silva06

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silva speculationis       思索の森

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no.6 2003/04/26

<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>

------クロスオーバー-------------------------------------

感染症の脅威

新型肺炎(SARS)の話が連日取り上げられています。アメリカの西ナイル熱に
ついても、ペット用の鳥類にようやく規制がかけられ、また欧州では、オラン
ダ、ベルギーを中心に、新たに鳥インフルエンザが問題になっているようです。
獣医が感染したというのです。鳥インフルエンザは家禽ペストともいいます(フ
ランス語でpeste aviaire)。いずれにしても、感染症問題が急浮上している感
じです。

ヨーロッパ史の一大疫病といえば、やはりペストということになるでしょうか。
先に取り上げた『環境と文明の世界史』では、ペストの蔓延の一因として、ネズ
ミの大量発生があったとし、それは一つには、教会がオオカミを悪魔視し殺戮を
奨励したためにそうなったのだとしています。オオカミは本来、人間などを襲う
ことは稀で、むしろネズミなどの小動物を食していたというのです。そしてネズ
ミは、ペストの媒体となっていたわけです。一方、ノーマン・カンター『黒死
病ーー疫病の社会史』は、黒死病がヨーロッパに及ぼした影響を、政治関係、農
民生活、神学思想、有産階級、ユダヤ人など多面的かつ詳細に述べた好著です
が、そこでは、黒死病の患者とされる人々の一部に、ペストではなく炭疽病に
罹っていた人もいたのではないかというマイナーな説を紹介しています。14世
紀の黒死病が蔓延する速度からは、それがネズミよりも家畜による疫病だった可
能性が浮かび上がる、というのです。食用の動物からの感染が一番速いらしいの
です(エイズウイルスについても、チンパンジーを食したところから感染してい
るという説を紹介しています)。

感染源の特定もさることながら、やはりその社会的影響も見過ごせません。副次
的・波及的影響です。時にそれは人々の激情をも呼び起こすからです。同書から
一文を警告として抜き出しておきましょう。19世紀のハンブルクの疾病史家
が、流行病への人々の似通った反応を指摘しているといいます。「人々は、安全
だと思われている地域に難を逃れようとするのだが、そうした避難場所は、一般
的には牧歌的な郊外であることが多いし、疾病の責めを異邦人や嫌われている少
数民族に負わせる共同謀議の理論がもちだされる」(p.187)。特に後半の「異
邦人」や「少数民族」のスケープゴート化が気になります。ペストにおいてはユ
ダヤ人がその立場にあったわけですが、今回のSARS問題にしても、ヨーロッパ
などでは、アジア系の人々や中国から帰った旅行客に対する不安感が広がりはじ
めているようで、こうした不安感が差別的な行為に転換するのはさして難しいこ
とではありません。一刻も早い事態そのものの収拾と、いたずらにパニックを煽
らないための情報収集・開示が切に望まれます。

○ノーマン・F・カンター『黒死病ーー疾病の社会学』
久保儀明、楢崎靖人訳、青土社、2002
ISBN4-7917-5997-4

------文献講読シリーズ-----------------------------------

「シャルルマーニュの生涯」その2

今回から本文です。初回は1章と2章を見ていきます。これは前段にあたる部分
で、まだシャルルマーニュ本人は出てきません(笑)。メロヴィング朝の末期か
ら父ピピン(小ピピン)の頃の記述です。

# # #

[1] Gens Meroingorum, de qua Franci reges sibi creare soliti erant, usque in
Hildricum regem, qui iussu Stephani Romani pontificis depositus ac
detonsus atque in monasterium trusus est, durasse putatur. Quae licet in
illo finita possit videri, tamen iam dudum nullius vigoris erat, nec quicquam
in se clarum praeter inane regis vocabulum praeferebat. Nam et opes et
potentia regni penes palatii praefectos, qui maiores domus dicebantur, et
ad quos summa imperii pertinebat, tenebantur.

1.フランク族の人々は、メロヴィング家から王を選ぶことを常としていたが、
それは、ローマ教皇ステファヌスの命令を受けて王位を退き修道院に隠棲した、
ヒルデリヒの王政に至るまで続いたとされる。この王のもとでその家系は途絶え
るのだが、同家はその久しい以前から力を失っていて、意味のない「王」という
言葉を除けば、目立った功績もなかった。国の威信や力は宮廷執務官の手中にあ
り、それらの者は「宮宰」と称され、彼らが王国の頂点に君臨していた。

Neque regi aliud relinquebatur, quam ut regio tantum nomine contentus
crine profuso, barba summissa, solio resideret ac speciem dominantis
effingeret, legatos undecumque venientes audiret eisque abeuntibus
responsa, quae erat edoctus vel etiam iussus, ex sua velut potestate
redderet; cum praeter inutile regis nomen et precarium vitae stipendium,
quod ei praefectus aulae prout videbatur exhibebat, nihil aliud proprii
possideret quam unam et eam praeparvi reditus villam, in qua domum et ex
qua famulos sibi necessaria ministrantes atque obsequium exhibentes
paucae numerositatis habebat. Quocumque eundum erat, carpento ibat,
quod bubus iunctis et bubulco rustico more agente trahebatur. Sic ad
palatium, sic ad publicum populi sui conventum, qui annuatim ob regni
utilitatem celebrabatur, ire, sic domum redire solebat. At regni
administrationem et omnia quae vel domi vel foris agenda ac disponenda
erant praefectus aulae procurabat.

ほかに王に残されたものは、王という名、長く伸ばした髪、湛えた髭くらいのも
のだった。それでも王は玉座に座り、支配者としての体裁を取り、あちこちから
やって来る使者たちの話を聞き、去る時には返事を持たせていた。返事は、勧告
されたり命じられたものだったが、それでも王の権限によるものとして委ねられ
た。王という役に立たない肩書きと、宮廷執務官が適宜にもってくる、生活のた
めの租税収入を除くと、はなはだ小さな一つの敷地があるだけで、その中には家
があり、その周りに、敷地の管理や身の回りの世話をしてくれるわずかな数の奉
公人たちがいるだけだった。どこへ行くにも、牛を繋いで農夫が田舎風に引く二
輪の車で出かけるのが常だった。宮廷や、毎年王国の公務として催される国民会
議(民会)の場と自宅とを行き来するのは、そのようにしてだった。しかし王国
の管理や内外の重要案件などは、宮廷執務官が担当していた。

[2] Quo officio tum, cum Hildricus deponebatur, Pippinus pater Karoli regis
iam velut hereditario fungebatur. Nam pater eius Karolus, qui tyrannos per
totam Franciam dominatum sibi vindicantes oppressit et Sarracenos
Galliam occupare temptantes duobus magnis proeliis, uno in Aquitania apud
Pictavium civitatem, altero iuxta Narbonam apud Birram fluvium, ita
devicit, ut in Hispaniam eos redire conpelleret, eundem magistratum a
patre Pippino sibi dimissum egregie administravit. Qui honor non aliis a
populo dari consueverat quam his qui et claritate generis et opum
amplitudine ceteris eminebant. Hunc cum Pippinus pater Karoli regis ab avo
et patre sibi et fratri Karlomanno relictum, summa cum eo concordia
divisum, aliquot annis velut sub rege memorato tenuisset, frater eius
Karlomannus - incertum quibus de causis, tamen videtur, quod amore
conversationis contemplativae succensus -, operosa temporalis regni
administratione relicta, Romam se in otium contulit, ibique habitu
permutato monachus factus in monte Soracte apud ecclesiam beati
Silvestri constructo monasterio cum fratribus secum ad hoc venientibus
per aliquot annos optata quiete perfruitur.

2.ヒルデリヒ(ヒルデリヒ三世)の退位にともない、この職権は王シャルルの
父ピピンがいわば受け継ぎ、執り行っていた。シャルルの父は、全フランク族の
支配権を要求した不当な暴君たちを制圧し、ガリアを占領しようとするサラセン
人を、二つの大きな戦闘、一つはピクタバ族の町近くのアキテーヌの戦い、もう
一つはベール川近くのナルボンヌでの戦いで打ち負かし、ヒスパニアへの撤退を
余儀なくしたのだが、こうして、ピピンは自分の父から継いだ職権を見事に取り
仕切った。こうした職権を民衆が与えるのは、名家およびその他の輝かしい業績
で際だった者のみとするのが常だった。王シャルルの父ピピンは、兄カルロマン
とともに祖父ならびに父からその職権を引き継ぎ、兄との合意をえてそれを共有
し、数年の間、先に言及した王のもとでその職を務めた。兄のカルロマンはーー
理由は確かではないものの、学僧との交流で火がついたように思われるーー王国
の行政職という世俗の激務を離れ、ローマに向かい閑人となった。そこで衣服を
変え、修道士となり、ソラクテ山の聖シルヴェストル教会近くに、そこに来てい
た兄弟たちと修道院の建設に従事し、数年の間、望み通りの穏やかな生活を送る
ことができた。

Sed cum ex Francia multi nobilium ob vota solvenda Romam sollemniter
commearent et eum velut dominum quondam suum praeterire nollent,
otium, quo maxime delectabatur, crebra salutatione interrumpentes locum
mutare conpellunt. Nam huiuscemodi frequentiam cum suo proposito
officere vidisset, relicto monte in Samnium provinciam ad monasterium
sancti.Benedicti situm in castro Casino secessit et ibi quod reliquum erat
temporalis vitae religiose conversando conplevit.

だが、フランク王国の多くの貴族たちが誓いを果たすべく仰々しくローマと行き
来し、かつての支配者だった人物を放っておこうとはしなかったため、カルロマ
ンが享受していた隠遁生活は度重なる表敬訪問で中断され、場所変えを余儀なく
された。こうした訪問が自分の意図を妨げていると思った彼は、その山を去り、
サムニウム地方のカッシーノの町にあるベネディクト修道会に隠棲し、そこで残
りの人生を宗教に捧げ、全うした。

# # #

シャルルマーニュの父ピピン(小ピピン)は、メロヴィング朝最後の王ヒルデリ
ヒ三世の宮宰(宮中監督官)で、ヒルデリヒの退位(一種のクーデターのように
も思えますが、ピピンは躊躇していた、とも言われます)に教皇が介入している
ように、教皇との結びつきを強めた人物として知られています。教皇の支援に報
いるべく、2度のランゴバルド遠征でアイストゥルフ王を葬り、奪還したラヴェ
ンナ総督領とペンタポールを教皇に寄進していますが、これが教皇領の起源に
なったとも言われます。

シャルルマーニュの弟もカルロマンですが、父ピピンの兄もカルロマンです。こ
ちらは信仰生活に入ってしまうのですね。フランク王国の古法サリカ法典では、
世襲財産は兄弟分有が基本ですから、この兄の修道生活はピピンにとってはなか
なか都合がよい印象を与えます。もしかしたら強制的に入れられた、なんてこと
はないのでしょうかね?アインハルトがこの文書をいつごろ書いたのか、手元の
資料でははっきりしませんが、後の王の一族の内紛に心痛めたアインハルトだけ
に、そのあたりの事情を、故意に美談として(自発的な隠遁生活として)記し
た、という可能性はないのでしょうか?これはちょっと追ってみたい点ですね
(笑)。

次回は3〜5章あたりを見ていきます。