January 26, 2004

No.25

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.25 2004/01/24

------クロスオーバー-------------------------
食の文化史

「ショウガ、多量のシナモン、長コショウ、焼いてから酢とヴェルジュに浸した
パンをすりつぶし、すべて混ぜ合わせる」。これはブリュノ・ロリウー著『中世
ヨーロッパ 食の生活史』の巻末に掲載されている14世紀のカムリーヌソース
の作り方です(p.300)。現代の感覚からすると、なんだか味気ないですね
(笑)。当時のレシピは、まだ数量表記などはなく、一般に簡素なものです。と
いうのもこれ、もともと料理の仕方を忠実に再現することを意図してはいないか
らなのですね。

当時の料理人は自分の体験と勘をたよりに料理を作っていて、料理人が記すレシ
ピ集に分量が示されることはまずなかったといいます。料理書・レシピ集の執筆
というのは、料理人が自分の腕をアピールするために書かれていたという話で、
料理を教えるものではまったくなかったのでした。とはいえ、そうした料理書
は、料理人の社会的地位の上昇に一役買ったともいわれます。料理人がレシピを
書き記すというのは中世に特徴的な現象で、古代では料理書を記すのはむしろ食
の愛好家、美食家でした。余談ですが、ジャン・ボテロ『最古の料理』で紹介さ
れている古代メソポタミアのレシピなどを見ると、むしろそちらの方が生き生き
と調理法を描いていて驚かされます。

もちろん中世においても、とりわけ宮廷での宴が盛んになる盛期以降、美食家と
いわれる人々が前面に出てきて、古代の美食家と同じように料理書を記していた
ようです。そういう人の手にかかると、レシピも細かさが増し、分量の指示など
も徐々に盛り込まれていくようになります。料理書の執筆者には、ほかに医者も
いました。東洋からのスパイスなどが大量に入っていたこともあって、料理は医
者の関心事だったのですね。スパイスの流入という点では、上のカムリーヌソー
スにもその片鱗が窺えます。15世紀の同ソースの作り方には、さらにグレー
ヌ・ド・パラディ、クローブ、コショウ、メース、ナツメグなど好みのスパイス
を加えよとあります。古代もそうでしょうが、中世の食卓は、少なくと裕福な層
に関する限り、現代のものよりもはるかに多彩な色と味わい(ある意味でどぎつ
い?)を湛えていたようです。

そうした華やかさ(どぎつさ?)の延長線上に、宮廷での豪華な宴もあるのかも
しれません。宴は権力者の権威の誇示として演出されたわけですが、おそらくそ
れは料理人の「プロ」化をも促したのでしょう。16世紀以降、そうした動きに
拍車がかかり、宮廷文化の洗練とともに制度的にも整備されていきます。関田淳
子『ハプスブルク家の食卓』などには、宮廷料理の専門部署の立ち上げについて
細かく記されています、宮廷お抱えの音楽家などの処遇とパラレルに進んでいっ
たことが見てとれます。

このようになかなか興味深い食の文化史ですが、中世初期から盛期にかけては文
献資料が乏しいらしく、そのあたりの動向は明らかになっていないようです。料
理書が史料として現れるのは14世紀ごろからとされます。建築術などと同様
に、料理術も徒弟制度の中で口承と実体験で伝承されていくものだったため、結
果的に限られた史料しかないという問題に突き当たってしまうのですね。とはい
え、近年では考古学的なアプローチなど、文献以外、あるいは文献の周辺をめぐ
る方法論も活用されているようで、そちらからなんらかの新事実が明らかになる
ことも今後期待できるかもしれません。上のロリウーの書籍は、14世紀以降に
ついて、文献資料をもとに多くの視点から立体的に当時の食の事情を浮かび上が
らせていますが、個別の食物史や限定したテーマの食文化史などももっと見てみ
たい気がします。このところ狂牛病や鳥インフルエンザなど、食の安全性が問わ
れていることもあり、食の安全という観点からのアプローチもおそらくは興味深
いテーマでしょう。

○『中世ヨーロッパ 食の生活史』
ブリュノ・ロリウー著、吉田春美訳、原書房
ISBN 4-562-03687-7

○『最古の料理』
ジャン・ボテロ著、松島英子訳、法政大学出版局
ISBN 4-588-02218-0

○『ハプスブルク家の食卓』
関田淳子著、集英社
ISBN 4-08-781252-9

※少し前に「食べて覚えるイタリア語」というサイト&メルマガの主宰者の方か
らメールをいただきました。食や歴史など多面的な切り口でイタリア語・イタリ
ア文化について紹介されています。URLはhttp://italofoglio.com/です。


------文献講読シリーズ-----------------------
「マグナ・カルタ」その2

今回からいよいよ具体的な内容です。なにぶん法律文書ですので、ちょっと読み
づらい(日本語でも)部分がありますが、ご了承いただきたいと思います。

# # # # # #
1. In primis concessisse Deo et hac presenti carta nostra confirmasse, pro
nobis et heredibus nostris in perpetuum quod Anglicana ecclesia libera sit,
et habeat jura sua integra, et libertates suas illesas; et ita volumus
observari; quod apparet ex eo quod libertatem electionum, que maxima et
magis necessaria reputatur Ecclesie Anglicane, mera et spontanea
voluntate, ante discordiam inter nos et barones nostros motam,
concessimus et carta nostra confirmavimus, et eam obtinuimus a domino
papa Innocentio tercio confirmari; quam et nos observabimus et ab
heredibus nostris in perpetuum bona fide volumus observari. Concessimus
eciam omnibus liberis hominibus regni nostri, pro nobis et heredibus nostri
in perpetuum, omnes libertates subscriptas, habendas et tenendas eis et
heredibus suis, de nobis et heredibus nostris.

まずは神に同意し、本憲章において次のことを確認する。われわれおよびわれら
が子孫のため、英国教会は永久に自由であり、おのれの十全たる法と不可侵の自
由をもつものとする。われわれはこれをもって次のことが明確となるよう、その
遵守を望むものである。われわれと諸侯との不和が生ずるに先立って、われわれ
が純粋かつ自発的な意志にもとづき、英国教会が最大限重んじ必要としている選
挙の自由を認め、本憲章をもって承認するとともに、教皇イノケンティウス3世
もこれを承認する。以上のことは、われらが子孫においても永遠に誠実に遵守さ
れるものとする。われわれは、われわれおよびわれらが永遠なる子孫のため、わ
れらが王国のあらゆる自由民に、以下に記すような、彼らおよびその子孫が有し
保持すべきすべての自由を、われわれおよびわれらが子孫の名において与えるも
のとする。

2. Si quis comitum vel baronum nostrorum, sive aliorum tenencium de nobis
in capite per servicium militare, mortuus fuerit, et cum decesserit heres
suus plene etatis fuerit et relevium debeat, habeat hereditatem suam per
antiquum relevium; scilicet heres vel heredes comitis de baronia comitis
integra per centum libras; heres vel heredes baronis de baronia per centum
libras (sic); heres vel heredes militis de feodo militis integro per centum
solidos ad plus; et qui minus debuerit minus det secundum antiquam
consuetudinem feodorum.

われらが伯爵ないし男爵、または軍役により要人としてのその他の地位にある者
が没し、その死に際して相続人が成年に達しており、相続上納金を支払う立場に
ある場合、その者は旧来の上納金を支払うことで相続をなすものとする。すなわ
ち、伯爵の位をすべて継承する一人もしくは複数の相続人は、100ポンドを支払
う。男爵の位を継承する一人もしくは複数の相続人は、(同様に)100ポンドを
支払う。封土の騎士の位をすべて継承する一人または服すの相続する騎士は、最
高で100シリングを支払う。それ以下の金額を支払う立場の者は、土地の古い封
建法の慣習に則り、かかる金額を支払うものとする。

3. Si autem heres alicujus talium fuerit infra etatem et fuerit in custodia,
cum ad etatem pervenerit, habeat hereditatem suam sine relevio et sine
fine.

ただし、かかる任意の相続人が未成年で、後見人の保護下にある場合は、その者
が成年に達した際に、上納金も罰金も課されることなく相続できるものとする。

4. Custos terre hujusmodi heredis qui infra etatem fuerit, non capiat de
terra heredis nisi racionabiles exitus, et racionabiles consuetudines, et
racionabilia servicia, et hoc sine destructione et vasto hominum vel rerum;
et si nos commiserimus custodiam alicujus talis terre vicecomiti vel alicui
alii qui de exitibus illius nobis respondere debeat, et ille destructionem de
custodia fecerit vel vastum, nos ab illo capiemus emendam, et terra
committatur duobus legalibus et discretis hominibus de feodo illo, qui de
exitibus respondeant nobis vel ei cui eos assignaverimus; et si dederimus
vel vendiderimus alicui custodiam alicujus talis terre, et ille destructionem
inde fecerit vel vastum, amittat ipsam custodiam, et tradatur duobus
legalibus et discretis hominibus de feodo illo qui similiter nobis respondeant
sicut predictum est.

かかる未成年の相続人の土地を管理する者は、適切な生産物、適切な使用物、適
切な奉仕分以外、相続人の土地から取得してはならず、また、その際に人的ない
し物的な破壊および荒廃を伴ってはならない。また、われわれがかかる土地の管
理を、地方の長官、もしくはその案件についてわれわれに対し責任を負う任意の
者に委ね、その者が管理物件の破壊もしくは荒廃をもたらした場合には、われわ
れはその者から賠償金を徴収し、土地はその封土について法的な資格を持った信
用に足る二人の人物に委ね、彼らがわれわれに対して、あるいはわれわれが指名
する人物に対して、その件の責任を負うものとする。かかる土地の管理権限をわ
れわれが任意の者に供与もしくは売却し、その者が管理物件の破壊もしくは荒廃
をもたらした場合には、その者の管理権限は無効とし、その封土について法的な
資格を持った信用に足る二人の人物に委ね、上述の通り、彼らがわれわれに対し
て責任を負うものとする。
# # # # # #

「失地王」ジョンは(在位1199~1216)は、プランタジネット朝の3代目にあ
たり、リチャード獅子心王の弟です。そのリチャードが亡くなった際、次兄ジョ
フロアの子アーサーとの間で王位継承問題に直面したジョンは、教会の助け(と
諸侯の支持)を得て王に即位します。ところがその後、カンタベリー大司教(英
国教会の長)が空位となった際、その後継者選出をめぐってジョンは教皇インノ
ケンティウス3世と対立する羽目になります。ジョンは破門となり、焦ったあげ
くに聖職者の財産を押収して国内の教会の反発を買ってしまいます。結局、教皇
がフランス軍に英国への侵攻を要請したことがきっかけとなって、ジョンは全面
降伏します。教皇の推すラングトンが大司教になり(1207年)、ジョンは教会
に対して損害賠償を払わされ、教皇に臣下の礼を取り、王国は教皇に献上された
形になってしまいます。

そんなわけですから、教皇は当然、このマグナ・カルタを無効としてはねつけま
す。英国の貴族側はさらに反発を強め、フランスに支援を求めるようになりま
す。1216年にはフィリップ尊厳王の息子ルイ(後のルイ8世)の軍隊が上陸
し、ロンドンに入ります。フランス側は、あわよくば英国の王位を奪おうとして
いました。こうして戦いが激化していく中で、ジョンは赤痢で死亡する……これ
がジョンの治世の大まかな流れですが、いずれにしても、最初の条項に英国教会
の自由が謳われてるのにはそういう背景があったのですね。よく見ると、ここで
言われているのはあくまで貴族側の「望み」です。実際のところ、11、12世紀
から熾烈な争いを繰り広げていたいわゆる教皇主義と世俗権力との対立関係は、
容易に解消できるものではありません。それでもなお、マグナ・カルタにおいて
英国教会の独立を明言せずにはいられなかったところに、教皇側の干渉政策の強
行ぶりと(インノケンティウス3世は、それまでで最高の権威を誇った教皇で
す)、なんとかそれを排除したい貴族たちの思惑が窺える感じです。

第2条からは相続についての規定です。英国ではノルマンコンクエスト以降、古
代ローマの貨幣単位だったリブラをポンドに、ソリドゥスをシリングに、デナリ
ウスをペニーに対応させています。古代の貨幣単位の名残は、貨幣の省略記号
(£など)に残っています。この相続に関する規定はもうちょっと先まで続きま
す。次回はそのあたりを読んでいきたいと思います。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は2月7日の予定です。
------------------------------------------------
(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)

投稿者 Masaki : January 26, 2004 07:02 AM