silva16

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.16 2003/09/20

------新刊情報--------------------------------------------
今回もいろいろ情報が入ってきています。必ずしも中世プロパーではないものも
ありますが、そういったものも関連書籍という形で記載していきたいと思ってい
ます。

○『教会会議の歴史−−ニカイア会議から第2バチカン公会議まで 』
N.P.タナー著、野谷啓二訳、 教文館
ISBN:4-7642-6641-5

教会会議が何をどう決定し、それによって制度はどう動いたかを追った労作のよ
うです。そのあたりの話がまとめて読めれば便利でしょう。

○『教会暦−−祝祭日の歴史と現在』
K-H.ビーリッツ著、松山与志雄訳、 教文館
ISBN:4-7642-7221-0

これもまた、教会暦をめぐる手頃な教科書のようです。こういうのは手元に置い
ておきたいかも。

○『歩いて書いたヨーロッパの歴史−−古代・中世編』
石田敦士著、暁印書館
ISBN:4-87015-149-9

「敏腕ビジネスマンが足で歩き書きあげたヨーロッパの歴史書。文献資料の探求
に加え、機智とユーモアに溢れる視線は、ヨーロッパの歴史を楽しく分かり易く
読ませる」と内容解説にあります。いいですね、こういうのは面白そうです。在
野の著者が書く面白い著作、というのが最近は少なくなって残念ですが、そうい
う意味でも注目できそうです。

○『紋章が語るヨーロッパ史』 (白水Uブックス 1061)
浜本隆志著、白水社
ISBN:4-560-07361-9

98年刊の再刊とのこと。紋章の成立などは興味深い問題ですが、これはその通
史なのでしょうか。中世プロバーではなくとも、図版が多数再録されているよう
で、こういうのは図版を眺めるだけでも一見の価値あり、という気がします。

○『〈知〉とグローバル化−−中世ヨーロッパから見た現代世界』
高山博著、 勁草書房
ISBN:4-326-24833-5

多文化主義の絡みで、現代と中世とをつないでみようとする論考のようです。ア
クチャルな問題を中世の視点から解き明かす……阿部謹也なども取り組んでいた
刺激的な問題系ですが、これはやり方によっては意外に難しい問題を孕んできた
りもします。どう取り組み、どう料理していくのか、興味津々です。

番外編:

○ "Traduire le latin medieval : cahier d'exercice"
M. Parisse, M. Goullet, Picard
ISBN: 2708406965

国内では中世ラテン語の教科書はほとんど見あたりませんが、フランスで出てい
る優れものの教科書"Apprendre le latin medieval" (Picard)(「中世ラテン語
を学ぶ」)の姉妹編が出ていました。題して「中世ラテン語を訳す」。テキスト
のアンソロジーで、訳読の練習をしようというもののようです。基本的には和書
中心のこのコーナーですが、なかなか面白そうなので、一応番外編としておきま
した。


------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その12

今回は19章の後半から、21章までを見ていきます。主に家族について語られて
いる箇所ですね。

                # # # # #
Filiorum ac filiarum tantam in educando curam habuit, ut numquam domi
positus sine ipsis caenaret, numquam iter sine illis faceret. Adequitabant ei
filii, filiae vero poene sequebantur, quarum agmen extremum ex satellitum
numero ad hoc ordinati tuebantur. Quae cum pulcherrimae essent et ab eo
plurimum diligerentur, mirum dictu, quod nullam earum cuiquam aut
suorum aut exterorum nuptum dare voluit, sed omnes secum usque ad
obitum suum in domo sua retinuit, dicens se earum contubernio carere non
posse. Ac propter hoc, licet alias felix, adversae fortunae malignitatem
expertus est. Quod tamen ita dissimulavit, acsi de eis nulla umquam alicuius
probri suspicio exorta vel fama dispersa fuisset.

息子や娘たちの教育には留意し、宮廷にいる時には必ず彼らと食事を共にし、必
ず彼らと旅をした。息子たちは彼とともに馬に乗り、娘たちはその後に続いた。
その一団の末尾を、特に選ばれた近衛兵らが守っていた。娘たちは美しく、王は
彼女らをいたく愛しており、驚くべきことだが、そのうちの誰も、一族の者にも
外部の者にも嫁がせようとせず、娘たちとの生活なしではやっていけないと自ら
に言い聞かせ、自分が死ぬまで全員を自分とともに屋敷に置いておいた。そして
そのため、それ以外では幸福だった王も、悪しき運命を経験することとなった。
だが、まるで不品行の疑いなどいっさい浮上せず、風聞も広まらなかったかのよ
うに、ひた隠しにした。

[20] Erat ei filius nomine Pippinus ex concubina editus, cuius inter ceteros
mentionem facere distuli, facie quidem pulcher, sed gibbo deformis. Is, cum
pater bello contra Hunos suscepto in Baioaria hiemaret, aegritudine
simulata, cum quibusdam e primoribus Francorum, qui eum vana regni
promissione inlexerant, adversus patrem coniuravit. Quem post fraudem
detectam et damnationem coniuratorum detonsum in coenobio Prumia
religiosae vitae iamque volentem vacare permisit. Facta est et alia prius
contra eum in Germania valida coniuratio. Cuius auctores partim luminibus
orbati, partim membris incolomes, omnes tamen exilio deportati sunt;
neque ullus ex eis est interfectus nisi tres tantum; qui cum se, ne
conprehenderentur, strictis gladiis defenderent, aliquos etiam occidissent,
quia aliter coerceri non poterant, interempti sunt.

内縁の妻との間に、ピピンという名の息子があった。他の息子たちとともに言及
するのを避けておいた人物で、顔立ちは美しかったが、背筋が伸びていなかった
(せむしだった)。父親がフン族との戦いのためバイエルンで冬を越している
間、ピピンはフランク族の貴族の何人かに王国統治の空約束で唆され、病気のふ
りをして、彼らとともに父親への反乱を企てた。その企てが発覚し、共謀者が裁
かれた後、ピピンは自らすすんでプルムの修道院で宗教生活に入ることを許され
た。それ以前にも、王に対する大きな反乱がゲルマニアであった。その首謀者た
ちは、一部は眼を潰され、一部は身体を切断され、みな追放された。彼らは殺さ
れはしなかったが、3人だけは例外で、捕まらないようにと剣を抜いて身を守ろ
うとし、他の人々を殺害した。他に捕らえようがなかったため、彼らは殺害され
た。

Harum tamen coniurationum Fastradae reginae crudelitas causa et origo
extitisse creditur. Et idcirco in ambabus contra regem conspiratum est,
quia uxoris crudelitati consentiens a suae naturae benignitate ac solita
mansuetudine inmaniter exorbitasse videbatur. Ceterum per omne vitae
suae tempus ita cum summo omnium amore atque favore et domi et foris
conversatus est, ut numqunm ei vel minima iniustae crudelitatis nota a
quoquam fuisset obiecta.

こうした反乱の原因・起源は、后ファストラーダの残酷さにあると考えられてい
る。ゆえに、王に対する両方の共謀がなされたのだ。というのも、王は天性の寛
大さと普段の穏やかさで、妻の残酷さを許容し、実に巧みに逸らしていたから
だ。そのほかは、生涯を通じ、宮廷の中でも外でも、この上ない愛情と好意を
もって過ごし、無情であるとの不当な評判などは、誰からも、わずかたりとも寄
せられることがないほどだった。

[21] Amabat peregrinos et in eis suscipiendis magnam habebat curam,
adeo ut eorum multitudo non solum palatio, verum etiam regno non
inmerito videretur onerosa. Ipse tamen prae magnitudine animi
huiuscemodi pondere minime gravabatur, cum etiam ingentia incommoda
laude liberalitatis ac bonae famae mercede conpensaret.

王は異国の人々を愛し、彼らの庇護に大いなる配慮を示した。そうして外国人
は、宮廷ばかりか王国全体でも多数に及び、相応の負担となった。とはいえ王自
身は、その寛大な心ゆえに、そうした負担を苦にすることもなく、大きな不都合
があっても、それと引き替えに寛大さが讃えられ、名声が得られると考えてい
た。
                # # # # #

娘たちを手放そうせず、悪しき運命に見舞われた、という部分ですが、これは著
者アインハルトが、シャルルマーニュの娘ベルタと、当時宮廷に仕えていた聖職
者アンギルバートとの、許されざる関係をほのめかしたのだと注釈されていま
す。アンギルバートはアルクインの下で学問を修め、ピカルディのサン=リキエ
修道院の長を務めました。列聖されており、祝日は2月18日です。ベルタとの間
には子どももでき、ベルタはそれを悔やんで修道生活に入ってしまいます。この
あたりの話は、後の年代記作家ニタール(ルイ一世時代の年代記を作成)が記し
ているのだそうです。また、こうした批判的文章を入れるスタイルは、アインハ
ルトが範と仰ぐローマの伝記作家スエトニウスを真似たものだとされています
(C.C.Buchner刊の注釈による)。

続く20章では、せむしのピピンの話が出てきます。内縁の妻ことヒンメルト
ルーディス(前回ヒンメルトラウトと表記しましたが、訂正しておきましょう)
の子か、あるいはランゴバルド王の娘で正妻だったガティンの子だとされている
ようです。いずれにしても一種のクーデターを謀ったことは確かなようで、792
年のこととされています。ちなみにゲルマニアでの反乱は785年です。正妻ファ
ストラーダの残酷さが原因だと本文では述べられていますが、実際のところはど
うだったのでしょうね。相続がらみの問題がなかったとは、おそらくいえないよ
うに思えます。いずれにしても決まり文句として繰り返される「寛大なるシャル
ル」は、どうも実態を見えにくくしてしまいます。当時の領主にとって、寛大さ
を示すことはごく普通のことだったようですが、そういう点からすると、21章
(この章は短く、上ですべてです)のような、功利的な考えを述べた一文はなか
なか珍しいのではないでしょうか。

次回は22章から23章です。シャルルマーニュの風貌や生活が語られていくくだ
りです。お楽しみに。

------------------------------------------------
*本マガジンは隔週の発行です。次回は10月4日の予定です。
------------------------------------------------
(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
------------------------------------------------