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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.11 2003/07/05

------トピックス-----------------------------------------
ブーヴィーヌの戦い

今年の7月27日は日曜ですが、1214年7月27日も日曜でした。この日、フラン
スはリール近郊の村ブーヴィーヌ(Bouvine)で、フランス王フィリップ・オー
ギュスト(フィリップ2世)は、神聖ローマ皇帝オットー4世(イングランドの
ジョン王と結託)、フランドル伯フェルディナンド、ブーローニュ伯ルノーらの
連合軍と衝突し、勝利をおさめました。一般に、この勝利によって、フランスの
君主制の基盤が確かなものになったとされています。フィリップ2世は世襲制を
制度的にも確立し、中央集権の礎を築いている。また神聖ローマ皇帝の権威を認
めず、一方で自分の家系がカロリング朝(そこから王権を奪ったのですが)との
連続性をなしていることを演出してみせ、世俗権力の一体化を図っていくのでし
た(このあたりの思想的な支えも探っていけば面白そうです)。

プランタジネット家が築いたアンジュー帝国(ノルマンディ、アンジュー、アキ
テーヌなどの西フランスと、イングランドを含む勢力地域)に脅威を感じていた
カペー朝でしたが、このフィリップ2世のころから様々な巻き返しが行われ、
ブーヴィーヌの戦いもその一つでした。すでにジョン(失地王)はルイ7世時代
にノルマンディからポワトゥのいたる各地を失っていて、オットー4世と組むこ
とで反撃に出ようとしたのですが、オットーがこの戦に敗れたことで、イングラ
ンドに逃げ帰ってしまいます。ジョンは翌年には貴族の反乱にあい、ラングトン
大司教の取りなしで、「マグナ・カルタ」の署名を余儀なくされるのでした。ま
た、オットーの方もこの戦いの後には退位し、ホーエンシュタウフェン家が帝位
を継承していきます。

ブーヴィーヌの戦いそのものがどのようなものだったか、という点も大変興味深
いものがありますが、これについては、ジョルジュ・デュビーの名著『ブー
ヴィーヌの日曜日』(1973)(邦題は『ブーヴィーヌの戦い』)がやはり実に
面白いですね。年代記作者ギヨーム・ル・ブルトンヌの手記を中心に、その戦い
を取り巻く状況(政治・経済)や後の伝説などを取り上げ、立体的な理解を構築
しようとしています。そういえばフランスの中世史家の大御所ジャック・ル・ゴ
フも、最近の対談本("A la recherche de Moyen Age", Audibert, 2003)の冒
頭で、デュビーのこの本が出た当時のインパクトを語っていました。

書店では手に入らないようですが:
○『ブーヴィーヌの戦い:中世フランスの事件と伝説』
ジョルジュ・デュビー著、松村剛訳、平凡社、1992

アンジュー帝国を含むプランタジネット家の盛衰については:
○『プランタジネット家の人々』
アンリ・ルゴエレル著、福本秀子訳、白水社文庫クセジュ、2000

------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その7

今回は11章と12章を見ていきましょう。バイエルンやスラブとの戦いを述べた
箇所です。いわばこれは「北方戦線」ですね。

               #######
[11 ] Baioaricum deinde bellum et repente ortum et celeri fine conpletum
est. Quod superbia simul ac socordia Tassilonis ducis excitavit; qui hortatu
uxoris, quae filia Desiderii regis erat ac patris exilium per maritum ulcisci
posse putabat, iuncto foedere cum Hunis, qui Baioariis sunt ab oriente
contermini, non solum imperata non facere, sed bello regem provocare
temptabat. Cuius contumaciam, quia nimia videbatur, animositas regis
ferre nequiverat, ac proinde copiis undique contractis Baioariam petiturus
ipse ad Lechum amnem cum magno venit exercitu. Is fluvius Baioarios ab
Alamannis dividit. Cuius in ripa castris conlocatis, priusquam provinciam
intraret, animum ducis per legatos statuit experiri. Sed nec ille pertinaciter
agere vel sibi vel genti utile ratus supplex se regi permisit, obsides qui
imperabantur dedit, inter quos et filium suum Theodonem, data insuper fide
cum iuramento, quod ab illius potestate ad defectionem nemini suadenti
adsentire deberet. Sicque bello, quod quasi maximum futurum videbatur,
celerrimus est finis inpositus. Tassilo tamen postmodum ad regem
evocatus neque redire permissus, neque provincia, quam tenebat, ulterius
duci, sed comitibus ad regendum commissa est.

11.その後、バイエルン族との戦が唐突に始まったものの、ほどなく終息し
た。この戦いは、タッシロ公の傲慢と怠惰によって勃発した。公の妻はデシデリ
ウス王の娘で、父の追放への復讐を夫を通じて行おうとしていた。その妻にそそ
のかされ、公はフン族と同盟を結んだ。フン族はバイエルン族の東に接してお
り、命令に従わないばかりか、王を戦争に仕向けるよう挑発していた。その命令
拒否は甚だしく、さすがの王も業を煮やないわけにいかず、いたるところからバ
イエルン行きの志願兵を募り、大軍を率いてみずからレヒ川へと赴いた。川はバ
イエルン族とアラマン族とを分断していた。王はその沿岸に陣営を配すと、その
地域へと侵攻する前に、使者を遣わして公の真意を確かめようとした。だが、公
は頑迷な態度が自分にとっても部族にとっても有益ではないと考え、みずから王
に懇願し、命令された人質を差し出した。人質には息子のテオドニスも含まれて
いた。また、王の権限に背くよう唆す者には今後従わないと、忠誠をも誓った。
こうして、長きにわたるかに思えた戦は短期間で終結した。しかしタッシロ公は
その後、王のもとに呼び出され、帰ることは許されなかった。また、公が支配し
ていた属領は、その後は公ではなく、伯らへと統治が委ねられた。

[12 ] His motibus ita conpositis, Sclavis, qui nostra consuetudine Wilzi,
proprie vero, id est sua locutione, Welatabi dicuntur, bellum inlatum est. In
quo et Saxones velut auxiliares inter ceteras nationes, quae regis signa
iussae sequebantur, quamquam ficta et minus devota oboedientia,
militabant. Causa belli erat, quod Abodritos, qui cum Francis olim foederati
erant, adsidua incursione lacessebant nec iussionibus coerceri poterant.
Sinus quidam ab occidentali oceano orientem versus porrigitur, longitudinis
quidem inconpertae, latitudinis vero quae nusquam centum milia passuum
excedat, cum in multis locis contractior inveniatur. Hunc multae
circumsedent nationes; Dani siquidem ac Sueones, ques Nordmannos
vocamus, et septentrionale litus et omnes in eo insulas tenent. At litus
australe Sclavi et Aisti et aliae diversae incolunt nationes; inter quos vel
praecipui sunt, quibus tunc a rege bellum inferebatur, Welatabi. Quos ille
una tantum et quam per se gesserat expeditione ita contudit ac domuit, ut
ulterius imperata facere minime rennuendum iudicarent.

12.この反乱が平定されると、スラブ人との戦が生じた。私たちが慣習的に
ヴィルツェスと呼んでいるこの民族は、自分たちの言葉ではヴェラタブスとい
う。この戦では、とりわけザクセン人が援軍として加わった。王の命令で諸民族
が従軍したが、他は従うふりをするだけで、熱心に従うわけではなかった。戦の
発端は、かつてフランク族の盟友だったアボドリトゥス族に不断の急襲を仕掛け
たこと、命令を発して抑え込むこともできなかったことにあった。当地には西の
海から東へと湾が広がっていた。その長さはわからないものの、幅は10万歩
(フィート)を超えるところはなく、多くの地点で狭まっていた。湾を囲むよう
に多くの民族が住んでいた。私たちがノルマンと呼ぶダノア人やスエーデン人
は、北部の沿岸とその島をすべて統治していた。また南の沿岸には、スラブ人や
エステ人など様々な民族が定住していた。中でも顕著なのが、王が戦を交えた
ヴェラタブス族だった。王はみずから率いた一度の進軍で、敵を打ち破り制圧し
た。こうしてその後、彼らはこれ以上命令を拒んではならないと考えるように
なった。
#######

デシデリウス王というのは6章で出てきたランゴバルドの王でした。この娘がバ
イエルン族に嫁いでいたのですね。バイエルン公国はドナウ川(文中に出てくる
レヒ川はその支流)流域に居を構えていた一族で、ゲルマン系ともケルト系とも
言われているようです。タッシロ公というのはアギロルフィング家のタッシロ3
世で、公が降伏したのは788年のことでした。本文にはさらにアラマン族という
のも出てきています。これはゲルマンの種族の一つで、5世紀末にフランク族に
征服されています。フランス語でドイツのことをAllemangeといいますが、その
語源はこのAlaman族にあるようです。
また、章の最後のところで、統治が公(大公)ではなく、伯に委ねられたとあり
ますが、これは要するに国王の直轄に置かれたということのようです。

スラブ人の方については今のところ資料が手元にないのですが、798年にはザル
ツブルクに大司教管区が敷かれ、東南部方面のスラブ人地域へのキリスト教布教
拠点となります。スラブ人の宗教は多神教的な祖霊信仰だったといいますが、こ
れが徐々にキリスト教に取って代わられるわけですね。

次回は13、14章を見ていきます。戦の話は次回まで続きます。その後は統治の
話や家族の話などに移っていきます。お楽しみに。

*本マガジンは隔週発行です。次回は7/19の予定です。
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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
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