silva17

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.17 2003/10/04

-----クロスオーバー-------------------------------------
エーコの新刊

先日BSで映画『薔薇の名前』(1986)を放映していました。公開当時はいろい
ろと文句というか酷評が寄せられたものでした。原作の豊かな持ち味が損なわれ
ているとか、ハリウッド流(監督はフランス出身のジャン=ジャック・アノーで
すが)の勧善懲悪型になっているとか(アドソとウィリアムは美形なのに、異端
派や修道院の怪しげな人々は醜悪だったりとか)、そもそもなんで英語なのだと
か、反応は様々だったことが思い起こされます。個人的には、少し前からイタリ
ア語の原作を少しずつ読んでいることもあって(全体が7日の構成になっていま
すが、ちょうどその4日目を終えるところにさしかかり、役者が出そろったとい
うあたりです)、当時の批判に納得する点も多々あるのですが、全体としては以
前よりも好意的に映画を観ることができた気がします。

さて、その原作者ウンベルト・エーコですが、ご承知の通り、最近久々の記号論
系の著書が邦訳されました。2巻本の『カントとカモノハシ』がそれです。かつ
ての『記号論』の続編にあたり、未知の分類不可能な対象(たとえばマルコ・
ポーロにとってのカモノハシ)を見いだした時、認識がどのように揺さぶられ、
どのように理解として「落ち着く」のかを、エーコは徹底的に検証していき、そ
の過程でカントの図式の再解釈がパースを経由してなされていくという寸法で
す。

こうした「未知なるものを前にしての認識過程の検証」は、そもそもスコラ哲学
の真骨頂だったということができます。もちろん、その場合の未知なるものは、
後の時代の分類学の範疇から逸脱する対象などではなく、絶対的に人知の及ばな
い存在としての神だったりするわけですが、例えばヨハネス・ドゥンス・スコ
トゥスは、限定的な人間知性が、いかにして神的なものを認識しうるのかという
問題をめぐって、やはりどこか現象学的ともいえる認識論を展開していきます。
スコトゥスの場合、神による啓示を前提とするために、「複合命題は啓示によっ
て超自然的に把握される」とか、逆に「単純命題は感覚器官・能動知性によって
把握される」と言い切ってしまい、そうした「把握」そのもののプロセスを考え
る方向には向かわず、むしろそこから認識=把握の分類・体系化へと論が移って
いくようです(晦渋ですが、参考書として、福田誠二『ヨハネス・ドゥンス・ス
コトゥスのペルソナ神学』があります)。「認識」そのものに挑むのはカントよ
り後の時代を待たなければならないのでしょう。とはいえ、カントもまた、スコ
ラ哲学の批判の上に論を進めているのは明らかで、とすれば、スコラ哲学はその
後の時代の哲学の展開を観る上で避けては通れない通過点をなしているといえま
す。当たり前のように見えて、このことは意外と忘れられがちです。特に現代思
想寄りの研究者たちに多い気がするのですが、古代ギリシアには盛んに言及する
のに、中世の思想体系などなかったかのようにすっ飛ばして、近世以降にいきな
り話をもっていくような場合が結構見られたりします。これはちょっと残念なこ
とです。

記号論を遡っていけばスコラ哲学に行き当たるということは、エーコ本人が示し
ていたことです。今回の著書では、これまで光が当てられなかった認識プロセス
の一側面を追っていくだけに、動員される概念装置は現代的なもの(認知タイ
プ、核内容など)です。しかしそこには、スコラ哲学的な精神も容易に見いだせ
ます。こういってよければトマス・アクィナスばりの理詰めで問題を追っていく
その姿は、これまた『薔薇の名前』のウィリアム(グリエルモ)に、やはり重
なっていきますね(ショーン・コネリーではなしに(笑))。

○"Il nome della rosa"
Umberto Eco, RCS Libri, Milano, 1980-2001
ISBN88-452-4634-5

○『カントとカモノハシ』(上・下)
ウンベルト・エーコ著、和田忠彦監訳、岩波書店
ISBN4-00-022430-1, ISBN4-00-022431-X

>○『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスのペルソナ神学』
福田誠二著、サンパウロ
ISBN4-8056-8929-3

------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その13

今回見ていく22章と23章は、王の外見と身なりについて記された箇所です。

               # # # # # #
[22 ] Corpore fuit amplo atque robusto, statura eminenti, quae tamen
iustam non excederet - nam septem suorum pedum proceritatem eius
constat habuisse mensuram -, apice capitis rotundo, oculis praegrandibus
ac vegetis, naso paululum mediocritatem excedenti, canitie pulchra, facie
laeta et hilari. Unde formae auctoritas ac dignitas tam stanti quam sedenti
plurima adquirebatur; quamquam cervix obesa et brevior venterque
proiectior videretur, tamen haec ceterorum membrorum celabat
aequalitas. Incessu firmo totaque corporis habitudine virili; voce clara
quidem, sed quae minus corporis formae conveniret.

体躯は大きく強靭で上背もあったが、とはいえ適度な大きさを越えてはいなかっ
た。背丈は足の7倍で、頭は丸く、眼はきわめて大きく生き生きとし、鼻は中庸
よりわずかに大きく、灰色の髪は美しく、顔は晴れ晴れとして陽気だった。立っ
ていても座っていても、権威と威信に溢れた、この上ない容姿だった。首は太く
短く、腹も出てはいたが、そのほかの部位の均衡によって目立たなかった。歩き
方も力強く、身のこなしは全般に勇壮だった。声は高かったが、その容姿にはや
や似つかわしくなかった。

Valitudine prospera, praeter quod, antequam decederet, per quatuor annos
crebro febribus corripiebatur, ad extremum etiam uno pede claudicaret. Et
tunc quidem plura suo arbitratu quam medicorum consilio faciebat, quos
poene exosos habebat, quod ei in cibis assa, quibus assuetus erat, dimittere
et elixis adsuescere suadebant.

健康状態も良かったが、亡くなる前の4年間だけはしばしば熱病を患い、ついに
は片足を引きずるようになった。それでもなお、医者の助言よりもみずからの判
断に従っていた。医者に対しては憎しみに近い感情を抱いていた。というのは、
医者は王に対して、慣れ親しんだ焼肉料理をあきらめ、煮込み料理に慣れるよう
忠告していたためだった。

Exercebatur assidue equitando ac venando; quod illi gentilicium erat, quia
vix ulla in terris natio invenitur, quae in hac arte Francis possit aequari.
Delectabatur etiam vaporibus aquarum naturaliter calentium, frequenti
natatu corpus exercens; cuius adeo peritus fuit, ut nullus ei iuste valeat
anteferri. Ob hoc etiam Aquisgrani regiam exstruxit ibique extremis vitae
annis usque ad obitum perpetim habitavit. Et non solum filios ad balneum,
verum optimates et amicos, aliquando etiam satellitum et custodum
corporis turbam invitavit, ita ut nonnumquam centum vel eo amplius
homines una lavarentur.

王は乗馬や狩りには熱心だった。それは一族の伝統でもあった。というのも、そ
の技でフランク族と肩を並べる部族など、いかなる場所にもほとんど見いだせな
かったからだ。王はまた、蒸し風呂を好み、しばしば泳ぎで体を鍛えていた。王
は死ぬまでそれを行い、それ(風呂)以上に重んずることは何もなかった。その
ためにアーヘンに宮殿を建設し、晩年は死ぬまでそこで暮らしたほどである。王
は息子たちばかりでなく、貴族や友人たち、さらに時には親衛隊や警備隊の多く
の兵らをも浴場へと招待した。時には100人を越える男たちが入浴を楽しんだ。

[23 ] Vestitu patrio, id est Francico, utebatur. Ad corpus camisam lineam,
et feminalibus lineis induebatur, deinde tunicam, quae limbo serico
ambiebatur, et tibialia; tum fasciolis crura et pedes calciamentis
constringebat et ex pellibus lutrinis vel murinis thorace confecto umeros ac
pectus hieme muniebat, sago veneto amictus et gladio semper accinctus,
cuius capulus ac balteus aut aureus aut argenteus erat. Aliquoties et
gemmato ense utebatur, quod tamen nonnisi in praecipuis festivitatibus vel
si quando exterarum gentium legati venissent. Peregrina vero indumenta,
quamvis pulcherrima, respuebat nec umquam eis indui patiebatur, excepto
quod Romae semel Hadriano pontifice petente et iterum Leone successore
eius supplicante longa tunica et clamide amictus, calceis quoque Romano
more formatis induebatur. In festivitatibus veste auro texta et calciamentis
gemmatis et fibula aurea sagum adstringente, diademate quoque ex auro et
gemmis ornatus incedebat. Aliis autem diebus habitus eius parum a
communi ac plebeio abhorrebat.

王は祖国の装束、つまりフランク族の装束を身につけていた。体の周りには亜麻
のシャツを着て、亜麻の腰ひもで結び、その上にトゥニカを着て、絹のひもで結
んでいた。また、足には脚絆を巻き、脚ひもで履き物を縛り、カワウソもしくは
ネズミの毛皮を上半身に当て、肩と胸を寒さから守っていた。さらに青い小マン
トを羽織り、常に帯剣していた。剣の柄や帯は金または銀でできていた。何度
か、宝石をはめ込んだ剣が使われたこともあった。ただしそれは、主に式典か、
あるいはほかの部族の使節が来た場合だった。だが外国の衣服は、いかに美しい
ものであっても拒み、決して袖を通そうとはしなかった。ただし、一度はローマ
教皇ハドリアヌスの要請を受けて、もう一度はその後継者レオヌスの嘆願を受け
て、長いトゥニカとマントを身につけ、ローマ風の靴を履いた。式典に際して
は、金色の刺繍が施された衣服と、宝石をちりばめた靴を身につけ、マントは金
色の留金で留め、これまた金と宝石をめぐらした王冠を被って進み出た。それ以
外の日は、王の身なりも平民らとさほど違わなかった。
               # # # # # #

シャルルの背丈はどの位だったのでしょうか。背丈が足の7倍とありますが、こ
れはどうやら決まり文句のようです(私たちが8等身などというのと同じでしょ
うか)。ローマ人の足が29cm以上はあったようなので、この計算でいくと、7
足身となれば2mを越えます。アーヘンの宮殿の遺跡から、当時の測量単位とし
て現行のフィートと同様の3分の1メートルが導かれるといいますが、それでい
くと、実に2m30を越えてしまいます。後に付加される伝説では、シャルルマー
ニュの背丈を2m50位にしているものもあるといいます。ですが実際のところ、
1861年に発掘された際の測定結果では、1,86mから1.92mほどとされていま
す。これでもかなり大きいですが、比率は6対1弱(5.8か5.7)という感じにな
ります。

蒸し風呂が大好きだったというのも面白いですね。よく知られているように、入
浴の習慣は古代ギリシアからあり、ローマ帝政時代に最も盛んになり、ローマ市
民は皇帝の作った公共浴場を利用していたとされています。ここでの風呂への言
及は、結果的にローマの継承者としてのシャルルを印象づけているようにも見え
ます。そういえば、日本でも近世初期ごろまでは、風呂というと蒸し風呂が一般
的だったのだそうです。

装束についてもそうですが、実際の姿がどんなであったのか、なかなか想像しに
くいですね。そこで役立つのがシャルルマーニュ像ですが、これもいろいろ後か
らの解釈が入っていて、実像にどれだけ近いのか、どうも釈然としません。例え
ばhttp://www.gregoryferdinandsen.com/CDG2001/
Notre_Dame_de_Paris.htmの一番下にある、パリのノートルダム寺院の像
(クリックすると拡大します)は、馬に乗ったシャルルマーニュと側近とが描か
れています。この写真では顔が見えませんが、http://www.clouseart.com/
Ron/weeklyinvert/travel_2002/paris.htmlに斜め前からの写真が掲載されて
います。豊かなあごひげがあり、後の伝説で定着した「白ひげ」が鮮明に描かれ
ています。より同時代的な像としては、ルーヴル美術館にあるシャルルマーニュ
像(9世紀?)が有名でしょうか。これはhttp://www.momes.net/education/
histoire/charlemagne/empereur.htmlに写真が大きく出ています。このページ
の解説によると、「あごひげ」ではない、口ひげの王として描かれ、衣装はロー
マ風、手にしている球は世界的権力の象徴なのだとか。

次回は宮廷生活の様子を記述した24章、25章を見ていきましょう。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は10月18日の予定です。
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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
http://www.asahi-net.or.jp/%7Edi4m-smzk/
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