocation)しそうだということかしらね。そうなっちゃちょっと怖い事態だよなあ。この後、何気なく見ていた「朝まで生テレビ」で、誰かが「小泉にはイデオロギーを感じない(からダメだ)」、なんてほざいていたのに爆笑した。あまり好材料のない2003年が始まってしまったが、どこかで好転していくのだろうか?
12/09軽視
ある文字媒体で、訳者名を取り違えるという前代未聞な失態をやってくれた。こちらはとばっちりを受けただけだけど(それにしても、訳したわけでもない文章に、自分の名前がくっついているというのも実に気持ち悪い)、訳したのに名前が消されてしまった側は怒りまくっているだろうなあ。それにしてもこういう信じがたいミスが起こるほど弛んでいるのか、出版界。というか、結局翻訳を軽〜く見ているという全般的風潮のせいなのかもね。「今までは外国の受け売りだったが、これからはこちらから発信するのだ」なんてよく言われるけれど、実は今や「受け売り」すら満足に出来ていないんじゃないかと。「他者」の言説と対峙する姿勢がなかったら、おもいっきり自己閉塞的にならざるを得ないわけで、すでに国内の保守系メディアなんかにその兆候は見えている(だいぶ前からだが)。そういう意味では、海外文献の「輸入」って、こんな右傾化=ジコチュウ化の時代にこそ、無理矢理にでも拡大すべきものという気がするのだが……。
12/04イリイチ逝く
イヴァン・イリイチが亡くなった。享年76歳とか。脱学校社会を唱え、新しい技術にそのための道具を見いだしていたイリイチ。だけど新しい技術(コンピュータとか)は、必ずしもイリイチが考えていた方向にばかり行ってはいない。そういう意味では、批判的評価が待たれる著者でもある。また一方で、イリイチは自分をヨーロッパ中世の歴史家として規定してもいた。うーん、中世には「現在」の問題を考えるためのあらゆるヒントが混沌と渦巻いている気がするだけに、その仕事は受け継いでいくべきものだろうと思ったり。うーん、ブルデュー死去で始まり、イリイチ死去で終わりつつある2002年。なんだか内外の大きな転換点をなしているような……。

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Masaki Shimazaki