silva05

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silva speculationis       思索の森
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no.5 2003/04/12
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>

------クロスオーバー-------------------------------------

暴政の転覆

イラク戦争は開始から3週間にして首都バグダッドの「事実上の陥落」と相成り
ました。今回の戦争は、アメリカの大義では暴政の転覆を目指したものとされま
した。この「暴政の転覆」ですが、今回の戦争に限らず、そのこと自体の正当化
の根拠はどこにあるのか、というのは興味深い問題です。将基面貴巳著『反「暴
君」の思想史』は、そうした問題について取り組んだ格好の一冊です。キリスト
教圏でも、スコラ哲学の中で暴君放伐論が論じられているようで、同書によれ
ば、アリストテレスの「共通善」(有徳生活)概念が12世紀ごろに再発見さ
れ、ソールズベリーのジョンやトマス・アクィナスは、それぞれに忍従が有効な
ケースを認めつつも、基本的に支配者が共通善を脅かしている場合には、被支配
者はその不正を除去する義務があると論じている、といいます。もっと過激なの
は後期スコラ哲学のオッカムで、信仰を共有する者同士の「兄弟愛的矯正」は、
教会ヒエラルキーの上位者にも拡大適用可能だと論じているのだそうです。

こうした「共通善」をベースにする矯正の義務という考え方は、当然盲従を否定
する立場です。同時にそれは理性としての「良心」を重んずる立場でもありま
す。古代中国においても、儒家においては主君への盲従を否定しているとされま
すが、これが日本では独自の転換を遂げてしまうのだと著者は述べます。つま
り、「諌言」は「忠誠」の下に置かれてしまい、「心情」の純粋性だけが求めら
れるというのです。上位の人がどんな暴挙に出ても、下位の者はそれに従うべき
だ、なぜならそれこそが心情(心意気)の純粋性なのだから、というのが、江戸
時代以降日本が形作ってきた美徳だというわけです。これでは、理性としての良
心に従った行動はできなくなってしまいます。それは、上位に上りさえすれば好
き勝手ができるという「暴政の一般化」を意味します。これが現代の行き詰まり
の根底だと見、そこからの脱却を模索しようという著者の問題意識は、少なくと
も日本に関する限り、確かに広く共有してしかるべきだという気がします。

それにしても今回のイラク戦争、アメリカの救援物資を手にして「サダム万歳」
と叫んでいたイラク国民は、同書に記されていたソールベリーのジョンが説くと
ころの「戦略的へつらい」(リスク回避のための)を体現していたわけですが、
さすがにスコラ哲学の暴政放伐論では、あくまで民衆蜂起的なものが想定されて
いるだけで、他国による暴政の転覆という事態は射程に入っていないように見え
ます(それは十字軍とか、別の論理に関わってくるように思います。いずれにし
ても検討を要する問題です)。今回の戦争における住民たちの今後の動きを見る
上では、同時にイスラム神学・イスラム哲学からの「暴政放伐論」(そもそも、
そんな論がありうるかどうかも現時点では不明なのですが)が考察されなくては
ならないとも思われます。そんなわけで、「暴政の転覆」一つとってみても検討
すべきことはまだまだ数多くありますね。

○『反「暴君」の思想史』、将基面貴巳著、
平凡社新書132、2002、ISBN4-582-85132-0

------文献講読シリーズ-----------------------------------

「シャルルマーニュの生涯」その1

予告の通り、今回から「シャルルマーニュの生涯(Vita Karoli Magni)」を見て
いくことにします。十数回を予定しています。テキストはネット上のいろいろな
ところにあります(たとえばhttp://www.thelatinlibrary.com/ein.htmlな
ど)。各国語との対訳サイトもいくつかあると思われます。著者アインハルト
(Einhard:770頃〜840、ラテン名はエギンハルドゥス:Eginhardus)につい
て簡単にまとめておくと、生まれはドイツのマイン地方(当時のそのあたりはア
ウストラシアというフランク王国の東分国になっていた)、現ヘッセン州フルダ
の修道院付属学校で学び、その後シャルルマーニュの宮廷付属学校に迎えられ、
アルクインなどのカロリンガ・ルネサンスの立役者の弟子となり、シャルルマー
ニュとその一家に重んじられてアーヘンの建築監督や外交特使などを任されま
す。さらに後にはシャルルマーニュの子ルートウィヒ敬虔王(778〜840)の宮
廷で、ロタール(795〜855)の相談役ともなりますが、その一家の内紛を機に
引退し、ゼーリゲンシュタット修道院で晩年を過ごしたということです。この
「シャルルマーニュの生涯」のほか、シャルルマーニュ治世下の年代記や書簡な
ど多数の著作があるようです。

さて今回はプロローグ部分です。訳出は粗訳です(語句の選択など、吟味してい
ません)ので、あくまでご参考程度にお考えください。ここでちょっと注目され
るのはキケロへの言及でしょうか。アインハルトにとって(あるいは当時の学僧
にとって)キケロはラテン語の模範だった様子がわずかながら窺えます。『トゥ
スクルム議論』はカエサルのローマ侵攻直後の前46頃(キケロは前43年没)に
書かれた幸福論だということです。

# # #

Vitam et conversationem et ex parte non modica res gestas domini et
nutritoris mei Karoli, excellentissimi et merito famosissimi regis, postquam
scribere animus tulit, quanta potui brevitate conplexus sum, operam
inpendens, ut de his quae ad meam notitiam pervenire potuerunt nihil
omitterem neque prolixitate narrandi nova quaeque fastidientium animos
offenderem; si tamen hoc ullo mode vitari potest, ut nova scriptione non
offendantur qui vetera et a viris doctissimis atque disertissimis confecta
monumenta fastidiunt.

わが主人にして養育者、この上なく優れ、名を馳せた王カールの生涯とその交
流、そしてその偉業の少なからぬ部分を書こうと思い立った私は、できるかぎり
短くまとめ、私が知り得たことは省いたりせず、また未聞の話を長々と語って反
感を買わないよう努めた。なんらかの方法で回避できるなら、未聞の話が、伝統
や、博学と名文を誇る偉人の記念碑的作品を嫌う人々に、反感を抱かせないよう
に努めた。

Et quamquam plures esse non ambigam, qui otio ac litteris dediti statum
aevi praesentis non arbitrentur ita neglegendum, ut omnia penitus quae
nunc fiunt velut nulla memoria digna silentio atque oblivioni tradantur,
potiusque velint amore diuturnitatis inlecti aliorum praeclara facta
qualibuscumque scriptis inserere quam sui nominis famam posteritatis
memoriae nihil scribendo subtrahere, tamen ab huiuscemodi scriptione non
existimavi temperandum, quando mihi conscius eram nullum ea veracius
quam me scribere posse, quibus ipse interfui, quaeque praesens oculata, ut
dicunt, fide cognovi et, utrum ab alio scriberentur necne, liquido scire non
potui. Satiusque iudicavi eadem cum aliis velut communiter litteris mandata
memoriae posterorum tradere quam regis excellentissimi et omnium sua
aetate maximi clarissimam vitam et egregios atque moderni temporis
hominibus vix imitabiles actus pati oblivionis tenebris aboleri.

とはいえ、文筆活動や文学に身を捧げた人々で、本書が取るに足らぬものではな
いと考える人も少なからずいることは間違いない。今こうして行われているすべ
ては、いわばまったく記憶に値せず、沈黙と忘却にいたるだけに、彼らは、何も
書かず名前を後世の記憶に残さないことよりも、どのようなものであれ新たな文
書に、他の人々の偉業を記しておく方を望むのである。少なくとも私は、こうし
た文書を記すことを差し控えるべきだとは思わなかった。私が間に入り、自分の
目で見、いわば忠実に認識したことなので、私以上に誠実に書ける者はいないと
私は意識していた。あるいは別の者が書いているかどうかはわからない。同時に
私は、最も偉大なる王と、その輝かしい全生涯と栄誉、そして現代人ではほとん
ど真似できないような業績が、忘却の闇に沈むがままにするよりも、別の人々と
いわば共同で、文字によって後世の記憶に委ねる方がよいと判断した。

Suberat et alia non inrationabilis, ut opinor, causa, quae vel sola sufficere
posset, ut me ad haec scribenda conpelleret, nutrimentum videlicet in me
inpensum et perpetua, postquam in aula eius conversari coepi, cum ipso ac
liberis eius amicitia; qua me ita sibi devinxit debitoremque tam vivo quam
mortuo constituit, ut merito ingratus videri et iudicari possem, si tot
beneficiorum in me conlatorum inmemor clarissima et inlustrissima hominis
optime de me meriti gesta silentio praeterirem patererque vitam eius, quasi
qui numquam vixerit, sine litteris ac debita laude manere; cui scribendae
atque explicandae non meum ingeniolum, quod exile et parvum, immo
poene nullum est, sed Tullianam par erat desudare facundiam.

私がこの書を書くにいたった経緯にはもう一つの理由がある。それだけでも十分
なものだと思うのだが、宮廷で熱心かつ不断に教育を担当するようになってか
ら、王ご自身とそのご子息たちの友愛を受け、王の存命中も死後もお返しできず
にいた。もし私に与えられたこの聡明かつ輝けるお方の数々の功績を記憶せず、
しかるべき業績を沈黙のうちに過去のもととしその生涯を顧みず、まるでそうい
う方が生きていなかったのように、しかるべき書で賞賛しないなら、恩知らずと
思われても仕方ないだろう。それを書き説明することは、はかなく貧しい、ほと
んど無に等しい私のささやかな才能ではなく、トゥリウス(キケロ)の才を酷使
するにも等しかった。

En tibi librum praeclarissimi et maximi viri memoriam continentem; in quo
praeter illius facta non est quod admireris, nisi forte, quod homo barbarus
et in Romana locutione perparum exercitatus aliquid me decenter aut
commode Latine scribere posse putaverim atque in tantam inpudentiam
proruperim, ut illud Ciceronis putarem contemnendum, quod in primo
Tusculanarum libro, cum de Latinis scriptoribus loqueretur, ita dixisse
legitur: "mandare quemquam", inquit, "litteris cogitationes suas, qui eas
nec disponere nec inlustrare possit nec delectatione aliqua adlicere
lectorem, hominis est intemperanter abutentis et otio et litteris." Poterat
quidem haec oratoris egregii sententia me a scribendo deterrere, nisi animo
praemeditatum haberem hominum iudicia potius experiri et haec scribendo
ingenioli mei periculum facere quam tanti viri memoriam mihi parcendo
praeterire.

ここに読者に示すのは、名高い至上の人物についての回想録である。読者が驚嘆
するであろうことは、おそらく次のことだけである。つまり、ローマ以外の出身
者で、ローマの言葉はごくわずかしかできないくせに、私がラテン語を多少は正
しく適切に綴ることができると思い、かかる恥知らずな行為におよんだことであ
る。キケロが『トゥスクルム議論』の一巻で、ラテン語の著者たちについて述べ
たことを、私はまったく無視したのだ。同書には「秩序立てることも秀でたもの
にすることも、なんらかの形で読者を魅力を感じさせることもできないのに、文
字に自分の思考を委ねるのは、余暇と文学を乱暴に扱う人のやることだ」書かれ
ている。人からの評価を受け、またこれを執筆して私のつまらない才能を試す方
が、思いとどまってそれほどの人物の記憶を消してしまうよりよいと、もしあら
かじめ考えた末に決心したのでなかったならば、この秀逸な弁論家の見解は確か
に、私に執筆を思いとどまらせていただろう。

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次回からはいよいよ本文に入ります。