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放言日記「かくのごとく」

日々の思考、感慨、その他を綴る「放言日記」(ヨタ話ともいう)。ま、なにかの役に立つこともあるかもしれません(?)。ヴァレリーやいわゆる「Tel quel」一派とは関係ありません、あしからず。


過去ログ
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10/04【仏語シリーズ3】Tournevis
最近読んだ本で面白かったのがヴィトルト・リプチンスキ『ねじとねじ回し』(春日井晶子訳、早川書房)。21世紀を前に、新聞社から「この千年で最も素晴らしい発明について記事を書いてくれ」と言われた学者が、悩んだあげくに「ねじ(vis」「ねじ回し(tournevis)」に狙いを付け、それについて調べていく過程を綴ったもの。これがなかなか味わい深い。著者は1772年にパリで出た美術工芸事典やら『百科全書』やらに当たっていく。それとの関連で著者が見つけるのがtire-fond(木ねじ)。「象眼細工で木のかけらをはめ込むために使われたもの」だという。これがtire-bouchon(栓抜き:1718年初出)の原型になったとのこと。ワインは長い間木の栓が使われていたのだが、スペインとポルトガルで17世紀初頭にコルク樫の外皮が使われるようになったのだという。で、tournevis(ちなみに同書では「トゥルヌヴィ」となっているけど、正しくは「トゥルヌヴィス」。ネジの意味のvisは、最後のsを発音する)は1740年に学士院に認められたのだという。ちなみに、グラン・ロベールで引くと、visの語源はブドウのつるを意味するラテン語vitisで、螺旋階段の意味の古形vizは11世紀からあるようだ。tournevisは1676年の建築書に登場するらしい。
10/02ヨシュアの木
テレ朝の「ニュースステーション」が模様替えしているでないの。半年限定なのだろうけれど、冒頭にいきなりU2が流れるんだもんなあ。懐かしくてアルバムを聴き直してしまったぜ(笑)。この「Where the streets have no name」が入っているアルバムは名盤『Joshua Tree(ヨシュアの木)』。ヨシュアの木というと、アメリカの砂漠地帯に原生する結構グロい形状の植物。そういえばなぜこれがそう呼ばれるのかは以前から気になっていたのだが、例しにYahooのHeritage Dictionaryで引くと、おそらく旧約聖書のヨシュア記8(アイ市の征服)の18がもとだろうということ(神の命令で、ヨシュアが槍をもった腕をアイの方向に伸ばすと、都市は一気に攻略されてしまう、という箇所)。この植物の形状がそのヨシュアの姿を思わせる、というのがこの辞書での解釈だが……うーん、どうなんだろうねえ。ヨシュアはヘブライ語では「ヤーウェ万歳」みたいな意味なのだそうで、長男の名としてよく使われたともいう。いずれにしてもこの「ヨシュアの木」、学名はYucca brevifolia(短葉のユッカ)というのだそうな。
09/27サイードの「スタンス」
またしても巨星逝く……24日付けで報じられたエドワード・サイードの死。すでに新聞などで追悼記事が出ている。「Le Monde diplomatique」でも追悼特集のページが出来ている。読売新聞に追悼文を寄稿しているうち、池内恵氏の指摘が興味深い。サイードの足場だった「パレスチナ」との関係は実際は希薄で、アラブの官制メディアでの取り上げられ方は、欧米社会で評価された権威者、欧米批判の民族主義者というレッテルのもとにあったのだという。サイードの置かれた境遇は、パレスチナの現状について語るにはあまりにも欧米に近すぎ、パレスチナに遠かったのかもしれない。柄谷行人は、パレスチナをめぐる晩年のサイードの言説が、ひたすら涙ぐましい訴えにしかなっていないことを指摘しているが、あるいはそれは、サイードが自分の語りの場を痛いほど自覚していたからかもしれない。ノマドであること、ディアスポラに置かれるということは、当然様々な苦渋に満ちているだろう。日本の若手の研究者などが思っている(ようにみえる)ほど、格好よく、また軽いものではない、ということだ。
09/24国連演説
米仏の大統領による国連総会での演説について、世界中のメディアが取り上げているわけだが、各国の報道の温度差が興味深いかもしれない。フランスはシラクとブッシュの断絶を強調するかと思えば、ドイツは「両者とも歩み寄りを見せている」みたいなスタンスだ。自国の立場が微妙に反映しているのかしら……。むしろイタリアのTV局RAIの報道が端的にまとまっている感じだった。同局は、まずアナン事務総長の演説が「予防的戦争への批判だった」と取り上げ、ついでブッシュの演説が「一国主義」、シラクの演説が「多元主義」を基本的スタンスとしていたとして、国連がどちらかといえばアメリカを包囲する構図になっていることを示唆している。うーん、フランスはここで国連をリードして威信を回復したい感じなのだろうが、その肝心の国連もガタガタ(?)。アナン事務総長は改革の必要を説くが、具体的な形は見えてこず、といったところか。
09/14情報による情報遮断
週末、久々に帰省。帰省のたびに如実に感じるのは、地方都市に巣くう情報遮断の構造だ。地方紙ばかりを読み、全国放送から突然ローカルニュースに切り替わるニュース番組ばかりを眼にするような環境では、よっぽど意識的に情報に敏感であろうとしないと、巨視的な視点はさっぱり育まれない気がする。そりゃ、今はインターネットなどで大分改善しているとはいえ、ネットなどはもとより意識的に関わらなければ情報を引き出せないもの。大事なのは、そういう意識を育むことなんだけど、ローカルネタばかりが垂れ流される状況は、全体的な情報量の増大とともに、ますますひどくなっている気もする。もちろん、問題なのは情報の量ではなく、ローカルな情報がほかの情報を塞いでしまう構造だ。そう、情報を塞ぐのはやはり情報なのだよなあ。

そういえば、レニ・リーフェンシュタールが先週初めに亡くなった。ナチスの要請で撮った「民族の祭典」などは、部分的にしか見たことがないけれど、彼女の美学的なスタンスがよく反映された素晴らしい画面なのだとも言われたりする。実際にナチスに加担したかどうかは知らないが(本人は断固否定していた)、結局、彼女のその美学的視座がプロパガンダに使われたのは歴史的事実。そこでもまた、情報が別の情報を隠蔽していた(させられた)わけだ。よく言われるように、ファシズムもポピュリズムも、最初は優しい顔をして近づいてくる。リーフェンシュタールの当時の映画は、ある種の警鐘の意味も込めてちゃんと観たいものだと改めて思う次第……。


09/08書蝕の現象学
先月、『声の文化と文字の文化』で知られるW-J.オングが亡くなった。誰もが言うように、実に示唆に富んだ書籍だったが、電子時代の声の文化(印刷文化以降は書き言葉が影響する二次的なものにすぎないとされる)についてはある意味再考が必要になっていく感じもした。最近読んだ石川九楊『筆触の構造』(ちくま学芸文庫)は、印刷文化の延長で電子的コミュニケーションを捕らえるオングの立場に批判的で、キーボードで打つことは「筆触」(書くことの応力と、書くことが本来もっていた「削る」という作用をいう)がなく、ゆえに電子的文字は「書かれた言葉」の延長にはないと断じている。うーん、確かにこの書籍は、筆による「書く行為」の現象学的記述としては興味深いのだけれど、キーボードによって書くという部分は上のように断定してすっ飛ばしてしまっている。キーボードでの入力にも、キーによるいわば「抽象化された」筆蝕があるという風にも言えるのではないか、と思ってしまう(筆触概念も相当に抽象的なものだが)。「書かれた言葉」としての文字と、「話された言葉」の声の代用記号としての文字(キーボードによる)とを混同するな、と筆者は言うのだが、これはまたずいぶんと「書かれた言葉」に偏った見方なような気もする。両者の本質的な区分などそもそも存在するのかしら?いずれにしても、要はキーボード時代の「書くこと」への現象学的視座が待たれるということだ。それは同時にオングの遺産を引き継ぐことでもあるはず。
09/04【仏語シリーズ2】Enseignement
フランスは年度初めの新学期(entrée)。中等教育以下では、教師たちのストが続いた夏休み前とはうって変わって、普通に新学期が始まったようだ。さて今回のお題はこれにちなんで「教育」(enseignement)。特に中等教育(enseignement secondaire:日本でいう中学高校)だ。「教師」(enseignant)とひとくくりで言ってしまうが、フランスの場合、中等教育以上の教師はprofesseurになる。「教授」なんて訳すと大学の先生みたいに聞こえてしまうけれど、日本とは制度的な違いがあるので注意が必要かも。制度ということで復習しておくと、フランスの中等教育の数え方は日本と逆で、第6学級(sixième:日本の小6に相当)から第1学級(première:高校2年に相当)まで、数字が一つずつ小さくなっていく、そして高校3年に相当する「最終学級(terminale)」を経て大学入学資格試験(バカロレア)を受ける。夏休み前のストで問題になっていたものの一つに、学校管理の「地方分権」(décentralisation )があった。現行制度では、教師以外でも学校に関係する職員(建物の管理者や用務員などの技術スタッフ)は国民教育省の管轄らしいのだが、これを地方の管轄に改めようというのが改革案。賃金格差や人減らしなどは当然予想されてくるし、やがては教員も……という危機感もあったのだろう。折からの年金改革も絡み、大きな運動になったわけだが、それにしても国の財政負担を抑えねば、というはどの国も同じ。今後も一波乱も二波乱もあるかも。
09/01テロのプレザンス
イラクでは国連本部へのテロに続き、31日にはナジャフでシーア派指導者を狙ったテロが発生。もはやとどまるところを知らない感じ。イラクに限らず、このところテロが起こらない週などないほど、あちこちでテロが一般化してきている。中東もそうだし。なんとか暴力の連鎖を止めることを考えないと、どうしようもないのだが……。

そういえば先月の頭くらいには、英国のホンデリックなる人の著書『テロルの後で("After the terror")』の独訳が出版されて物議を醸していたようだ。なんでも、パレスチナ側にはイスラエルにテロを行う道義的な権利がある、みたいな議論が、反ユダヤ的だと騒がれたらしい。現時点でAmazon.deをはじめとし、この独訳本の取り扱いは止められている。一方でホンデリックのWebページなんてのもあって、この書籍の第一章が読める。「善きものとは何か」みたいな部分から論じ始め、先進国と途上国の平均寿命の格差に言及し、最後には民族の自由を奪われたパレスチナという話にいたり、「何がいけなかったのか」を再考しようというような話にもっていくのだが、この善悪の価値から論じ始めているところが、ある種の道徳哲学につきまとう危うさみたいなものを先取りしている感じを与える(著作全体を読んではいないので断言はできないのだが)。つまり、善の不均衡に対して、巨視的な視点から止揚するように見せかけて、実は性急なカウンターバランスを考えようとするだけだったりするような構え方にも思えるのだ。取る時折見られるような、冷徹で現実として受け入れがたい結論に向かったとしても少しも不思議ではない感じ……。もし本当に「テロの権利」が擁護されていくのだとしたら、やはりそれは問題だ。すぐに拡大解釈されて、あらゆるテロが正当化されてしまったりしては困るのだが……。


08/27プトレマイオス
今日は火星最接近デー。このところ、にわか天体ファンみたいな人が、競って天体望遠鏡を買いあさっていたのだとか。けれども今回の接近劇、冷夏の日本よりも、むしろ酷暑のヨーロッパにとってタイムリーかもしれない。2世紀のアレクサンドリアの天文学者プトレマイオスの占星術書(!)『テトラビブロス』(Loebのシリーズで希英対訳本が出ている。"Tetrabiblos", Harvard University Press 1940-98)によると、火星は「主に乾燥した、焼けつくような性質をもっており、それは火のような外見の色の通りで、太陽との近さのせいである。太陽の周転円はその下にある」となっている。「そんなものが近づいたら、そりゃ地上も乾いてしまうぜよ」という感覚が、あるいはヨーロッパの集団的無意識の中で増幅されたかも……なんて考えると面白いよね(笑)。プトレマイオスの主著は16世紀まで主要文献とされていたという天文学書『アルマゲスト』で、こちらの『テトラビブロス』はその続編。前作で論じられた星の位置や運動の問題から、地上への影響を論じていくというもの。天文学と占星術が一続きに連続している様がなんとも興味深い。両方とも12世紀にヨーロッパに伝えられたという。あと、音響学・音楽学の『ハルモニア』論なんかもあって、ヨーロッパへの影響は多大なものだったはず。うん、これもまた面白そうな問題系だ。
08/25高齢者福祉
フランスはこの夏の猛暑で、高齢者を中心とした死者が相当数出ている模様だ。3000人と当初は言われていたけれど、後になって1万を超える人数だという話が出てきたり。家族・親族はヴァカンスでよそに行っていて、残された高齢者が死亡しても気がつかなかったりするのだという。実際、近所からの通報などで発見された遺体300体以上(一部には600体という算定も)が、引き取り手が名乗りでない状態で、トラックの冷凍車などの「臨時安置所」に置かれている有様だという。うーん、高齢化社会の脆弱さ、凄まじさをまざまざと見せつける事態だ。France2の報道では、老人ホームや互助会制度みたいなものを拡充している英国やベルギーの例が取り上げられていた。振り返って日本は……とみると、年金制度も破綻確実、老人施設なんかもさっぱり整わない中、市場はひたすら若者をターゲットにして若者に媚びてばかり……六本木ヒルズや汐留に複合施設を作るなら、若いにーちゃんねーちゃんが行くようなものより、これからは老人たちが楽しめる場所にした方がよっぽど良いはずだろうに。
08/23ウィルス
盆休み明けがヤバいといわれながら、とりあえずは大丈夫だったと報道されたMSブラスト被害。とはいえ、その後もじわじわと広がっているみたいで、亜種らしいのも出てきた(パッチを当てるワームみたいな登場の仕方が、なんだかいっそうヤバそうに思える)。またメール経由のSobigも亜流が広がっているそうで。なんだか凄い状況になっているよな〜。前々から言われていたことだけれど、生物のメタファーで、人為的システムもまた分散・多様化していないと、単一の原因で種全体が滅んでしまう……。と、こう考えてみると、生物の方が、個体が必ずしも常に相互接触していない分だけまだいいのかという気もしてくる。当たり前だが、ネットワーク化されているということは、被害そのものもネットワーク化されるということ。媒質だからねえ。先週末のアメリカのブラックアウトは、その脆弱性をまさに立証した感じだった。あるいはネットワーク自体が、もっと多様化していなくてはいけないということなのかもしれないよね……。
08/09平和の訴え
広島、長崎の原爆の記念日も、今年はいつにもましてどこか暗澹たる雰囲気を感じさせてしまう。それほどに、右傾化の流れが進んできているということなのかしら。それにしても、平和的なスタンスを擁護しようとすると、一様に「平和ボケ」扱いされる最近の風潮はなんとかしてほしいものだ。安易に右傾化のスタンスを取る方が、よっぽどイマジネーションが足りないのにねえ。そんなわけで、こんなご時世の今お勧めの一冊はエラスムス『平和の訴え』(箕輪三郎訳、岩波文庫)。「国王は、(…)人民が富裕になって始めて自らも富裕なのであり、諸都市が恒久平和に恵まれ繁栄する時、始めて己も繁栄するものと考えるべきです」(p.69)なんて、誰かさんに聞かせてやりたい一言だ。平和は買ってでも得ろと唱えるエラスムスはこうも言う。「あなたの市民たちが流す血は別としても、戦争のために費やされる額はこれよりはるかに多かったはずです。避けられた不幸や、安全だった財貨をとくと秤り、考えてごらんになれば、平和の買値がいくらであっても悔いることはないでしょう」(p.74)。
08/02【仏語シリーズ1】Canicule
以前のサイトでは別コーナーにしていた仏語のシリーズを、形を変え、月1程度でこちらで行うことにしよう。今回のお題は夏の猛暑を意味するcanicule。語源はラテン語でメスの子犬を意味するcanicula。これは同時に天狼星、つまりシリウスの意味でもある。というわけで、caniculeはシリウスが太陽と同時刻に昇没する期間、つまり土用をも指す。ラテン語ではcanicularis。ルモンドのオンラインニューズレターから引用しておくと、"Du 22 juillet au 22 août, l'é toile Sirius, la plus brillante de la constellation du Grand Chien, rythme son lever et son coucher sur ceux du Soleil."と説明されている。chien(犬)の女性形chienneには「ひどい」という意味もあり、chienne de chaleurというと「ひどい暑さ」になる。これぞまさにcaniculeだ、というのが上のニューズレターの話。

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Masaki Shimazaki