5.メディオローグ的日常
(書評の試み)
99年7月〜9月

港千尋『記憶』
(講談社選書メチエ、1996)
港千尋『映像論』
(NHKブックス、1998)

イメージは何を語り伝えうるのか。著者の両著書をたどっていくとそうした問いかけを思わずにはいられない。神経科学がいかに進歩していこうと、その説明的記述だけでは人間が個々に「想起」するものを描き、残し、また別の人間がそれをもとに想起するという、いわば「記憶の連鎖」という営為は説き明かしたことにはならないのではないか、と思われるのだ。そしてそうした営為に光をあてることができるのは、やはり人文系といわれる学問においてでしかないだろう。人文系の諸学は、再び浮上しなければならない。それほどまでに、今、記憶について語る言説は「科学」の名のもとに画一化しつつある。一方で、産業化したメディアそのものも、そうした危機に拍車をかけているように思えてならない。これゆえに、この二冊は問いを投げかけているのだといえる。

想起の連鎖という営為は、きわめて重要だ。そしてそれを支える媒体としてのイメージには限界もある。『記憶』で言及される「ショアー」、『映像論』で示されるルワンダの内戦(ツチ族、フツ族という民族対立は、ドイツの入植者らが写真を用いて行った「人類学的な」分類に依存しているのだという)などの問題を、どう考えればよいのだろうか。われわれに必要なのは、イメージの限界を直視しつつ、そこで語られえないものを堀起こすことなのかもしれない。そうした努力には、決して終りがあってはならないだろう。

松浦寿輝『エッフェル塔試論』
(筑摩書房、1995)

モニュメントには様々な意味が付与される。建築の段階からその受容にいたるまで、語りえることには終りがないほどだ。同書はエッフェル塔が結び目をなす、そうした様々な意味の反響を詳細に読み解いた一冊だ。近代建築と目される塔が、産業の時代の到来を告げつつもそれを裏切っている(錬鉄が用いられるというアナクロニズム)ことの意味、スーラの絵画から読み取られる科学のイメージとしての塔、登ろうとする欲望(エレベータ)のための櫓としての塔。そこから浮かび上がるのは、「近代」がイデオロギーそのものではなく、イデオロギーを根底で支える形式的原理なのだという示唆だ。著者はさらにエッフェルを取り巻く階級的、地政学的な意味作用にまで言及する。エッフェルが体現したとされる「国家に対する疎隔感をかくさない民間的ナショナリズム」は、おそらくエッフェル一人のものではないだろう。そしてエッフェルが「外国という名の迂回をへることで」フランスと調和のある関係を結んだということも、より広い19世紀の帝国主義の文脈で捉え直すことができるだろう。19世紀の技術をとりまく状況の一端がここには明示されている。われわれはこの部分を拡張することもできるのではないか。

富山和子『日本の米』
(中公新書、1993)

水利は生活の基本だと誰もが了解している。だが日本においてそれが米作りによって支えられていることは、幅広い理解がなされているようには見えない。著者によれば、水田はいわばダムの技術でもあるのだ。農業は「水」を産出する、水は自然の恵みなのではなく、人為的に作られなければならないものなのだ。著者のこの中核的な記述を、われわれは今、改めて受け止めなくてはならないだろう。治水というものは見えないだけに忘れられがちな構築物だ。治水事業は、いつも利害関係のせめぎ合いを経てきたのだと著者はいう。治水事業に日本人の一致団結という国民性を見る、というような筆の横すべりがなくもないが、それにしても、そうした心性の議論に入る前に、そうした事業の組織化や、治水にまつわる神話的部分の検討は、さらにいっそうなされなければならないだろう。それは同時に、エコロジー的な発想の転換へも繋がる探求になるはずである。

イバン・イリイチ『生きる思想』


(桜井直文監訳、藤原書店、1999(新版))

イリイチの核心的な批判は、産業が絶えずもたらし続ける「希少性」に向けられる。ゆるやかな連帯において共有される「コモンズ」を、産業は「希少性」に仕立てあげ、そのために人間は否応なしに、自分でできること・すべきことを産業機構へと委譲しなくてはならなくなる。現代人にとって、経済活動、学校教育、医療、あるいは住むことすら、自分のもとにはない。そしてイリイチは言う。「プラグを抜け」と。それは自分のもとへ技術(「生きる技術」)を取り戻すことだ。自動車ではなく自転車を、と呼びかけるのだ。真摯な思想だ。だが、いかに「プラグを抜く」のか。これが問題にならざるを得ない。認識は確かに大きな一歩だが、認識から行動への推移は大きな問題となるだろう。われわれはあまりにも大きな「委譲のシステム」に取り巻かれている。それなくしては生活がなりたたないほどだ。こうしたがんじがらめの状況の中で、どのように「プラグを抜きうる」のかがこの先問われなくてはならないだろう。それは現代人に課せられている大きな宿題のようにも思える。

木下直之『美術という見世物』
(ちくま学芸文庫、1999)

初版は93年平凡社刊。しばらく前から入手できなくなり、個人的には復刊を待ちのぞんでいた一冊だ。日本において美術が成立する以前の混沌とした状況が、実にあざやかに描かれている。美術の成立の周囲には、「怪しげ」と評される様々な動きがあった。彫刻の周囲には生人形や細工見世物、人体模型などがひしめいていた。写真や肖像画の周囲には油絵茶屋、戦争画、写真油絵、油絵掛軸などがひしめいていた。傍系でしかなかったリアリズムは、西洋絵画の伝来によって徐々に中心的な場へと移り行き、江戸期の見世物の体裁を装っていたその鑑賞形態も、徐々に独自の空間へと変わっていく。文化受容の力学が克明に記されている。

『記号学研究19』(ナショナリズム/グローバリゼーション)
(東海大学出版会、1999)
記号学という冠を頂いた機関誌もしくはシンポジウムが、ナショナリズムやグローバリゼーションの問題を中心議題として取り上げること自体、意外といえば意外なのだが、それだけこうした問題が急務の課題となっていることの現れなのだろう。序文で山口昌男が「本来雑食的で仮設的なものである記号学が時代の文化理論のペースメーカーとして活躍する」ことを提言していることからも、記号学が少くとも日本では、もはや旧来のカテゴリーから外に出ていこうとしていることがわかる。

シンポジウムの総括的な意味合いをもつ同書では、様々な論者が寄稿しているが、紙面的な制限のせいか、それぞれの論考には不満も少くない。国民国家の批判が中心的な論調だが、それへの対抗策を具体的に示すものは中村敬「言語・ネーション・グローバリゼーション」くらいだろうか。そこでは英語支配への抵抗策として二つの立場が紹介されている。ダイグロシアと国語との対比を論じる糟谷啓介「『国語』はいかにして発生するか」やアイルランドにナショナリティの超克のヒントを見る立川健二「思想としてのアイルランド」などの論考は、分析としては興味深いが、認識を越えた現実世界への対応の示唆が十分でない点が惜しまれる。小田亮「ネイションの人種化とセクシャリティ」は、植民政策において境界侵犯的な恐怖から防衛としての人種化が導かれたと記しているが、そうした国民国家における周縁の取り込み・差別化は、からなずしもボトムアップ的な力学だけに依存するものではないようにも思われる。「提喩的想像による連帯」はむしろトップダウン的にもたらされるのではないのだろうか。とはいえ、論考の末尾で示される「<顔>の見える場からの発想」が、そうした差別化の反転の可能性たりうることは間違いないだろう。「サバルタンが語り得る」(大澤真幸)には、ボトムアップ的な反転の力学が示されなければならない。今や認識だけでは不十分にすぎる。行動のための学こそが必要とされているのではないか。

Text: 99年10月



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*Copyright (C) 1999 Masaki Shimazaki