5.メディオローグ的日常
(書誌)
97年10月〜12月

「月刊言語」1998年2月号 - 特集"読む"
(大修館書店)

月刊言語2月号は、「読む」ということをテーマに様々な論考を集めている。橋元良明『音読と黙読』は、一般に明治以前は音読が主だったという通説はそれとして、平安時代に黙読がそれほど奇妙な読み方ではなかったという可能性を指摘している。三宅、野田『読みのプロセスを「見る」』は認知科学の立場から、カードの自由配置条件での読みが直列配置条件よりも理解を助けることを示し、文章解読への工学的ヒントを与えている。松村剛『グーテンベルク以前』は印刷術以前の読む行為の略史を述べている。さらに今日のネットワーク時代における読みの位置付けについての試論や、要約ソフトの問題、教育論的に見た「読み」などなど、それぞれに今後の発展が期待される論考が並んでいる。こうした横断的なテーマでの特集をさらに期待したい。

「季刊文学」1998年冬 - 特集「出版文化としての近代文学」
(岩波書店)

テキスト論がやや行きづまりを見せた90年代初頭から、文学研究は書かれたものの基盤を支えるメディアへと接近していく。それはちょうど、ドゥブレーがメディオロジーを打ち出すのと軌を一にしていた。メディアの研究は、いわば時代状況がもたらした流れと言えるのかもしれない。季刊文学の冬の号は、まさにそうした研究領域を前面に出したものとして興味深い。 特に注目されるのは特集の頭に置かれた討論会で、現在の研究状況のまとめにもなっているようだ。活版印刷の日本への導入について紅野謙介氏は、日本対西洋ではなく東アジアのネットワークを含めた視点が必要と指摘し、宮崎修多氏は、本木昌造を日本の活版印刷の創始者とする常識を相対化する視点から話をし、最初に活版印刷を受け入れた漢学系の人々は、その後それを相対化する立場をとっていくのではないかと述べている。この後者の説明に、有山輝男氏はスピードの問題や目的の違いを指摘し、関東大震災以降に、活字出版のステータスが上がったのではないかと論じる。また、日本の明治維新にはメディアによって人を動すという発想がなく、蘇峰らに至ってそうしたメディアによる組織化の意図が出てくるとの指摘は示唆に富んでいる。本の読者の関係が明治20年代から30年代について変化したのかもしれないという紅野氏の指摘を受けて、社会のテンポ、新聞に現れた「笑い」、広告などの問題が提出される。メディアの歴史は掘り下げていくとかなり奥が深そうだ。

その他論文としては、明治初期の「速記」が表音性というよりも表語性の高いものだったという実証的研究(清水康之『速記は「言語を直写」し得たか』)や、翻訳原稿の規格として出発した原稿用紙が、初期の様々なフォーマットから20字詰20行へと収斂する過程に、「日露戦争後の文学市場の拡大と新しい作家の結束点を見る」という論考(宗像和重『制度としての原稿用紙』)などがある。特に後者は、現代のワープロ文化の捉え方にまで継っていく重要な視点を示唆しているのではないだろうか。

李孝徳「表象空間の近代」
(新曜社、1996)

きわめてメディオロジックな一冊だ。幕末から明治にかけての表象の断絶がどこに由来するかを考える時、その根底に広義のメディア、あるいは輸入された技術の取り込みを避けて通るわけにはいかない。技術によって表象のコードは変容する。カメラ・オブスキュラ(のぞき眼鏡)の伝来は江戸中期の浮絵を導き、写真は新しい写真画、写真油絵などの折衷的な文化を(たとえ一時的にせよ)もたらす。明治になってからの個人的観照(世俗化)に多大な貢献を果たすのは、言文一致運動や速記術などの「差異を同一化する作用」(p.124)であり、活字印刷による出版機構の近代化や学校制度、交通の発達などにより、空間・声などの知覚コードと伝達のコードが統一されていく。さらに、日清戦争以後の地図作成術や「天皇」の表象の顕在化、他者の発見と「日本人」の誕生を取り巻く「国語」教育の犯罪性など、技術を核に歴史を振り返る視点が非常に興味深い。

一方で、末端からの検証への道を開いている点で、本書はいわば「指標」だと言うこともできそうだ。例えば写真に関して、一世を風靡したとされる写真画、写真油絵がその後定着しないのはなぜなのかと考えることができる。単にカラー写真による駆逐とのみ捉えてよいのかどうか問い直す必要があるのではないか。また、「御真影」の普及の裏で、仏壇に写真を飾るという伝統が果たした役割について言及されているが、歴史的事実を整理しなおして検証してみる価値がありそうだ。山水画的伝統が失われていく過程なども、掘り起こしてみれば面白いかもしれない。検討すべきものは広く開かれている。

小森陽一他「メディア・表象・イデオロギー」
(小沢書店、1997)

上で挙げた「表象空間の近代」が、細部を見つめつつも巨視的なスタンスから出発しているとすれば、11編の論文を収録した本書はむしろ細部からの検証・掘り起こしである。取り上げられる問題は、スキャンダル・ジャーナリズム、ツーリズム、水道、精神病者監護法、家庭小説、「金色夜叉」、少女小説、国語教育、作文教育、女子向け雑誌の投稿記事、「保護」論と多彩を極めている。末端からのすくい上げという地道な作業からは、時にマクロな視点からの論考に批判・再検証をもたらすこともある。かくして、言文一致が均質空間を開いたとする「表象空間の…」に対し、中山昭彦「"文"と"声"の抗争」は、上田万年の国策としての言文一致観と文学の言文一致運動との間の溝を示してみせる。マクロ的な視線のベクトルとミクロからのベクトルが交差するこういった地点にこそ、学問のダイナミズムがあるのだと改めて考えさせてくれる。

吉田司雄「帝都の水が変わるとき」は、新水道のネットワークの拡大をハードウエアとすると、出版メディアの確立が啓蒙としてのソフトウエアとして位置付けられると述べていて示唆に富んでいる。また、金色夜叉におけるメディアミックスを論じた関肇の一編などは、現代のマスメディア文化の受容を考える視座になる可能性も秘めている。技術的な視点を採り入れればさらに興味深いものになるだろうと思われる論文もあり、今後の研究の展開が大いに期待されるだろう。

Text: 98年4月



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*Copyright (C) 1998 Masaki Shimazaki