June 26, 2004

No.35

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.35 2004/06/19

------ミニ書評--------------------------------
『本棚の歴史』

映画版『薔薇の名前』の図書館のシーンでは、写本が鎖につながれて書見台に
のっているのが印象的でした。また、奥の迷路状の書庫には、本がいわゆる平積
み状態で置かれていたように記憶しています。あの映画の監修を手がけたのはフ
ランスの中世史家ジャック・ル・ゴフでしたが(原作にはない、修道院からまる
で残飯を捨てるように村人に物資を恵んでやるシーンとか、強烈なインパクがあ
りましたね)、実に細かく当時の書庫を再現していると評判でした。で、そのこ
とを改めて思わせてくれるのが、ヘンリー・ペトロスキー『本棚の歴史』(池田
栄一訳、白水社)です。書物史自体はすでに一定の認知を得ていると思います
が、それを置く本棚の方に着目したというのが、まずもって見事です。本棚の変
遷を追っていけば、必然的に書物がどう扱われてきたのかが浮かび上がってきま
す。そんなわけで本書は、書物の取り扱いの歴史にもなっています(ただちょっ
と記述がイギリスに偏りがちで、大陸の方の比重が小さいのは否めませんが…
…)。

面白いのは、今のように本の背を手前に向けて本棚に置く形が成立したのは17
世紀くらいからなのですね。それ以前は本の小口(開く側)を手前に向けて置い
ていましたし、さらにその前の写本時代は縦置きではなく、横置き、平積みにす
るのが一般的だったというのです。また本棚そのものの変遷も興味深いです。中
世の保管箱(ブックチェスト)はやがて、それを積み重ねた形の戸棚(アルマリ
ウム)になっていきますが、実は本棚の直接の祖先はこの戸棚ではなく、もう一
つの流れ、つまり書見台についた棚から発展したものではないかというのが本書
の基本線です。このあたり、実に刺激的な考察になっています。書見台の発展史
には、採光の問題もついて回ります。図書館などでの配置の変遷も、当然それに
絡んできます。

著者のヘンリー・ペドロスキーはいわゆる技術史家のようで、他にも鉛筆や様々
な日用品に関する歴史を負った著書があるようです。そんなわけでこの本も、書
籍や本棚の変遷をテクノロジーの進化として捉えています。その基本的スタンス
は、モノの形は素材、機能、経済性、用途などに関係する要因で規定されるもの
の、それを取り巻く社会的・文化的環境と不可分だ(第1章)、というもので、
両者のダイナミズムを総合的に理解しようとしています。単に形だけではなく、
その機能や用途も含めて考えていくこと。まさにそんな近年の技術史的アプロー
チのささやかながら確かな成果が、本書に認められるかもしれません。

○『本棚の歴史』
ヘンリー・ペドロスキー著、池田栄一訳
白水社、?3150、ISBN 4-560-02849-4


------文献講読シリーズ-----------------------
「マグナ・カルタ」その13

さていよいよマグナ・カルタの最終回です。今回は最後の部分、61条の末尾か
ら63条までを見てみます。

               # # # # # #
In omnibus autem que istis viginti quinque baronibus committuntur
exequenda, si forte ipsi viginti quinque presentes fuerint, et inter se super
re aliqua discordaverint, vel aliqui ex eis summoniti nolint vel nequeant
interesse, ratum habeatur et firmum quod major pars eorum qui presentes
fuerint providerit, vel preceperit ac si omnes viginti quinque in hoc
consensissent; et predicti viginti quinque jurent quod omnia antedicta
fideliter observabunt, et pro toto posse suo facient observari. Et nos nichil
impetrabimus ab aliquo, per nos nec per alium, per quod aliqua istarum
concessionum et libertatum revocetur vel minuatur; et, si aliquid tale
impetratum fuerit, irritum sit et inane et numquam eo utemur per nos nec
per alium.

これら25名の貴族に執行を委託されるあらゆる案件において、かかる25名が出
席したものの、それらの者の間でなんらかの事象について不和が生じた場合、ま
たは彼らのうちの任意の者が招集に応じることを望まない場合、もしくは出席で
きない場合、出席した者の多数をもって定める内容、もしくは命じる内容は、
25名全員が同意した場合と同様に有効かつ確たるものであると見なす。上述の
25名は、先に述べたいっさいを忠実に遵守し、可能な限り遵守させることを宣
誓する。また、われは自身および他の者を介して、かかる承認ならびに自由を撤
回もしくは制限するようなことを、任意の者に対して行うことはしない。かよう
な侵害がなされた場合には、それは無効であるとし、われ、もしくは他の者のた
めに、その侵害を利用することもない。

62. Et omnes malas voluntates, indignaciones, et rancores, ortos inter nos
et homines nostros, clericos et laicos, a tempore discordie, plene omnibus
remisimus et condonavimus. Preterea omnes transgressiones factas
occasione ejusdem discordie, a Pascha anno regni nostri sextodecimo
usque ad pacem reformatam, plene remisimus omnibus, clericis et laicis, et
quantum ad nos pertinet plene condonavimus. Et insuper fecimus eis fieri
litteras testimoniales patentes domini Stephani Cantuariensis archiepiscopi,
domini Henrici Dublinensis archiepiscopi, et episcoporum predictorum et
magistri Pandulfi, super securitate ista et concessionibus prefatis.

第62条:不和が生じた時点から、われとわが民、つまり聖職者および世俗の者
との間に生じたあらゆる悪意、倦厭、怨恨は、すべて完全に解消させ、許しを与
えた。わが治世の16年の復活祭から和平が回復するまで、かかる不和の際に行
われた、われが関係する違反行為のいっさいについては、聖職者および世俗の者
すべてについて、完全に解消させた。またこれに関し、カンタベリー大司教ス
ティーブン、ダブリンの大司教ヘンリー、上述の司教たちおよびパンダルフ師
に、上述内容の保証および承認について開封勅書を作成させた。

63. Quare volumus et firmiter precipimus quod Anglicana ecclesia libera sit
et quod homines in regno nostro habeant et teneant omnes prefatas
libertates, jura, et concessiones, bene et in pace, libere et quiete, plene et
integre, sibi et heredibus suis, de nobis et heredibus nostris, in omnibus
rebus et locis, in perpetuum, sicut predictum est. Juratum est autem tam
ex parte nostra quam ex parte baronum, quod hec omnia supradicta bona
fide et sine malo ingenio observabuntur. Testibus supradictis et multis aliis.
Data per manum nostram in prato quod vocatur Ronimed. inter
Windlesoram et Stanes, quinto decimo die junii, anno regni nostri decimo
septimo.

第63条:ゆえに、英国教会が自由であること、また、わが王国の民が上述のす
べての自由、権利、承認を、正しく、また平和、自由、平穏のうちに、十全かつ
完全に、おのれとその相続人のもとに、またわれとわが相続人のもとに、すべて
の事象ならび場所において永劫に、上述の通り保持することを、われは望み、ま
た断固として命じる。われ、ならびに貴族の双方は、かかる上述の内容のいっさ
いを、誠実に、また悪しき意図をもたずに遵守することを誓う。上述ならびに他
の多くの者をその証人とする。本状はウィンザーとステインズの間に位置するラ
ニミードと呼ばれる草原にて、わが治世17年の6月15日に作成された。
               # # # # # #

その後のマグナ・カルタの変遷をまとめておきましょう。マグナ・カルタが発布
された後、混乱の中でジョン王は没し、代わりに当時9歳だったヘンリー3世が
即位します。すると諸侯の中の代表格ベンブルック伯ウィリアム・マーシャルが
摂政となり、これで事態はいったん収まります。1216年11月にはマグナ・カル
タも一部を削除して(王にとって不利な条項など)再公布されます。フランスも
イングランドを去って、危機的状況に陥っていたアンジュー家は持ち直し、マグ
ナ・カルタも1217年に再々公布、1225年に3度目の公布となります。この
1225年の版が、後々裁判所で用いられるいわば決定版なのですね。以上は再び
城戸毅『マグナ・カルタの世紀』の一節の要約です。

同書はマグナ・カルタを、「全イングランド国民の権利を宣明したものとはいえ
ないまでも、自由人の共同体である王国共同体のために諸権利をかちとった文書
ではあったのであり、封建貴族上層部をこえるかなりのひろがりをもった社会的
基盤の上に立っていた」(p.78)と見ています。なるほどそれは諸侯らの財産
返却などをめざしたものではあったわけですが、王権への一定の制限を課すな
ど、そうした狭い特権階級の利害だけにとどまらない、より大きな動きの結節点
だったかもしれないというわけです。

とはいえ、ヘンリー3世も成人して一本立ちすると、ジョン王が失った領地の回
復を目指して遠征を重ねるようになりますが、これまた成果に乏しく、諸侯は再
び重税を課せられて不満がたまり、国政の改革要求を突きつけます。国王もそれ
を承認せざるを得なくなります。これが有名なオックスフォード条項ですね。ヘ
ンリー3世も先王ジョンと同様に、教皇にその解除を願い出たりしています。そ
んな中、シモン・ド・モンフォール率いる改革派が力を増し、保守派(王党派)
との対立が深まります。調停にあたったフランス王ルイ9世がオックスフォード
条項の無効を宣言し、かくして改革派と保守派は戦に突入してしまい、最終的に
は王の軍が勝利を収めます……このあたりの話、「歴史は繰り返す」をそのまま
地でいっている感じです。王権と貴族の力関係が、まるで振り子のように揺れて
いきます……。

それにしても法律文書(マグナ・カルタは厳密には法律文書ではないかもしれま
せんが)を読むのはやはり疲れました(苦笑)。イギリス社会史についての知識
の不備も加わって、お見苦しい限りの訳出でしたが、どうかお許しのほどを。次
回からは、再び大陸の方に戻って、ダンテ・アリギエリの『君主論』
(Monarchia)の第1巻を読んでみたいと思います。ダンテといえば『神曲』が
あまりに有名ですけれど、この君主論(『帝政論』とも言われます)の方も、ハ
インリヒ7世へのオマージュであるとともにイタリア統一の必要性を説いた著作
といわれ、ダンテの持つ斬新さが窺える作品だということです。3巻構成です
が、とりあえず1巻を読んでいくことにしたいと思います。どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : June 26, 2004 07:22 AM