古楽蒐集日誌 - 過去ログ

2000年10月〜2001年2月

02/23 この間、電車で学生風・オタク風の2人組がなにやら熱い会話を交わしているのに遭遇した。話の中身はヴェルディのオペラのようだった。確かに今年はヴェルディ・イヤーで、しかも今はオペラ・ブームなのだという。うーん、だけど個人的にはやっぱバロック・オペラが観たいんだけどなあ。というわけで、先に届いていたヘンデル『セルセ』(SM3K 36941)を聴く(定番だねえ)。指揮はジャン=クロード・マルゴワール。配役は省略(笑)。げげ、このCDのライナーノーツ、解説は各国語があるが歌詞は伊語だけ。概要しか知らん身としては、これは辛い。うーん、中世のおべんきょうにはそのうち伊語も必要になるだろうから、まあ、将来的にはかじりたいとは思っているが、今のところは仕方ないので、とりあえず3分で終ってしまう「なつかしき木陰(オンブラ・マイ・フ)」などに舌つづみを打とう。とほほ…。
02/19 ちょっと前に近所の中古CD屋で見つけた2枚を聴く。どちらもレ・ザール・フロリサンの演奏。1枚目はラモー『ピグマリオン/ネレーとミルティス』(HMC 901381)。収録されている2曲はいずれも1幕バレエ(acte de ballet)。「挿入バレエ」とも言われ、オペラ・バレエから派生した1幕もののバレエのこと。序曲はダンス曲の組合せによるもの。特に悲劇的な雰囲気を出すために短調から始まり、やがて長調に変わっていくのだという(ライナー・ノーツより)「ピグマリオン」では、この短調の部分の美しさがなんともいえず心に残る。もう1枚はシャルパンティエ『クリスマス・オラトリオ』(HMC 905130)。中身は「主の生まれたまいし時」(ラテン語の賛美歌)とその世俗版ともいうべき「主イエス・キリストの誕生について」(仏語)。特に前者は実にドラマチック。イタリアのオラトリオの伝統に基づくものだというが(ライナー・ノーツ)、ひたすら荘厳な前半とどこか牧歌的な後半が対照的で面白い。
02/10 上智大学の『上智史学』(44号)所収の論文、北村直昭「ボエティウス『音楽教程』の写本と読書の痕跡」を読んでみる。12世紀ごろの音楽理論においてボエティウスはかなり重要な位置を占めているというが、それが具体的にどのように読まれていたか、実践との関係はいかなるものだったか、といった問題はまだ不明なのだという。で、この論考は、フランス国立図書館所蔵の写本を、その欄外のネウマ、図、製本状況などから検討し、当時の読みの実践を窺っていこうとする研究だ。テクストの余白というとついついジュネットとか思い出してしまいがちだが(笑)、むしろこういう物質面からのアプローチこそ興味深い。マイケル・カミール『周縁のイメージ』(永澤峻、田中久美子訳、ありな書房)にも通じる研究で、今後の成果が期待される。コディコロジー(写本学)って実に面白そうだ。今度基本文献とか探ってみよう。

このところジャヌカン『ミサ「戦争」「盲いた神」』(クレマン・ジャヌカン・アンサンブル、HMC 901536)をひたすら聴きっぱなしだ。ジャヌカンの数少ない宗教曲のうちの二曲。これがまた実に胸を打つ。特に後者のミサ曲の澄きった穏やかな音色は、感涙ものといっても過言ではないほど。ええい、音の波の中にそのままたゆたってしまえ、という感じなのだ。至福の50分間。ジャヌカンの芸術の極みを感じさせてくれる。

02/02 先日、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの『スキヴィアス(道を知れ)』の独訳本(ラテン語対訳かと思ったら違っていてちょっと残念)と『神の御業』の仏訳本を入手。いずれもその幻視体験を綴った著書だ。どうも神秘主義な部分で紹介されることの多いヒルデガルトだが、そればかりに偏るのはどうかと思う。ちょうど去年の今ごろ種村季弘の本(『ビンゲンのヒルデガルトの世界』)を読んだが、それによると、ヒルデガルトには修道院に水道を引く(12世紀に)などの技術者的側面もあるし、当時の自然誌や医療技術にも長け、政治的なセンスすら備えていた博識の巨人という風だ。この全体像、個人的にも追ってみたいと思っている。というわけで、今日は久々にヒルデガルトもの。『血の声』(セクエンツィア、05472 77346 2)。セクエンツィアが取り組んでいるという全曲録音シリーズの2枚目。通常の教会旋律をはるかに超える二オクターブ以上の音域から成ることもしばしば、というヒルデガルトの歌だが、とにかくこの演奏はとーても耳に心地よい。聖ウルスラ(4世紀にケルンで殉教した聖女。ヒルデガルトが頻繁に取り上げるテーマとのこと)に捧げた歌など、なんともいえない情感が胸を打つ。素晴らしい。


01/29 ようやく忙殺状態から脱却。というわけで、今日はパーセル『アーサー王』(デラー・コンソート、HMC90252.53)をゆっくりと堪能。いままで抜粋でしか聴いたことがなく、特に「汝はいかなる力なりや?」なんて、ムヌーシュキンが監督した映画『モリエール』でモリエールが亡くなる最後の場面で流れていたこともあって、「くっら〜い曲」というイメージがあったのだけれど、全曲合わせて聴いてみるとなんとも粋な感じがするでないの。この演奏がまた実に情感的。セミオペラだというこの曲、やっぱこういうのは抜粋じゃなく全体を聴かないとね。

アーサー王物語群は最近特に気になっている(実は前からだけど)。フランスのクセジュ文庫(本家)でちょっと前に出た概説書(Thiery Delcourt, "La litterature arthurienne", PUF-Que sais-je no3578, 2000)にも書かれているが、アーサー王物語群はプランタジネット朝が英国での政権を正当化するために12世紀に作り上げられた一連の作品群。だけれどその歴史的変遷は実に面白そうなのだ。アーサー王学会という単独学会すらあって、毎年膨大な数の書誌一覧が出ているらしいじゃないの。日本語で読めるものとしては、何よりまずアンヌ・ベルトゥロ『アーサー王伝説』(松村剛監修、村上伸子訳、創元社 - 知の再発見双書71、1997)でしょうね、やっぱ。そうそう、ちょっと前にビデオでサム・ニール主演の『エクスカリバー』(原題は「マーリン」なんだけどね)を観たが、ハリウッド的脳天気さも加わって、マーリンのどこか間の抜けた(失礼)立ち回りが悲劇を生んでいく様が妙に人間臭くて悲しい(笑)。ああ、哀れなるかな人間の性、な〜んちて。

01/24 このところ、趣味にも興じれないほど忙殺されている。注文しているCDも続々と届いていたりするのだが、ほとんど聴く時間が取れない。うーん、たまらんなあ。といいつつ、先週は7コースの入門者用リュートを、教室の先生の手配で安く入手できた。これはとーても嬉しい。ただ、そんなわけでまだあまり触れる時間がない。やれやれ。
01/12 なんとも嬉しいことに、年明けからいきなりリュートを習えることになった。まだ楽器も入手できていないのだが、とりあえず昨日、はじめて本物のリュートに触らせてもらった。思ったより重量的に軽く、手荒に扱うと傷がついてしまいそう。うーん、この音色、やっぱりいいなあ〜。

教会暦のクリスマス(1月6日まで)には間に合わなかったが、『メサイア』が良かったザ・シックスティーンによるバッハ『クリスマス・オラトリオ』(RRC2004)をゲット。うむ、なんとも肌理の細かさを感じさせる演奏で心地良い。今ちょっと連日仕事きつくて疲れているせいか、とても休まる。そもそも『クリスマス・オラトリオ』って教会カンタータのいいとこ取り。とはいえ最近は、これが生で演奏される機会ってめっきり減っているのだという。うーん、なんでかしらん?

2001/01/03 大晦日に放送されていたサイトウ・キネン・オーケストラによるバッハ『ロ短ミサ』は素晴らしかったなあ。音そのものも情感も大事にした演奏はさーすが小澤征爾。これを聴いていて、10月末のコルボによる『ロ短ミサ』がいまいちだったのは、果たしてこちらの体調のせいだけだったろうか、な〜んて改めて思ってしまった。

さて新年の第一弾は二枚。一枚は『大地の歌(Cantico della Terra)』(ミクロログスほか、OPS 30-277)。13〜14世紀ごろの南部イタリアの宗教曲と俗謡を集めたアルバム。特に7曲目に収録された「ジュリアネッロ受難曲(?)」の、この一瞬調子はずれかと思う輪唱は、聴き込んでいくと不思議な味わいが出てくる。うーん、なんだろうこれは(笑)。とにかく実に面白い一枚だ。もう一つは『トロバール(Trob'art)、コンセプト1』(トルバドゥール・アート・アンサンブル、AL 1103)。13世紀のトルバドゥールたちの代表的作品を集めた一枚で、詩と歌とが融け合っていることをまざまざと知らしめるような構成になっているところがなんとも心憎い。哀歌やアラブ風のものなど、いずれも昔日への想いをかきたててくれる。うーん、いいなあこれ。

余談だが、年末年始は上記の二枚を聴きつつレイノルズ&ウィルソン『古典の継承者たち』(西村賀子、吉武純夫訳、国文社、1996)を読んで過ごした。時代ごとに古典の写本がどう取り扱われていったかを追った一冊。うーん、私もいつかぜひ写本の読み歩きがしたいもんだ、と思ってしまう(笑)。



12/21 昨日はBCJによる「アルト独唱のためのカンタータの夕べ」を聴きに。カウンターテナー、アンドレアス・ショルの共演で、これがまたなかなか良かった〜。曲はBWV35、170を中心とした構成で、時期的にはずれるけど(それぞれ本来は三位一体後第12、第6主日のカンタータ)、そんなことはこの際問題ではない(笑)。BCJってどこか「BCJ節」とでも言いたくなるような特徴がある気がするよね。バランスの妙というか、特定のフレーズでの表現の妙というか。今度ちゃんと分析してみよう。

今日はシュッツ『クリスマス作品集』(ラ・プティット・バンド、05472 77511 2)をゲット。ジギスヴァルト・クイケンの指揮。有名な「クリスマス物語」ほかを収録している。シュッツ晩年の作だというこのオラトリオ、眼差しの柔らかさが感じられる演奏でクリスマスにはぴったりだ。さらに今日は『宗教改革期の詩編と歌』(クレマン・ジャヌカン・アンサンブル、HMC 901672)も。改革派は聖歌の民主化を進めたことが知られている(教会での一般信徒の歌への参加、家庭での唱和など)が、収録曲はジャヌカンやラッススなど、同時代の作曲家が『詩編』の仏語版につけた曲。フランスのプロテスタントに関する書籍って日本ではあまり出ていない気がするが、そんな中でサミュエル・ムール『危機のユグノー』(佐野泰雄訳、教文館、1990)を見つけた。改革派を認めていたナントの王令が絶対王政の確立の中で1685年に撤廃されるまでの、17世紀のプロテスタント(ユグノー)の政治状況や生活を追った一冊。当時のユグノーが一枚岩ではなかったことが印象的だ。

12/16 「年末は『第九』よりも『メサイア』だ!」というわけで、昨夜はザ・シックスティーンによるヘンデル『メサイア』(ハリー・クリストファーズ指揮)の公演へ。このド迫力、まさに期待していた以上のもの。『メサイア』というと「ハレルヤ唱」ばっかり有名だけど、やはり全体の流れで聴いてこそ華なんではないかと改めて思う。余談だが、フランス人の音楽ファンにはヘンデル好きって多いのだそうだ。メトロなんかで初老のおばちゃんが『ウォーターミュージック』あたりを鼻歌で諳んじてたりするのを見たことあるもんなあ。なんとなくわかる気がしなくもない(笑)。

今日は、この間に続いてパレストリーナものをと思い、『楽園へ(In Paradisum)』(ヒリアード・アンサンブル、457 851-2)を堪能する。パレストリーナとヴィクトリア、そしてトゥール(Toul)の昇階唱を交えた一枚。トレント公会議後、グレゴリオ聖歌の定量音楽化(歌詞のアクセントの有無に応じて音の長短を厳密に規定する)がいっそう進み、17世紀にはメリスマ形式(1音節に多数の音符を当てる)を書き換えていく中で、教皇の権威を受け入れなかったフランスはさらに独自の書き換えを行うのだという(ライナーノーツによる)。うーん、なんとも面白いでないの。余談だけれど、In pardisumをいまだに「楽園にて」なんて訳しているのを見ることがあるけれど、ラテン語の初級文法で習うように、in + 対格は「方向」を表す(ドイツ語のin + 4格みたいに)ので、「楽園へ」とすべきでし。「楽園にて」なら奪格をとってin paradiso。とはいえこうした間違いは人ごとではないからなあ。ちゃんと勉強せねば(笑)。

12/11 教会暦では11月下旬ないし12月始めからの待降節をもって新しい年度の始まりとするという。なるほどもう新しい年度なのね。ちょうどいいので、これからバッハの教会カンタータをその本来の目的に沿って聴いていくというのも面白いかも、などと思い立った。バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)は定期公演「教会カンタータ全曲シリーズ」をやっているけど、こちらのは題して「個人的・教会カンタータ全曲聴取シリーズ」というところか(大笑)。というわけで、待降節向けのカンタータ。BWVの36、61、62、132、147、186あたりだが、147は前のBCJ版があるので、とりあえず36と61、62を分売の『バッハ2000』からアーノンクール版(8573-81196-2、8573-81203-2)で、また132はBCJ版(61も入っている)(BIS-CD-881)で聴いてみた。両方に入っている61などは、個人的にBCJ版の方がヴィヴィッドに響いてくる感じがする。

これに関連して、ちょっと手頃なガイドが出ている。樋口隆一『バッハの四季』(平凡社ライブラリー、2000)。ドイツの風物詩を扱った読み物としても面白いでないの。NHK FMの大昔の番組をもとに書かれた一冊を改訂したものだというが、巻末の解説文にもあるように、確かに昔のFMって教養番組っぽいのが結構あった気がする。またそういうのやってくれないかしらん。

12/07 ほとんどパッケージの絵に惹かれて(?)入手したパレストリーナ『教皇マルチェルスのミサ』(ウェストミンスター大聖堂聖歌隊、CDA66266)を聴く。パレストリーナの代表作というこの曲、ライナーノーツによると、トレント公会議後の典礼の刷新において、この曲がポリフォニーを救い上げた可能性を指摘する研究者もいるのだそうだ。確かに旋律は分かりやすいし歌詞も明瞭に発話される感じ。それでいて荘厳さを失わないところが、パレストリーナの職人技なんだろうね。この聖歌隊の声もいいし。ただ、せっかくウェストミンスター大聖堂で録音するんだったら、もっと残響を響かせて欲しいという気がしなくもない…?
12/03 昨日は東武美術館で「16-17世紀オランダ・フランドル風景素描の世界」展を見た。宗教的コンベンション(これに関しては最近、なかなか手頃なガイドブックが出ている。西岡文彦『名画でみる聖書の世界<新訳編>』(講談社、2000)がそれ)から離脱していく絵画の軌跡を見せるというもの。うーむ、音楽にも当然パラレルな動きがあったわけだよね。この後、本邦初だというラモーのオペラ・バレエ『エベの祭典』を観に北とぴあへ。CDで事前予習する暇がなかったのだけれど、音楽も踊りも実に見事で素晴らしかったなあ。オペラ・バレエというのは3、4幕のオムニバスで踊りの要素を重視した形式ということで、普通のオペラのような劇的な展開はないけれど、それだけに舞台そのものの美しさが際だってくる感じ。特に第2アントレ(幕)のスパルタ人対メセニア人の戦いの踊りが演出も含めて圧巻だった。ただ欲をいえば、ぜひ字幕にしてほしかった。歌詞の内容(渡されたパンフに書かれている)はなんてことないのだけれど、オペラの歌唱でセリフを聞くのはなかなか大変だ。母音は声を振るわすし、子音は残響などがかぶさってアーティキュレーションが不鮮明になるし、うーむ、部分的にしかわからんぞ。まあ、これは公演前にテクストを読み込んでおくか、あるいは歌唱ものの聞き取り練習で(笑)解決できるという気もしなくはないけれど(予習しなかったのが悔やまれる…)、とにかく暗闇でパンフ記載の歌詞を追うなんていやだ〜(笑)。再演の機会があれば、ぜひ字幕付きでお願いしたいところだ(カットされたという「詩」のアントレも入れてね)。

そうそう、余談だけれど2日のFrance 2夜8時のニュース(同局のサイトでReal Playerで観ませう)の最後でやっていたのだが、今週水曜にフランスではリュリを主人公にした映画『王は踊る(Le Roi danse)』が公開とのこと。監督はベルギーのジェラール・コルディオー(舞台の演出なんかもやる人らしい)。雑誌『アントレ』(この表題、前に妙なことを書いてしまったけど、たぶん上のオペラ・バレエなどの「幕」のことだろう)12月号には、この作品のサントラ(ARCHIV、463 446-2)がリストアップされていて、映画は来年秋に日本公開の予定と記されている。うむ、今から楽しみだ。



11/30 やっと仕事も一段落し、今日はリュートの佐藤豊彦氏ほかの『諧謔音楽 MUSIC IN DEJIMA』を聴きに。1600年にオランダ船が漂着した後、出島にできた商館において、もしかしたら奏でられていたかもしれない(記録は残っていないのだそうだ)という同時代の音楽のアンソロジー。同名のCDが出ていることは知っていたが、どうせなら生音がいいよな〜と思って出かけた次第。リュートも歌(山田千代美)も良かったけれど、リコーダー(大竹尚之)がとりわけなんともいえない味わい。曲としてはスヴェーリンク(「お喋りツバメ」「ファンタジア」)、カッチーニ(「アマリリ麗し」)、ホイヘンス、ダウランド(「涙のパヴァーナ)などなど、いずれも堪能させてくれた。こうなると、今度は当時の長崎のキリスト教音楽アンソロジーみたいなものも、どこかの団体にプログラム組んでほしい気がする。去る今月の14日、日仏会館でジャン・ドリュモー(アナール派第3世代の歴史学者)がイエズス会の日本での布教について講演した(内容は結構無難にまとめられていて、あまり新鮮味はなかった)が、質疑応答のところで演劇(典礼劇)による布教・教育ということに簡単に触れられていた。放送大学の印刷教材こと笠原潔『西洋音楽の歴史』(放送教育振興会、1997)では「キリシタン音楽」に一章が割かれていて、反宗教改革期のトレント公会議で典礼が刷新されたものの、そこで禁じられたローカルな聖歌などが日本で歌われてた(時間差の関係で残ったらしい)可能性があるという話が記されている。うーん、なかなか面白いでないの。
11/25 この間届いた注文分のCDから。一枚目はアイルランドもので『われは汝の墓に横たわれり』(ドゥルラ、05472 77393 2)。キーン(keen)という号泣しながら歌われる葬儀の歌を中心にしたアンソロジー。口伝えの音楽はほとんど年代特定は不可能だというが、ライナーノーツには18世紀以降のものではないかと記されていた。それでもアイルランド中世への想いを喚起せずにはいない一枚。うーん、なんとも渋いぜ。それにしてもアイルランド系の人々の民族的伝統への思い入れというのは半端でない。最近読んだトマス・カヒル『聖者と学僧の島』(森夏樹訳、青土社、1997)も、「ゲルマン人の侵攻によるローマ帝国の荒廃の中で、写本文化を、つまりはヨーロッパ文化を救ったのはアイルランドなのだ」と言いきり、その立場を高らかに貫いている。実際はどうなのだろう?確証はないけれど、むしろそこに数々の流れの一つを見てとるというスタンスの方がよくないかしらん?うーん、謎だ。

もう一枚は『地獄のバグパイプ』(ヴィットリオ・ジェルミ&ルカ・ピアンカ、910 050-2)。有名なヒエロニムス・ボスの絵画「快楽の園」(16世紀始め)をパッケージにあしらっているが、このパッケージにも題名にも反して中身はマレとかフォルクレとかの弦楽曲。なぜこのパッケージなのか、「バグバイプ」という題名なのか意図不明だ。だけどまあ、ボスのこの絵画自体が実に多義的というか意図不明というか。だからそれにあやかってということなのかしらん?神原正明『天国と地獄』(講談社選書メチエ、2000)は、この絵を「最後の審判図」の系譜から図像学的に読み取ろうとしていて面白い。

11/18 久々の快晴に後押しされて、今日は「大聖書展」を見に東京オペラシティへ。げげ〜、最終日前日だけあってすごい人出。70分待ちで入場したが、会場内もえらく混んでいた。個人的なお目当ては、本邦(というかアジアで)初公開の「死海文書」ではなく、むしろバチカン所蔵の稀覯本だったりしたのだが、ゆっくりと見れなかったのがちょっと残念。慶応大学のHUMIプロジェクト(稀覯本のデジタル化プロジェクトだ)からも、グーテンベルクの42行聖書が展示されていた。それを紹介するビデオのBGMが「ラ・フォリア」で、雰囲気を高めていた(笑)。

だからというわけでもないけれど、今日はハルモニア・ムンディ・フランスが出している「テ・デウム」3枚セットを聴く。いずれも演奏はレ・ザール・フロリサンだ。年代順にいうと1枚目はブージニャック『モテット集』(HMX 290852)。ブージニャックでは対話形式、リトルネッロ(反復)形式のモテットが斬新なのだという。特に後者の旋律の展開(挿入されるアップテンポの部分とかね)が面白い。全体的な味わいも実に奥深い感じ。2枚目はシャルパンティエ『テ・デウム』(HMX 290850)。シャルパンティエといってもマスネの弟子の方ではなく、当然マルク=アントワーヌの方。収録されている「テ・デウム」の序曲、なんと今でもよく使われている「凱旋行進曲」でないの!続く「ミサ、聖母マリアの昇天」「聖処女の連祷」は一転して端正な宗教曲。3枚目はドラランド『テ・デウム』(HMX 290851)。リュリの後を継いでルイ14世の宮廷音楽家となったドラランド。このモテット、なんとも荘厳で劇的な作りになっていて素晴らしい。18世紀の演奏会の定番メニューだったというドラランドの作品、膨大な曲数があるそうだが、現時点での録音数はどのくらいあるのだろうか。今度探してみよう。

11/13 先月記した「フランス音楽詩集」なる公演会に昨日出かけた。生音で聴くチェンバロはやっぱりいいなあ。なにかこう身が引き締まるような響き。曲としては、最初のジャケ・ド・ラ・ゲール(ルイ14世に注目されたという女性作曲家だ)は、その良さがちょっとよく分からなかった。もう少し聴き込んでみないとね。クープランやリュリ(ほぼ同時代のダングルベールがチェンバロ用に編曲したものという)、そしてラモーは、多少聴き馴れてきたせいかやっぱり味わい深いな〜。バロックダンスも、ちょっと会場が狭くて窮屈な感じだったように思うけど、それでも優美な型が印象的だった。ラ・フォリアへの振付けが見れたのも収穫だったし。

ちょっとそれに触発されて、今日はラモーの『クラヴサン全曲集第3巻』(スコット・ロス、2407 SAN 75)(とりあえずゲットできたのはこの巻だけ…うーん)を堪能。1728年の新クラヴサン曲集が入っていて、これは昨日の演奏会でも演奏されたものだ。ラモーは和声を重んじ「理性的な立場に貫かれた古典主義的な音楽理論を形づくっていた」(中村雄二郎『精神のフーガ』)といわれるが、なんだか合理主義も徹底していくと、どこかでやはり情感的なもの、理性の外側へと反転することがあることをまざまざと感じさせてくれる気がする。89年に若くして亡くなったというロスの華麗な演奏がまた実にいいなあ。

11/08 今日はなんだか気分がすぐれなかったのだが、これがいっぺんで吹き飛んだ。それほどまでに衝撃的だったのが、タリス『汝よりほかに望みなし(spem in alium)』(ウィンチェスター大聖堂聖歌隊ほか、CDA 20400)。うーん、あまりのことに言葉を失ってしまったぞ。各モテットもすばらしいが、なんといっても5声の8パートから成る40声の表題曲がもの凄い、凄すぎ。なんだか身体ごとどこかへもって行かれるような気分になってしまう。まさに声の大伽藍だ。
11/06 昨日の晩、アムステルダム・バロック・オーケストラ(トン・コープマン指揮)によるバッハ『ブランデンブルク協奏曲』の全曲放映があると聞き、コンサートに行けなかっただけに大いに期待して待っていた。どこかのコンサート会場での録画を流すのかと思いきや、スタジオでの演奏。それにしてはちょっとがっかりだ。ステレオ放送(だったはず)なのに、全然ステレオに聞こえないこの音って何なの?演奏の問題ではなく、うちの機器の問題ですらないとしたら、やっぱり集音・録音に難ありということ?いまさらながら生音を聴き逃したのが残念だ…。

今日は買ってあったCDから。まずはエミリオ・デル・カヴァリエリ『エレミア哀歌』(パドヴァ古楽センター合唱団、TC 55030501)。カヴァリエリは16世紀末にフィレンツェでメディチ家の芸術監督を務めていたという音楽家。この『エレミア哀歌』、現存する唯一の宗教作品だというが、なんとも味わい深いものがある。『魂と肉体との劇』という大衆教化のための宗教歌劇もあるというから、そのうち探してみよう。もう一枚は、バッハ『リュート組曲』(ナルシソ・イエペス、463 022-2)(BWV995-997、999-1000)。ギターの神様ことイエペスによる演奏だけあって、アナログ録音(73年)ながらなんとも端正な音だが、全体にテンポがゆっくりなせいか、ちょっと味わいがスペイン風(?)。まあ、ご愛敬だけど、他の演奏も聴いてみたくなった。

11/03 おそらくは基本図書の一つ、礒山雅『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』(東京書籍、1985)を読んだついでもあって、サントリーホールのレクチャーコンサートでバッハ「クラヴィーア練習曲集第3巻」(俗称:ドイツ・オルガン・ミサ)の演奏(全曲ではない)を聴いた。レクチャーは、上の書籍でも少し触れられている「数の象徴」についての話が中心。曲の巧みさには圧倒されてしまう思いがする。

さらに余談ながら今日は国立西洋美術館で「死の舞踏」展を見る。死の舞踏というと中世末期に登場する、死者につき従う骸骨の図だが、エミール・マール『ヨーロッパのキリスト教美術(上・下)』(柳宗玄、荒木成子訳、岩波文庫、1995)によると、フランスの場合、知られている最古の死の舞踏の絵はパリの「罪なき幼児聖堂墓地」に描かれた15世紀のフレスコ壁画とのこと。ただし壁画そのものは失われていて、その模写と思しき絵が木版画で残っているらしい。今回の展示はデュッセルドルフ大学のコレクションだということだったが、入ってすぐのところにバーゼル市の壁画の、これまた模写が掲げられていた。16世紀まで絵はそれほど多くなく、17世紀が若干と、18〜20世紀のものが中心だったが、死の形象が現代にまで息づいている様子が一望できた。

帰路、ラッスス『聖ペテロの涙』(アンサンブル・ヴォーカル・ウーロぺアン、HMC 901483)ほか数枚を購入。この盤の指揮はヘレベッヘ。ラッススの遺作というだけあって、曲はまさに全霊を込めた魂の祈りというに相応しい。ライナーノーツによると、この曲にも数の象徴が様々に込められているのだという(3の3乗の27曲から成り、しかも7声による宗教的マドリガーレである…云々)。上記のレクチャーコンサートでは、講師の丹羽正明氏が「バッハの曲の象徴はバッハ個人の独創ではなく、ある伝統に基づくものだ」ということを強調していたが、なるほど、その一端はここにも見られるというわけか。



10/31 昨日はフライターク・アカデミー室内管弦楽団ほかによるバッハ「ロ短ミサ」(ミシェル・コルボ指揮)を聴きに。速いテンポで一音一音をくっきり出している印象だったけど、私個人は仕事の疲れが一気に出たみたいで、まったく「入って」いけんかった。球形の音の塊が演奏家たちの頭上にぽっかりと浮かんでいるみたいな感じとでも言えばいいかしらん。そのため舟を漕ぎそうになってしまう。最後までそんな調子で、あれよあれよという間にグロリア、クレド、サンクトゥスとなって、ついに終了。げげー、やはり万全の体調でないとどうしようもないなあ。

今日はちょっと反省してゆっくり休養。この間のマタイがよかったイングリッシュ・コンサート(ピノック指揮)によるコレッリ『合奏協奏曲集作品6』(459 451-2)を聴く。こちらも端正ですがすがしい演奏。クリスマス協奏曲として知られる8番は言うまでもなく、それ以外も実に味わい深いっす。この軽快さ、まさに元気回復の素というに相応しいぞ。

10/27 この間届いたCDを聴く。復活祭の典礼劇『3人のマリア』(アンサンブル・ジル・バンショワ、45398-2)。先の『ダニエル劇』が典礼劇の一つの頂点として目まぐるしい絵巻を展開するとしたら、こちらはより上流で(原初の形により近いものとして)物静かに歓喜を讃える劇という感じ。穏やかでいて毅然とした歌声だ。チャールズ・H・ハスキンズ『十二世紀ルネサンス』(別宮貞徳、朝倉文市訳、みずず書房、1989)によると、宗教劇はそもそも、9世紀ごろに復活祭の入祭文のかけあい(3人のマリアが復活した主の墓を訪れたことに基づく4行の対話)に端を発するのだという。これが12世紀ごろにいろいろな要素を加えられて、教会内の墓地などで演じられるようになったというもの。また、ライナーノーツによると、この録音はオリニー・サン・ブノワのベネディクト会女子修道院に伝わる写本がもとということで、当時の世俗への教育目的もあってラテン語に仏語が混じっている。

このほか、今日は『シャンソン・ド・トゥルヴェール』(ヒリアー&ローレンス=キング、HMU 907184)も堪能。遠い憧憬をかきたてるゆったりとしたテンポと残響音が、妙に心地よかったりして。このところ、フランスのLivre de Poche(いわゆる文庫だ)版『Chansons des trouveres』(Lettres gothiquesシリーズ)をたまに拾い読みしているのだけれど、自分の中で読むのと聴くのではイメージがまだ相当違っている感じ。ううむ、調整せねば(笑)。

10/21 このところ仕事が忙しくなってしまったのだが、昨日はそれを押して、ちょっと楽しみにしていた講演会へ。コレージュ・ド・フランス教授ミッシェル・ザンクによる「中世文学における詩人と預言者」(日仏会館)。ううむ、むちゃくちゃ刺激を受けてしまったぞ。話は12〜13世紀にかけて、それまで一段低いものと見られていた詩という形式の価値が変容し、いかに復権を遂げていったかという内容。その具体的なプロセスを追っていったらすんげー面白いだろうなあ、と思った。うーん、勉強しよう(笑)。

前にちょっと書いたが、オーバーアマガウ行きは結局10年後の宿題になってしまった(8月のダブリン行きも、実は10年越しの宿題だったのだけど)が、そのサイトのショップで注文していた受難劇のCD『オーバーアマガウ受難劇(Passionsspiele 2000)』がやっと届いた。船便だったせいかケースが壊れていたが、中身は無事(よかった〜)。なかなか素晴らしい録音で、とても気に入った。17世紀にペスト鎮静化を感謝するところから始まったというこの受難劇、今使われている曲は、村出身のデトラーによる19世紀の版をさらに改作したものだという。ライナーノーツには、ハイドンやモーツァルトが曲作りのモデルになっていると記されているが、バッハっぽい部分も感じられるし。劇場の写真もいくつかあるが、それで見る限りなんだかとても壮大な雰囲気だ。「村全体に綿々と受け継がれていく音楽」なんて羨ましい限りだよな〜。そうそう、受難劇は他にチロル地方のエールなど各地にあるという話だ(受難劇ガイド情報のページを参照。結構あるんだねえ。いろいろ行きたくなってしまうぞよ)。

10/14 モンテヴェルディものだということで、滅多に行かないオペラを覗いてみた。モスクワ・シアター・オペラの『ポッペーアの載冠』(ポクロフスキー演出)。身も蓋もない言い方をすると、脳天気なポッペーアと色ボケ皇帝ネロが、まわりの人々を客観的にみて不幸にしながら自分たちだけハッピーらっぴー、というなんともたわいのない話(笑)なのだが、曲そのものはすっごく良かったので、まあ許そう(笑)。他のリファレンスを持ち合わせていないので演出の善し悪しはわからんけど、あんなにビブラート利かせていいものなのかしら?モンテヴェルディはレチタティーヴォ(語るように歌う)が理想という話だったが…?

皇帝に死ねと命令されたセネカの自決前のシーン、これはすっごく格好よかったなあ。セネカといえば、恥ずかしい限りだが『幸福な生活について』が積ん読になったまま…むむ、反省しよう。そういえば上演のチラシには、『ポッペーアの載冠』は史実に題材を求めた初のオペラと書かれているけれど、戸口幸策『オペラの誕生』(東京書籍、1995)によると、むしろランディ作曲の『聖アレッシオ』というのが歴史上の人物を取り上げた最初の作品だろうとのことだった。『ポッペーア』の方は1642〜43年の初演だそうで、色々な版があるのだという。うーむ、別の上演も観てみたいぞ。

10/12 今日は近所に金木犀の香りが立ち込めていた。秋だな〜という感じ。なんか去年まではこういう余裕すらなかったような気がする。ま、それはともかく。今日はクレマン・ジャヌカン・アンサンブルによる「ラブレーの大饗宴」なる公演を観に。ラブレーと同時代の作曲家の作品をコラージュした一種の音楽劇。俗還した修道士たちが騒ぎまくり、最後には再び信仰へと戻って行くという趣向。こりゃ楽しかった。でもなんだかこのアンサンブル、普通に歌うのをじっくり聞きたかったなあ、という気がしないでもない(だって、おそらくは演じる側も観る側も、ついつい演出に気が行ってしまうんだもの)。

これに先立って、ちょっとラブレーを読んでみる。『第一之書、ガルガンチュア物語』は学生の時に原文に苦労したのでパスし、本当はこちらが先に書かれたのだという『第二之書、パンタグリュエル物語』を岩波文庫ワイド版の渡辺一夫訳で。うーむ、やはりこの超一級品の訳にはなんとも舌を巻いてしまう。それにこのホラ話、ちょっとアルコールを入れつつ読むと実に可笑しいぞ。ゲラゲラ笑ってしまった。上の公演での修道士連中の馬鹿騒ぎ、悪戯騒ぎも、ちょいとお下品な部分も含めてうまくエッセンスをすくい上げていたように思える。ホラ話よ永遠なれ(な〜んてね)。

話は変わるが、さる知合いの方から演奏会の案内を頂いたので、紹介しておこう。ちょっとは宣伝になるかしらん?

     公演名:第3回フランス音楽詩集 - クラヴサン曲集&バロックダンス
     日時:11月12日(日)、5:30pm
     場所:日仏会館ホール(恵比寿)
     出演:足達順子(クラヴサン)、市瀬陽子(バロックダンス)
     プログラム:ゲール、クープラン、リュリ、ラモー
チケットは前売3000円、当日3500円。チケットぴあでも扱っているとのこと。
10/07 ダンテもの(?)を2枚ゲット。一つは『ダンテの時代の音楽 - 愛がわが御仕えを促す』(アンサンブル・ルキダーリウム、ED 13051)。ダンテの時代のトルバドゥールの音楽と詩句の朗読を収めた1枚。もう一つはその名もずばり『ダンテとトルバドゥール』(セクエンツィア、05472 77 227 2)。個人的にはこの後者の方が全体的に気に入ったが、前者の朗読部分もなかなか興味深い。どちらにもダンテが高く評価したというアルノー・ダニエルの曲が入っているしね。

とはいえ、エーリッヒ・アウエルバッハ『世俗詩人ダンテ』(小竹澄栄訳、みすず書房、1993)によると、ダンテが讃えたダニエルにおいてさえ、その内的な統一性は「名人芸的代用品」に過ぎないのだという。当時のイタリアに入って来たプロヴァンス詩(オック語によるトルバドゥールの詩だ)の構成は、詩節と音韻の規則に縛り付けられていたというが、それはプロヴァンス詩が特定集団(宮廷で雅びを愛でる人々だ)の私有物だったから。ダンテの革新性は、まさにそれを俗語(イタリア語)によって解放し、しかも擬古典的な荘重体でもって論理的なものに仕立て上げた点にあるのだそうだ。なるほどねえ。

10/04 バッハイヤーも残すところあと僅か。前に、「マタイ受難曲」は長いからコンサートで聴くのはためらわれる、てなことをホザいたが、今日はその禁をあっさり破り(笑)、イングリッシュ・コンサート(トレヴァー・ピノック指揮)の「マタイ受難曲」公演へ。仕事で徹夜明けに近い状態から仮眠を取っただけというフラフラのコンディションで出かけたので、途中で眠ってしまうことを覚悟していたのだが、あにはからんや、ほとんどカンフル剤でも打たれたかのようにシャキッとしてしまった。この「マタイ」、これはもうなんというか、まさに「海」だ。大小さまざまな波が幾重にも練り合わさって脳髄めがけて押し寄せてくる(そう思ったのは身体のコンディションのせいかしらん?)。ヘレベッヘの「ヨハネ」が、あえて言うならいきなり放り込まれた森の中を疾走する感じなのに対し、こちらは逃れようのない大海に呑みこまれた感じ。様々にうねる波間を、なすすべなく漂い、そして圧倒される3時間。こりゃCDでは絶対に味わえんなあ。マタイはダイジェストでやってくれという前言は、ここで撤回しよう(笑)。



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Last modified: Sun Mar 25 23:17:10 JST 2001