May 15, 2004

No.32

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.32 2004/05/08

------クロスオーバー-------------------------
春の歌合戦

学生の頃の知り合いが、フォーク系のライブ活動をやっています。単純に趣味と
いってしまって片づけられない、なかなか気合いの入った取り組みで、最近では
サイトを立ち上げ(http://f12.aaacafe.ne.jp/~hara/)、志を共有するお仲間
も増えているようです。なかなか興味深い取り組みです。フォークソングは、弾
き語りの形式や歌詞の内容(恋愛、反権力、揶揄など)からしても、中世のトル
バドゥールの遠い遠い子孫にあたることは明らかですが、そういえばトルバ
ドゥールもまた、いつしか一種の組合というか寄り合いのようなものを作ってい
くのでした。今はネットがそういう結びつきを作る媒体になりうるわけですが、
当時はなかなか大変だったのではないかと思います。

5月といえば花の季節ですが、フランス南西部のトゥールーズでは14世紀以降、
Jeux Florauxという催しが開かれてきました。直訳すると「花合戦」という感じ
です。文学コンクールという訳語が当てられていたりもしますが、当時の文学は
口承の文芸でしたから、競われるのは詩作(と雄弁術)で、それを楽器などに合
わせて歌うものでした。ですからその催しも、いわば「歌合戦」だったのです
ね。ワーグナーの「マイスタージンガー」あたりを思い浮かべればよいでしょ
う。

このコンクール、1323年の万聖節の後にトゥールーズのブルジョワ7人が修道
院の果樹園に集まったことに端を発します。7人はいずれも詩を愛するトルバ
ドゥール(一般には、詩作をするのがトルバドゥールで、演奏・曲芸を専門にこ
なすのがジョングルールだとされています)で、アルビジョア十字軍(南仏のカ
タリ派討伐のための十字軍)以後の宮廷文化の荒廃を憂慮し、なんとかその伝統
を救おうと、各地のトルバドゥール、トルヴェール、ミンストレルなどに呼びか
け、一大コンクールを開催することにしたのだといいます。こうして翌1324年
の5月3日、初のコンクールが開催されました。

当初、優勝者は金のスミレの造花をもらい、「悦ばしき知識団(Compagnie du
gai savoir)」のメンバーに加えられました。いわばトルバトゥールの職能集団
です。「悦ばしき知識」というとニーチェとかを連想する人も多いでしょうけれ
ど、もとはトルバドゥールたちが自分たちの詩作を表すために用いた言い方だっ
たのですね(神学などのように重苦しくない学問、ということだったようで
す)。後に、町の名家でラングドック地方の手工業の発展を願うカピトゥール家
によって、銀のキンセンカ、金の野バラの造花が賞品に加えられます。さらに時
代が下り1515年になると、優勝者らの会の名前は「花合戦団(Compagnie des
Jeux Floraux)」に変わり、1527年には、前の世紀にその会に多大な貢献をし
たクレマンス・イゾールを後見人として讃えるようになります。催しはその後一
端廃れていくのですが、従来オック語(南仏の言葉)で行われていた催しは、
1694年になってルイ14世の庇護下におかれフランス語で行われるようになり、
会の名称も「花合戦アカデミー(Accademie des Jeux Floraux)」と改めら
れ、息を吹き返します。後の時代にはユゴーやシャトーブリアンなども優勝して
いるのですね。一度廃止されたオック語でのエントリーも、1895年に復活して
います。

以上はhttp://www.toulouse-renaissance.net/lesjeux.htm(仏語)などの解説
をまとめてみたものですが、このようにJeux Florauxの変遷をざっと見渡しただ
けでも、意味合いや象徴、形式を変えながら維持されていく様子を思い描くこと
ができます。これに優勝するのは今でいうメジャーデビューだったのでしょう
か。いえいえ、だいぶ意味合いは違っただろうと思われますね。ユゴーやシャ
トーブリアンの頃はともかく、それ以前の時代においては、一種の職能集団とし
て、伝統の技を継承していくことがまずもって問題だったはずです。ネットが形
作る様々な有志たちの集まりも、あるいはそうした「芸能の伝達・継承」に一役
買っていくのかもしれません。ほんの小さな動きであっても、もしかしたらとて
も貴重な伝達の場になるかもしれません。その意味では、ネットで形作られてい
る様々なイニシアチブも、変化を重ねながら成長していってほしいものだと思い
ます。


------文献講読シリーズ-----------------------
「マグナ・カルタ」その9

このテキストもそろそろ大詰めです。今回は50条から55条までを見ていきま
しょう。

               # # # # # #
50. Nos amovebimus penitus de balliis parentes Gerardi de Athyes, quod
decetero nullam habeant balliam in Anglia, Engelardum de Cygony, Petrum
et Gionem et Andream de Cancellis, Gionem de Cygony, Galfridum de
Martinny et fratres ejus, Philippum Marc. et fratres ejus, et Galfridum
nepotem ejus, et totam sequelam eorundem.
51. Et statim post pacis reformacionem amovebimus de regno omnes
alienigenas milites, balistarios, servientes, stipendiarios, qui venerint cum
equis et armis ad nocumentum regni.

第50条:ジェラール・ド・アテの親族はその領地から移動させ、以下の者が今
後英国にいかなる領地も有さないようにする。アングラール・ド・シゴーニュ、
ピエール、ギ、アンドレ・ド・シャンソー、ギ・ド・シゴーニュ、ジョフレ・
ド・マルティニおよびその兄弟、フィリップ・マルクとその兄弟、およびその甥
のジョフレ、またそれらの血縁者のすべて。
第51条:平和が回復された後はすみやかに、外国出身の騎士、石弓の射手、そ
の従者、傭兵など、王国に害をなすべく馬および武器を携えて入国した者を追放
する。

52. Si quis fuerit disseisitus vel elongatus per nos sine legali judicio parium
suorum, de terris, castellis, libertatibus, vel jure suo, statim ea ei
restituemus; et si contencio super hoc orta fuerit, tunc inde fiat per
judicium viginti quinque baronum, de quibus fit mencio inferius in securitate
pacis. De omnibus autem illis de quibus aliquis disseisitus fuerit vel
elongatus sine legali judicio parium suorum, per Henricum regem patrem
nostrum vel per Ricardum regem fratrem nostrum, que in manu nostra
habemus, vel que alii tenent, que nos oporteat warantizare, respectum
habebimus usque ad communem terminum crucesignatorum; exceptis illis
de quibus placitum motum fuit vel inquisicio facta per preceptum nostrum,
ante suscepcionem crucis nostre : cum autem redierimus de
peregrinacione nostra, vel si forte remanserimus a peregrinacione nostra,
statim inde plenam justiciam exhibebimus.

第52条:同等の地位の者による司法の裁定を経ずに、任意の者が土地、城、特
権、権利を剥奪もしくは排除された場合、速やかにそれを回復するものとする。
これに関して係争が生じた場合、以下の安全条項に言及する25人の貴族により
判決を下す。同等の地位の者による司法の裁定を経ずに、わが父ヘンリー王また
はわが兄リチャード王により所有権を剥奪もしくは排除され、わが所有になって
いるか、もしくは他の者の所有となりわが担保物件としなくてはならないものの
場合、十字軍の通常の終了時まで猶予を得るものとする。ただし、訴えが起こさ
れた場合、あるいは十字軍の宣誓前にわが命令により審問に付された場合はその
限りではなく、わが遠征から帰国の後、あるいは場合により遠征を取りやめる場
合には、すみやかに十全なる司法手続きを取るものとする。

53. Eundem autem respectum habebimus et eodem modo de justicia
exhibenda, de forestis deafforestandis vel remanseris forestis quas
Henricus pater noster vel Ricardus frater noster afforestaverunt, et de
custodiis terrarum que sunt de alieno feodo, cujusmodi custodias hucusque
habuimus occasione feodi quod aliquis de nobis tenuit per servicium
militare, et de abbaciis que fundate fuerint in feodo alterius quam nostro, in
quibus dominus feodi dixerit se jus habere; et cum redierimus, vel si
remanserimus a peregrinatione nostra, super hiis conquerentibus plenam
justiciam statim exhibebimus.
54. Nullus capiatur nec imprisonetur propter appellum femine de morte
alterius quam viri sui.

第53条:同じ猶予と同じ司法手続きは、わが父ヘンリー王またはわが兄リ
チャード王が植林した森林の伐採ないし維持について、また、他の者の封土と
なっている土地で、その者がわれに対して兵役義務として所有していたがゆえに
これまでわが封土になっていたものの管理について、さらに、わが封土ではない
他の者の封土に建造された修道院で、封土の領主が権利を主張するものについて
も適用する。わが遠征から帰国の後、あるいは場合により遠征を取りやめる場
合、それらに関する訴えについてすみやかに十全なる司法手続きを取るものとす
る。
第54条:夫以外の者の死についての女性からの訴えにもとづき、いかなる者も
拘束ないし収監してはならない。

55. Omnes fines qui injuste et contra legem terre facti sunt nobiscum, et
omnia amerciamenta facta injuste et contra legem terre, omnino
condonentur, vel fiat inde per judicium viginti quinque baronum de quibus fit
mencio inferius in securitate pacis, vel per judicium majoris partis
eorundem, una cum predicto Stephano Cantuarensi archiepiscopo, si
interesse poterit, et aliis quos secum ad hoc vocare voluerit. Et si interesse
non poterit, nichilominus procedat negocium sine eo, ita quod, si aliquis vel
aliqui de predictis viginti quinque baronibus fuerint in simili querela,
amoveantur quantum ad hoc judicium, et alii loco eorum per residuos de
eisdem viginti quinque, tantum ad hoc faciendum electi et jurati
substituantur.

第55条:われに対して不正に、かつ土地の法に違反して科される違約金のいっ
さい、また、不正に、かつ土地の法に違反して科される罰金のいっさいは、すべ
て免除されるか、もしくは以下の安全条項に言及する25人の貴族により判決に
もとづき、あるいはその多数決での裁決にもとづき科すものとする。この後者の
場合、先に示したカンタベリー大司教ステファヌスが立ち会える場合には同者、
および同者が招集を望む他の者も裁決に立ち会い、同者が立ち会えない場合に
は、審議はそれ以外の者で行う。ただし25人の貴族のうち一人以上が同種の係
争に関与している場合、かかる裁決に関してはその者を外し、25人の残りの者
は代理を立てる。代理は、その裁決に限って選出され、宣誓した者とする。
               # # # # # #

51条では傭兵の追放を謳っています。そういえばメディアを騒がせているイラ
ク人捕虜虐待事件では、米国の「警備会社」が雇っている現代の傭兵の問題がク
ローズアップされています。傭兵といえば一番有名なのは中世末期のランツクネ
ヒト(ドイツの傭兵)ですが、ラインハルト・バウマン『ドイツ傭兵の文化史』
(菊池良夫訳、新評論)によると、中世盛期の12世紀ごろにはすでにその前身
であるような傭兵が相当数使われていたようで(神聖ローマ皇帝フリードリヒ1
世のイタリア遠征など)、1179年のラテラノ公会議では傭兵団を用いた戦闘を
事実上禁止する決定がなされているといいます。もちろん当時の傭兵は封建制の
主従関係の中で生きていたのですが、時代が下るにつれてそうした縛りから解放
されて本格化していくのですね。傭兵として戦闘に参加する者が放埒な振舞いを
するというイメージは早くからあったのでしょう。マグナ・カルタがそうした傭
兵を一掃しようとしていることは興味深いですね。

さて、マグナ・カルタも残すところあと約3回分です。そろそろ、この文書から
逆に浮かび上がる、貴族たちにとっての理想的な君主像といったものを考えてみ
なければなりません。教会との関係、貴族との関係、統治の形態などが主なポイ
ントになるかと思います。次回以降、そのあたりのことを復習も兼ねて検討して
みたいと思います。

投稿者 Masaki : May 15, 2004 07:14 AM