5.メディオローグ的日常
(書評の試み)
00年1月〜3月

ミシェル・ド・セルトー『文化の政治学』
(山田登世子訳、岩波書店、1999)

当然、といってしまうのは簡単だが、歴史を振り返ることは必ずしも容易ではない。明示的なバイアスを仮に回避できたとしても、暗示的な認識の図式によってバイアスがかかってしまう場合もある。したがってそこではきわめて精緻な認識(自己認識も含めて)が要求される。このことをド・セルトーは、たとえば「民衆的なもの」をめぐる諸説に対して投げかける。ペロー論を始めとするマルク・ソリアーノの論考は、地下に脈づいている民衆文学が古典文学へと浮上してくる様を描き出そうとし、結局は失われた起源(真に民衆的なもの)を探し求めようとする。だがド・セルトーはそれでは図式が逆なのだという。真に民衆的なものを探し求めるまなざしには、すでにして「民衆的なものはかくあらねばならない」という前提が潜んでいる。そしてそれは「今や存在していない」からこそ探しだそうという仮定の上に立っている。研究者が立っているこの足場こそが真の批判に晒されなければならないのだ。研究者は「どこから語るのか」というきわめて難しい問題に直面せざるをえないということだ。ド・セルトーはこうした足場の問題を、学校、マイノリティ、エリートと大衆の区分などのテーマに沿って次々と暴き出していこうとする。これはきわめてアクチュアルな問題である。対象の認識と、認識する自己の認識とを同時に視野に入れることの難しさを改めて教えてくれる貴重な一冊だといえるだろう。

酒井健『ゴシックとは何か』
(講談社現代新書、2000)

「モニュメント」には、そのように一括して呼んでしまえないほどの多様な意味の反射がある。ゴシック建築のような、様々な意味の反射が簡素な把握を不可能にしているものの場合、一つ一つの意味を入念に解き明かしていくことは途方もない作業にならざるをえないだろう。かくして著者の言及は、11世紀の農業革命から始まって、地母神崇拝、供犠の意味の変遷、教会音楽、政治などをめぐっていく。また、反ゴシックの動き、そして18世紀以降のゴシックの復活までもが引き合いに出される。モニュメントをめぐる言説は、このように様々なものの交差する場所にならざるをえないのだろう。そしてそれはきわめて真摯かつ刺激的な読みでもある。ただ、これに付け加えるべきものがあるとするなら、その第一に挙げられるのは建築の具体的な建造過程ということになるだろうか。おそらくはそうした構築にまつわる言説からも、また別の意味の反射が引出せるものと思われる(そしてそれはメディオロジーの課題でもあるだろう)。

東京国立文化財研究所編『語る現在,語られる過去』
(平凡社、1999)

日本での美術の成立期にまつわる研究会の報告の集成だという本書は、美術史研究の前線の一端がうかがえるのだが、それぞれの報告は簡潔にすぎ、いわば指針という印象を受ける。全体としてはいくつか傾向があり、その一つは、おそらく社会学との接合により、美術史を政治的な領域との絡みで論じようというものだ。また、もう一つは、アジア全体の文脈でながめる視点だ。こうして、オリエンタリズムやジェンダーの問題にとどまらず、文化財における「国籍」問題や、浮世絵をめぐる政治など、興味深い指摘がなされていく。とはいえ技法や資材に関する議論はほとんど見当たらない。この奇妙ともいうべき欠落はどういうことなのだろうか。そんな問題はとうに片付いているとでもいうのだろうか。そんな中で、木下直之「日本美術の始まり」は、美術史における石器時代の扱われ方の変遷を探り、はからずもこの物質性の排除という事実にわずかながら光をあてている。分類整理の問題はともかく、石器が「美術史」の中に入っていったように、今後、物質性そのものの検討が美術史の中になんらかの場所を占めることがあるのかどうか、注目していきたいものだと思う。

菅野盾樹『恣意性の神話』
(勁草書房、1999))

野心的な著作である。ソシュールの恣意性概念や、その延長線上にあるといってよいパースの記号分類(インデックス、イコン、シンボル)には、常に微妙な違和感のようなものがつきまとっているが、著者はそれをとことん突きつめる。前者に対してはたとえばオノマトペが、後者に対してはたとえば服飾で用いられる生地見本が問題を突き付けてくるのだ。かくして著者は対象との関係に基づくパースの分類に代り、「記号機能による分類」を提唱する(外延指示、例示、表出)。これ自体の評価は専門家に任せるとして、著者は次にこうした分類を絵画のイメージに当てはめ、芸術論の方へと筆を進めて良くのだが、そこではいささか疑問が残る。記号機能の分類はあくまで総論的なものであり、それが個別に応用されたところで、芸術のもつ様々な意味の反射が捉え切れるわけではないのではないか、という疑問だ。つまり、具体的な分析格子として使用したところで、その格子を確認するだけになってしまうのではないだろうか、ということだ。分析格子にはまた別の練り上げが必要になってくるのではないだろうか。そしてその練り上げの作業は、提唱された記号機能の分類の試金石にもなるだろう。

ジャック・ル・ゴフ『歴史と記憶』
(立川孝一訳、法政大学出版局、1999)

個別のテーマに関わっている歴史学者は、必ずやその途上でより大きな問題、あるいはアクチュアルな問題にかかわる視点を得るのだ、とよく言われる。中世史家ル・ゴフは、ここでは記憶や歴史学そのものの歴史について、古代から近・現代にいたる詳細な論述を展開している。記憶や歴史は時間概念と密接な関わりをもっている。すでに77年の『もう一つの中世のために(Pour un autre moyen age)』(Gallimard)において、商業活動の増大が12世紀ごろに時間概念の変化をもたらした(ラシャ製造業などにおける生産効率への関心から、時間が計測の対象になっていく)ことを指摘しているが、それは同時に過去を歴史的に把握することをも可能にする。過去はまた記憶の対象ともなる。それは「近代」への幕開けにほかならない。循環する教会の記憶と年代記的傾向のない世俗的記憶との「役割分担」は、ルネサンス期以降の科学技術の発達によってゆるやかに変質と遂げていく。そして徐々に「歴史の歴史」という視座が形成されていくのだ。本書はまさにル・ゴフが到達した巨視的視座の概括をなしている。

個別の小さな指摘も実に示唆に満ちている。たとえば文字の問題だ。われわれはともすれば安易に口承性との対立として文字を捉えがちだが、問題はむしろ12世紀から13世紀ごろ、文書がエリートのものから大衆のものへと変容することにあるのだという。印刷術がすべてを一変させたという考え方に、ル・ゴフは懐疑的だ。そしてまた時間概念の変化も、それは技術的に決定されたという図式ではなく、都市化や商業活動の躍進といった複合的な流れの中での変化なのだという。古代の循環的時間をキリスト教が直線化した(救済による秩序立て)という見方についても留保を示している。そして歴史は比較をベースとした諸学との対話の上に立つべきだとの立場も示されている。こうしたすべてのことを、われわれは改めて検討していくべきかもしれない。本書は様々なものを汲み上げるべき巨大な水源だろう。

ケヴィン・マイケル・ドーク『日本浪曼派とナショナリズム』
(小林宣子訳、柏書房、1999)
戦争へと突き進んでいく1930年代〜40年代の近代日本。その中で日本浪曼派はどのように位置付けられうるのか。著者によると、この運動は、近代を完全に拒否した農本主義と、近代を超克するための道具として国家を位置付けた京都学派との中間に位置付けられる。そこから、集団に加わった各個人の立場が検証されていく。全体的には、浪曼派が重きを置いた詩とは近代の全体性指向に対立するものだったが、結局は「新しい形の全体性」という「文化が詩を圧倒」してしまう。ドイツ・ロマン派が「貴族に対抗する市民大衆」(テーヌ)を賞揚しつつも、そこから民族復興というポピュリズムに向かってしまうのと、当然ながらそれは軌を一にしている。個別の議論での著者の分析方法は、同時代人(集団内部の)による各個人の受け入れられ方の検証をベースに、その微妙な立場の差異を描いていくというものだ。そしてそれははからずも(あるいは戦略的にだろうか)、差異を越えた集団の論理を浮かび上がらせている。戦い(近代への)を突き詰めていけば、結局それが近代の有用性を認めることになってしまう。後はただ、アイロニーを湛えつつ沈潜するしかない。とはいえそれでは戦いそのものから遠ざかってしまわざるをえない…。当然ながらこうした読みは、ポストモダンと称された80年代の動きとその残滓とにも重ね合わせることができるだろう。だが今や、より有益な読みをなそうとするならば、むしろ各個人を巻き込む回路としての集団がどう形成され、どう機能して(巻き込んで)いくのかという力学的問題系に、再び向き合わなければならないのではないだろうか。

Text: 2000年4月



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