古楽蒐集日誌 - 過去ログ

2001年9月〜2002年2月

02/25 『ムネモシュネ』(ECM 1700/01)がようやく届く。で、早速聴取。おお、サックスのインプロビゼーションは前作よりもしなやかさが増した印象。ライナーノーツにはヘルダーリンの詩の一節が。うーむ、なんとも渋いぞ。だけど個人的には、やはりどちらかというと前作の方がお気に入りかな。ド・ラ・リューとかペロティヌスとかは圧巻だもの。今回は冒頭のペルーのフォークソング以下、世俗曲などの方に面白みがある感じ、か。

さらに国内盤でクリストフ・ポッペン+ヒリヤード・アンサンブルの『モリムール(われらは死す)』(UCCE-2012)も入手。バロックヴァイオリンとのセッションでバッハを、というわけだけれど、実に峻厳な響き。レコード屋では「癒し系ミュージック」みたいな扱いだが、そんな半端なレベルを遙かに凌いでいる(と思う)。そもそも祈りのないところに癒しなどあるのか、と個人的に昨今の安直な「癒しもの」の風潮には反対なんだけどね。いずれにしても一番の聞き所は4声のコラールを入れた「シャコンヌ」。ライナーノーツによるとこれは「シャコンヌがバッハの最初の妻への追悼曲で、しかもコラールの引用で織りなされているのでは」という空想の産物なのだそうだが(学問的には論評に値しない仮説と磯山氏が書いている)、この演奏の重厚感を前にしては、トンデモ系だなどと片づけてしまうよりもむしろ、これを曲解釈(演奏)の根底に横たわる根源的基盤の揺らぎを見せつけるものとして捉える方が面白いのではないかと思う。おそらく作り手側も、そうしたラディカルな批評としてこれを提示しているんじゃないのかしら。

02/16 げげーん。今週は仕事に関係のあるシンポジウムとかいろいろあって、ついでにどさくさで仕事まで引き受けてしまったため、ヒリヤード・アンサンブル+ガルバレクのコンサートを完全に逃してしまった…ちょい残念! ま、ぼやいても仕方ないので、コンサートの表題作『ムネモシュネ』のCDをネットで注文したものの、これはいまだ届かず、結局口惜しさとともに『オフィチウム』(POCC-1022)を聴いている…。うーん、このサックスの入り方、やはり実に絶妙なのだけれど、アルバム全体を聴き直してみると、どこかややワンパターンになっている感じもしなくもない(爆笑)。でもこういうセッション、個人的にはやっぱり面白いと思うぞ。『ムネモシネ』に大いにも期待しているのだけど、早く届かんかなあ。
02/07 今日は朝からテレビで、バロックバイオリンのヒロ・クロサキのリサイタルを流していた。アレグロミュージックのページなどには、ちょっと挑発的なインタビューが載っていたりするけれど(笑)、この奏者、演奏中はとても楽しそうに弾いているところがとても共感できたりする。演目はバッハ・プログラムで、バイオリン・ソナタ(BWV1017、1021)と「音楽の捧げ物」「ブランデンブルク」5番の第二楽章なんかをやっていた。で、今日はこの最後のブランデンブルクに触発され、以前中古で購入してあったピノック+イングリッシュ・コンサートの『ブランデンブルク協奏曲』(F35A 50010 & 50011)を聴く。いつもながら、この団体のは古楽器演奏だけど、モダンの雰囲気を完全には捨てず、実に味わい深く仕上げているところがなんともいえん。ブランデンブルクは2、3、5番あたり(4番もかな)が取り上げられることが多いような気がするけど(技巧の冴えみたいなものをアピールできるからかもね)、個人的には1番とか6番とかもいいと思うんだけどね。


01/27 今日はモーツァルトが生まれた日なのだそうだが、なんだか放送はカール・リヒターによるバッハ・デイという感じ(笑)。夜中にテレビでやっていた「ヨハネ受難曲」(緩いテンポである種の迫力を醸し出している感じだった)に続き、FMの「朝バロ」ではバッハやヘンデルのオルガン曲。このオルガン演奏がまたとーても良い(笑)。

話は変わるが、日本の小学校などが伝統的な和楽器を取り入れようとしているそうだが、フランスでも一部の小学校などでリュートや18世紀ギターなどをカリキュラムに取り込もうという動きが出ているそうだ。次の世代の演奏家がそういう中から出てくるのかもね。とはいえ先々には困難も待ちかまえているらしく、さる信頼できる筋から聴いたところでは、フランスは古楽に関しては他国に遅れをとっていて、地方のコンセルヴァトワールなどでは、教師の政治関係のせいなのか、古楽奏者がなかなか教職に入り込めないのだそうだ。うーん、難しい問題だな、こりゃ。そういえばアントワーヌ・エニオン『音楽の情熱』(Antoine Hennion, "La Passion musicale", Edition metaile, 1993)という音楽社会学の一冊があるのだが、そこでこのモダン対バロック(古楽奏法)の問題が取り上げられていて、両者の間の溝が、音楽の「制作」に関与する全体(音楽学へのスタンスの違いから市場の巻き込み方までいろいろ)での対立図式であることが指摘されている。エニオンはそこで、音楽というはかない実体よりも、それが可能になる(演奏の形で実現される)ためのあらゆる「媒介」行為の分析を提唱するという寸法なのだが、いずれにしても、そうした政治関係の分析もいろいろな意味で面白そうではある。

01/24 昨日朝のテレビでは、クラシック番組の枠内で珍しくシタールの演奏会を流していた。うん、こういう民族楽器の紹介はどんどんやって欲しいよね。それにしてもシタールの演奏はなかなか面白い。ロックなんかでいう「チョーキング」だっけか、弦を押さえてずらす手法が多用される。あのなんともいえない音色はそうやって作るんだねえ。しかもチョーキングしやすいように第1弦(高音弦)下の指板が広くとってある。なるほど、うまく出来ているもんだ。翻って西欧の撥弦楽器、こういうずらしはほとんどない。下手にやると正しく押さえるようにとバツを食らう(笑)。ま、それはともかく。今日はそれに触発されて(?)、久々にダウランドのリュート曲集を聴く。『ダウランド - リュート選集(Selected Lute Music)』(ヤーコプ・リントベルク、BIS-CD-824)。定番の「ラクリメ」「デンマーク王クリスティアヌス4世のガイヤルド」ほか珠玉の名品の数々だ。演奏も落ち着いた雰囲気だけど、ガイヤルドの類などの軽快な曲が特に素晴らしいぞ。
01/15 今日は『宮廷の階段に - いにしえのフランスのロマンスとコンプラント』(ル・ポエム・アルモニック、Alpha 500)を聴く。うむ、恋愛詩と哀歌というだけあって、なんとも哀調感溢れる1枚。前半は15、16世紀からの口承の歌曲が中心に集められている。不本意な生活を嘆く女性の切々たる訴えがとても悲しい「若い娘(une jeune fillette)」とか、親の意に反して騎士と駆け落ちした娘への王の嘆きを詠った「ルイ王(Le Roi fille)」とかがとりわけ秀逸。後半は18世紀以降と新しいが、表題作「宮廷の階段」は映画なんかで一度は耳にしたことがある旋律だ。こういうのを聴くといつも感じられる(素朴ながら)のは、口承の歌(たとえそれが再構成され現代的な演奏方法によるものであっても)には洋の東西を問わずどこか同じような一般化傾向(パターン化というか)が見いだせるように思えること。伝承・記憶されやすい旋律を求めていくといった同じ動きが、そうした一般化傾向に行き着くのだろうか?場所や時に関わりなく、結局人の営みには大差はないということか…。
2002/01/07 年末年始を挟むクリスマス期(教会歴では6日まで)はテレマン『クリスマス・ミサ(Harmonischer Gottesdienst - Weihnachten)』(capriccio 10796)を聴いて過ごした。クリスマス期のカンタータを集めたもの。新年のこの時期に相応しい、軽やかさ華麗さとを併せ持ったような曲が続いていい気分にしてくれる。抑制の利いた、いかにも静かな喜びにひたる感じがなんともいえんよなあ。テレマンは今年の重点項目にしたいと思っていたりする。年末より前、MacのiTunesでオンラインラジオのMostlyClassical.com(どこぞの雑誌でないよ)をかけっぱなしにしていたのだけど、テレマンの『ターフェル・ムジーク』なんかがよくかかっていて、改めてじっくり聴いてみたいと思ってしまったというわけ(笑)。ちなみにこのurl、WindowsならNetscape Winampなんかで聴ける。


12/23 今年は年末に「メサイア」は聴けないかもなあ、と思っていたら、BSでザ・シックスティーンの「メサイア」を演っていた。これは嬉しい。でもやっぱり生音がいいよなあ。話変わって、 アンソニー・ストー『音楽する精神』(佐藤由紀ほか訳、白揚社、1994)を読んでみる。後半に多くのページが割かれる、ショーペンハウアーからフロイトへのペシミズム的系譜を否定して、ニーチェからユングへと続く「生の賛美」を支持するなんて話は、なにをいまさらという気がしないでもないが(笑)、注目できるのは、前半の、音楽の起源を自然の音のような外部に求めず、経験の秩序付けとしての内部構造ととらえている部分。ダ・ヴィンチが弟子たちに、壁の染みを眺め、そこから風景や動きへと練り上げる訓練を推奨した話が述べられている。ま、これも話としてはそれほど目新しくはないにせよ、発達心理学、考古学などとの絡みで刷新されうる可能性もある。著者は心理学者だけあって、集団参加としての音楽から孤独な聴衆への流れといった問題にも目配せしているけど、これだけではなんだかもの足りない(笑)。
12/17 うーむ、 放言日記 の方にも書いたけれど、昨日はちょっと悲惨なバッハの合唱を聴いてしまったので、口直しというか耳直ししたいなあ、と思い、その同じモテット(BWV 227)を含む『モテット集』(ジョン・エリオット・ガーディナー、0630 17889 2) を聴く。うんうん、やっぱこうでなくては(笑)。歌っているのはモンテヴェルディ合唱団で、この団体によるモーツァルト『レクイエム』(420 197-2) なんかも秀逸。最近、なし崩し的にモーツァルトなんかも蒐集対象に取り込む感じになっているけど(笑)、モーツァルトも、数は少ないけど宗教曲がしっくりくる感じ。
12/13 年末進行で忙しい最中にもかかわらず、今日はBCJによるバッハ「クリスマス・オラトリオ」を聴きに(笑)。このオラトリオ、最近はなかなか生演奏されないというから、ちょっと貴重だったかも。4月のアカペラが悲惨だったのでちょっと遠ざかっていたBCJだけど、ちょっとあの独特な「節回し」みたいな部分が薄らいでいた気もする(?)。そんなわけで、どこか全体的にちょっと今ひとつという気も(笑)。だけどまあ、よかよか。さすがに底力は感じられるしね。個人的に年末恒例はヘンデルの「メサイア」なんだけど、BCJも24日に演るらしいが、むしろ先に記したコンヴェルスム・ムジクムの来年4月の公演に期待したいので、ちょっと先送りしておくことにしよう(笑)。
12/09 レオンハルトのチェンバロ演奏会に出かける。個人的にはオルガンの方が聞きたかったんだけど、まあいいか(笑)。クープラン、ダングルベール、ルルーなどの小品による構成。うーむ、きわめて淡々と弾いてたなあ。聞いているこちら側にも安堵感のようなものが広がる。ちょっと眠くなる位に(笑)。終わってみるとなんだか物足りない気もしたので、帰宅後にオルガンものを聞く。中古ショップで見つけた ブクステフーデ『オルガン作品集』(レナ・ヤコブソン、05472 77455 2) 。収録されているプレリュードはどれもドラマチック。ライナーノーツには、イタリアで発達した表現豊かな奏法は北ドイツに受け継がれ、ブクステフーデで最初のピークに至るのだとか。荘重な響きがとてもいいよな〜。
12/06 6日は聖ニコラウスの祝日。ドイツとかオランダとかでは、この日に子供にプレゼントあげたりするという話。ヤコブ・デ・ヴォラギネ(13世紀)の『黄金伝説』(仏訳はGF-Flammarion、邦訳は人文書院から出ている)によると、聖ニコラウスはギリシア南部のパトラスという町に住んでいた。近所の隣人に3人の娘がいて、赤貧のため身売りまでさせられたことを見かねたニコラウスは、布に金を包んで夜投げ入れ続けた。これがまあ、プレゼント(クリスマスの)の起源とされる話。靴下とかはこれには出てこないので、別の出典があるんだろうけどね。ま、それはともかく。今日は久々にグレゴリオ聖歌でも聴こうというわけで、 『聖歌 - サント・ドミンゴ・デ・シロスのベネディクト会士』(CDC 7243 5 55138 2 3) 。ほとんどベスト聖歌集という感じの一枚。反響が実によく取り込まれていていて気に入った。師走はなんだかんだと慌ただしいだけに、やっぱりこういう静謐感は貴重だなあ。


11/30 今日は時間の空きができたので、「ヴェルサイユの祝祭 III - 『踊る国王』ルイ14世の栄光」という公演に出かけてみる。バロックダンスがフルに観られるというので期待して行ったのだけれど、うーん、いろいろなことを考えさせられてしまったぞよ。主な出し物は前半が「太ったカトスの結婚」、後半が「海の祭り」。前半のコミック・マスカラードはいかにも宮廷的な出し物。だけれど、こういうのはやはりさほど広くない部屋で演じてこそ映えるというもの。コンサート会場では違和感あり。しかも歌の部分は仏語なのに、道化のやりとりだけは日本語というのも根本的に難があると思うんだけどなあ…。バロックダンスはおそらく、舞台環境の違いを無視してまで当時の舞台を単に忠実に再現するだけでは面白くない。また、輪舞のような感じで大人数を舞台に上げるより、後半のメヌエットのペアダンスや、「海の祭り」の幻想的な舞台(表現主義っぽさがかえってすばらしい)に仕立ててこそ味わいがある気がする…。そう、過去の再現だけが問題ではない。回帰は革新のためになされてしかるべきなんじゃないかな、と。いかにも狭苦しい古楽イデオロギーにただ埋没しちゃいかんよなあ、という気がした。
11/26 武久源造率いるコンヴェルスム・ムジクムの公演に出かけてみた。プログラムはビーバーとパッヘルベル。開演前、「あれ、客層がなんだか若いんでないの」とか思っていたら、それもそのはず、ちょっとライブハウス的なノリに近い(?)演奏会だった。武久氏は、その重厚な存在感とトークの馬鹿話との落差が妙におかしい。演奏は即興が二重三重に炸裂。ビーバーの「戦争」では、ヴィオラやチェロが鉄砲や大砲に早がわりし、同じく「描写」ではヴァイオリンが猫になったり…いやもう、こりゃ、あーだこーだ言わず楽しむしかない(笑)。パッヘルベルの方はカンタータなどもあったけど、定番「カノン」のさわりを、モダン系のオケがやるような演奏と典型的古楽演奏のスタイルで対比したあと、自分たちの演奏(古楽演奏ベースに、モダン系の味わいを加味していた)を披露していた。あと余計なことだが、この団体名conversum musicumはチラシに「音楽の変革」だとされているけど、たぶん目的分詞ということじゃないかと思うので正しくは「音楽の変容のために」とかだよね、やっぱ(?)。音楽の変革っつーなら素直にconversio musicaとか訳すんでないかな、と。いずれにしても今後とも楽しみかも。
11/23 今日は寺神戸亮指揮でラモー『レ・ボレアード』を聴きに。うん、ラモーのこの曲、イージーリスニング風に言うと「ご機嫌なナンバー満載」という感じで実に素晴らしい。ラモーというと理論面では和声論の大家だけど、旋律だって多彩だ。やっぱり大御所やな〜。で、この曲、本来はラモー晩年のオペラだというが、今回のは組曲にしたものだそうで、嵐や地震の表現がなんとも秀逸。前半は関連作品ということでモーツァルトの交響曲「パリ」も、新説(第一楽章をアレグロヴィヴァーチェとする)にもとづく新しい試みだそうで、華やかさ倍増、というところ。いや〜存分に楽しめた。またやってほしいなあ。
11/21 お〜、今週はFMで古楽特集をやっている。1日目(19日)がクレマンシック・コンソート(放送ではクレメンツと原音読み)。プログラムはウッチェルリーニの作品集で、結構面白い。3日目の今日はヴェニス・バロック・オーケストラ。一躍話題になった「四季」を含むヴィヴァルディ中心のプログラム。ライブ録音でだが、この装飾音、即興はCDリリースのもの(『四季』(sk 51352))に輪をかけて絶好調(?)。初版にあったという「特殊効果」を再現したという触れ込みのこの演奏、ほんと鳥の声や嵐の様子など臨場感たっぷり。来日公演を逃したのが、いまさらながら残念だ。とはいえ、カルミニョーラのヴァイオリンって、いくら速いパッセージでも一糸乱れることなく音を刻んで行くところなどがもの凄いけど、スローな部分はやたら淡白で、どことなく人間離れしている(機械みたい)感じもしなくはない。でも即興部分にはすごく生きてくるし、なにより『後期ヴァイオリン・コンチェルト』(sk 89362)が素晴らしいので、即断しないことにしよう(笑)。
11/16 8月に記したジル・トーメのCDをようやく聴取。『ジャカン家の夕べ』(ZZT 990701)というやつ。一般に古楽演奏のモーツァルトって、スタイル的な違いとかはさほど感じられないせいか、印象としては「普通」な気がする(笑)。イ・ムジチ合奏団のモーツァルト(フィリップスから2枚組で出てる『イ・ムジチ』(PHCP-9519/20)の2枚目)なんかも、演奏技術の高さはなるほどと思わせる気はするけど、なんだかいかにも「ふつ〜」(彼らの定番「四季」もそうだよなあ)な印象を受ける。ま、それがいいという人も多いんだろうけどね。で、話を戻すと、このジャカン家というのはフランスからオランダに移り住んだ一家なのだそうで(亡命したユグノーの家系か何かかしらん?)、1780年代に、その一家のニコラウス=ヨーゼフ(化学者、植物学者)が毎週水曜に友人らを集めて夜会を開いていてたという話。モーツァルトもしょっちゅう顔を出していたのだそうで。トーメのこのCDは、その夜会を模したモーツァルト作品集。全体的に落ち着いたムード(モーツァルトだけに当然という気もするが)、歌曲の小品がとてもいい味を出している感じ。
11/11 ちょっと前にデプレの『武人ミサ』を聴いたけれど、今度はオケゲム『武人ミサ、無名ミサ』(The Clerks' group, CD GAU 204)。こちらは曲はともかく歌唱がどこか快活にすぎ、静謐というよりもどこか風のそよぎに近かったりとか。曲自体としては、両ミサ曲よりも、間に収録された「救いたまえ、聖母よ」がとりわけ印象的だった(笑)。それから今日のもう1枚はモラーレス『ミサ・ミル・ルグレ』(The Hilliard Ensemble, DS-0101)。サックスはないけれど(爆笑)、さすがはヒリアード・アンサンブル、この果てしなく澄んだ歌唱はホントただものではない。どこか、音の侵入という純粋体験(それは幻想なのだけど、ね)に近いものがあり、鳥肌が立つこともしばしば。
11/04 古楽ではないけれど、FMで放送していたN響+サヴァリッシュによるメンデルスゾーン「エリア」。いや〜これは素晴らしいでないの。晩年にあたる1846年の初演だというけれど、バッハのマタイあたりからの影響関係ってのも当然あるんだろうなあと思わせてくれる(ちなみにマタイ受難曲の復活演奏は1829年)。19世紀のバッハの受容というのも面白いテーマだし、そのうち研究本なんぞ漁ってみたい気もする。で、今日はこれまた面白い一曲を聴く(長いのでまだ途中までだけど)。ルネ・クレマンシック『黙示録』(クレマンシック・コンソート、74321 72115 2)。ご存じ『ヨハネの黙示録』の、ギリシア語テクストに曲をつけたもの。曲はどこか古代ギリシャの復元音楽を模している感じだけれど、全般の処理は現代的で、面白い試みになっている。黙示録のテクストを追いながら聴いていくと、音とテクストの対応関係が分かりやすい形になっている(パーカッションで数の多さを表したりとか)。曲の流れも陰影を湛えている感じで、なんとも渋い。それにしても、古典ギリシア語で聖書を読むというのも、将来的にいつかは避けては通れない道かも、と思う今日このごろだ。ここにも大きな宝の山が眠っている気がする。例えば清水哲郎『パウロの言語哲学』(岩波書店、2001)など、ギリシア語原典のテクストに見られる格支配問題からパウロの思索的営為を浮かび上がらせて圧巻。


10/29 このところリュート話が続いているが、今日は某教室でリュートを教えていただいているわが師匠(いたらぬ生徒だが)、水戸茂雄氏のリサイタルに出かける。ビウエラによるルイス・ミランのファンタジアから始まったけれど、ご本人、最初は体調が悪そうで(咳込んでいらした)、会場全体もどこか緊張しており(会場が教会だったせいかな?)、どうなることかと心配したが、尻上がりによくなっていった。前半最後の表題曲「おお、栄光の聖母」(O gloriosa Domina)の美しい旋律が実に素晴らしい。これ、安土桃山時代の宣教師らが弾いていた可能性があるのだそうだ。後半はバロック・リュート。フランスのシャルル・ムートン、ピエール・ゴルティエ(いずれも17世紀の作曲家だ)などの小品が愛らしい。アンコールではリュートに編曲した「楢山節」も(ご本人いわく実験的試みとのこと)。
10/23 東京日仏学院でのレクチャーコンサートに出かけてみた。「琵琶とリュート」というタイトルで、遠い兄弟関係にある琵琶とリュートの共演か…と思ったら、レクチャー部分が長すぎてちょっとゲンナリ。話をしたのは古楽方面ではお名前を聞いたことのある某センセーだが、日仏語でやったものの、仏語に関しては言っては悪いがブロークンに近いものがあり(失礼…人のことはあまり言えんけどね)、なんで普通に通訳手配しなかったのかちょっと疑問(予算のせいかな?)。いずれにしてももっと演奏に時間を割いてほしかった。ルネサンスリュートは永田平八氏、琵琶は新井泰子氏で、生マショー(笑)が聴けたのが個人的には嬉しい。また、ほんのサワリだけだったが平家物語の一節を聴けたのも貴重な体験だった。7月のところに記したスンジャータ大王伝説とは違って、歌というより本当に「語り」という感じ。独特の抑揚がとても面白い(だけどもし長時間聴いたら…果して眠らずに聴き通せるか自信はない(笑))。
10/21 東京の敵を岐阜でとる…というわけでもないのだが、東京公演を完全に逃してしまったポール・オデットのリュート・リサイタルを聴きに、日帰りで岐阜にまで出かけてしまった(笑)。噂に違わずもの凄い演奏で、正直感激した。作者不詳「ジョン、すぐ来てキスをして」などでのフィゲタ(親指と人差指を交差させるリュートの一般奏法)はまさに超絶もの。素晴らしすぎ〜。それからクララザールという会場が音響的にとてもいい感じだった。オデットは最初、弾きながら後ろの扉から入って来たのだけれど、個人的に前の方に陣どっていたのに、実に心地よく音が響いていた(壇上に登る時にコケたのはご愛敬か)。後半最後のダウランドにいたっては、さすがリュート曲全曲録音をやっているだけあって、実に落ち着いていて貫禄たっぷり。いや〜行ってよかった。演奏された曲も入っているCD『ロビン・フッド - エリザベス朝のバラード集』(HMU 907265)も購入したが、やはり演奏の凄さは生には及ばんなあ。でもこれらの小品、いつか弾けるようになりたいもんだ。
10/16 待ってました!というわけで、モンテヴェルディ『オルフェーオ』の公演に出かける。で、待っていただけのことはあったぞ。演奏と歌は個人的に実にしっくりくる出来で素晴らしい。演出はちょっと現代的(前にTVでヴェルディの歌劇のドキュメンタリーを紹介していたが、そこでの演出とどこか似ていた。棒をいろいろに「見立てる」あたりとか)だけど、演奏は端正で、それほどちぐはぐさな感じもしなかった。うん、バロックオペラをこういう比較的小規模な会場でやるというコンセプトがまずもっていいんでないかい。こういう舞台はぜひ継続してほしいなあ。ヘンデルものとか、グルックのオルフェーオものとかも、ね。
10/03 久しぶりにFMの「朝バロ」を聴いたら、いきなりペロタン(ペロティヌス:12世紀のノートルダム楽派の代表格)の曲が流れてきた。おお、この声の引き延ばし具合がなんともいえんよなあ。「地上のすべての国々は」という曲で、ヒリヤード・アンサンブルが歌っている。クロノス・クワルテットが同じ曲を器楽曲に編曲しているのも紹介されたが、これもなかなか面白い。で、この日一番良かったのはモラーレス「私を見逃してください主よ」。ヒリヤード・アンサンブルの歌に、サクソフォーン(ヤン・ガルバレク)が加わるのだけれど、これが実に奥深い味わいになっていて秀逸。サクソがこんなに合うなんて…。そういえば、この組合せ、来年始めに来日するそうで、こりゃ楽しみだ。

中東一帯は切迫した状況。それを想うからというわけでもないのだけれど、ちょうどジョスカン・デプレ『武人ミサ(Messe de l'homme arme)』(ア・セイ・ヴォーチほか、E 8809)を入手した。ああ、なんだろう、この迫り来る圧倒的な静謐感は(言葉の矛盾のようだけど)。15世紀の広く流布したという「武人ミサ」の旋律。もとはブルゴーニュ地方が発祥の地とされ、一説には、シャルル勇胆公(Charles le Temeraire, 1433-77)の家庭教師だったビュノワ(Antoine Busnois)の作ともいわれているそうな。この盤には6声版と六音音階版(?)が収録されている。この比較もとーても面白い。



09/27 斜め読みの形で水嶋良雄『グレゴリオ聖歌』(音楽之友社、1966-97)を読む。聖歌に関する網羅的な教科書で、読みこなすはなかなか大変。旋法や歴史ばかりかラテン語の発音まで解説してある丁寧さ。こういう本はなかなか貴重だ。これに関連する形で、久々に聖歌ものを聴く。『グレゴリオ聖歌 - ガリア教会のレスポンソリウムとモノディ(chant gregorien - repons et monodies gallicanes)』(デラー・コンソート、HMA 195234)。古ガリア聖歌ということで、収録されているのは前半が古ガリア教会の典礼曲、後半が聖週間の聖務で歌われていた曲。延びやかな旋律がとても心地よい。
09/21 今日は仕事を押して、アンドレーア・マルコンのオルガンリサイタルに行く。ヴェニス・バロック・オーケストラそのものは残念ながら行けなかったので、せめてもの慰め。でも最近のテロ騒ぎの余波なのか、客の入りはえらく少ない気がした。ま、それはともかく。前半はイタリアの17、18世紀の作曲家の作品。オルガンの色々な音の広がりを様々に聴かせてくれて実に楽しい。ところが後半のバッハになると、なんともいえない違和感が…(笑)。なんだかひどく単調でつまらない響きになってしまって、思わず睡魔に引き込まれそうになってしまう。うーむ…。

ついでに会場で購入した『リュート、ヴァイオリンとチェロのためのトリオ集』(SRCR 2734)を聴く。リュートとはいってもテオルボ型のデカイ奴。さすがにヴァイオリンやチェロの向こうを張るには、それくらいじゃないとねえ。で、ヴァイスのリュート曲をバッハが「拡張した」というBWV1025を聴いて思った。どこかこの演奏って、音が軽〜く滑べってくみたいで、なんかこなれているという感じがしないんでないの? 昨日のマルコンのバッハに通じるものがあるよなあ…。というわけでちょっと物足りない二日間だ。

09/18 このところのテロ報道の絡みで知ったのだが、ユダヤ暦の今年の新年は昨日17日だったようだ(ユダヤ暦の場合、新年は9月から10月の最初の新月が確認できた時になるのだという)。それと直接関係するわけではないけど、今日はサラモーネ・ロッシ『ソロモンの雅歌』(vol.1、New York Baroque、DOR-93210)を聴いてみる。ロッシはルネサンス後期のイタリアのユダヤ系作曲家。当時のユダヤ人コミュニティはやっとポリフォニーの導入がようやく進行していたというから(ライナーノーツ)、相当保守的だったんだろうなあ。ロッシの作品は伝統的なユダヤ音楽へのリファレンスはないということだが、曲としてはそれほど面白みはない気がする。あるいはそれは、このところのテロ報道のやり切れなさのせいかな…うーん。
09/07 今日はちょっと前に購入してあったパーセル『ディードーとエアネス』(Orchestra of the Age of Enlightenment、HMC 901683)を聴く。ルネ・ヤーコプスの指揮で、本家の『Gramophone』誌が以前褒めていた一枚。ま、比較はともかく、パーセルのまとまったオペラとしては唯一のものだというこの曲、チャールズ2世の宮廷用に、おそらくはその楽しみのために書かれたものだということらしいが、ほとんどオラトリオのようでもあり、なんだか実に凛として気分にさせてくれる。荘厳さすら漂わす、この見事さ。まさに拍手ものだ。お話はウェルギリウスによるローマの建国神話『アエネーイス』の一節から取ったもの。第4巻の「女王ディードーの悲恋」がそれ。邦訳は風濤社刊、小野塚友吉訳などがある。



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02.4.15