2003年12月29日

ホッブズ……

後ればせながら、先月の『現代思想』(青土社)を読む。特集は「ホッブズ」。なぜ今ホッブズなのかというと、米国の「ネオコン」の論客ロバート・ケーガンという人物が、欧州と米国をそれぞれカントとホッブズという対立図式に仕立てて(単純化して)みせたからなのだとのこと。これに関連してカール・シュミットの『リヴァイアサン論』の仏訳や、その「カント的」側面の一端をなすものとしてハーバーマスとデリダの共同署名の文章(なんだか瓦解しつつある「知識人」の末裔が、強いヨーロッパを作ろうぜと時代遅れにアジっている風にも見えなくない(笑)……問題続出なんだけどね。市田良彦「亡霊の政治」が突きつける問いの数々を参照)が絡んだできたりして、そこそこの話題性があるということのようだ。ふーん、なるほどね……。ホッブズの現代的な読み直し自体は確かに興味深いものがあるけれど、米国の覇権問題へのアプローチとしては、ホッブズ(やカント)だけを特権化する必要はないわけで……。個人的にはせめてダンテ(の「帝政論」)くらいには遡って考えてみたい気がする……とはいえ、英国内乱史を論じたものだという『ビヒモス』とか読んでみたい。

投稿者 Masaki : 19:55

2003年12月27日

ロボットをめぐる感性……

この間公開されたソニーの「走るロボット」。こうしたヒューマノイド型ロボットを、西欧人はかなり気持ち悪く思っているらしい。23日付けのLe Mondeの記事がその話を取り上げている。この記事によると、西欧では、機械が人間の領域を脅かす存在になりえるという危機感が根強く、両者の関係が絶えず問いなされているのだという。そういう視点からすると、日本で機械が何の抵抗もなく受容されているのは異様に見えるというわけだ。で、その背景には宗教観(に根ざす文化的意識)の差もある、なんてお決まりの話になっていく……。けれどもこれはかなり単純化した見方というか、なんだかアリバイをこじつけた見方という気もしなくない。機械に対する反発と、ヒューマノイド型(動物型も含めて)のロボットに対する不安は、わけて考えるべきじゃないかと。

アイボはともかく、他のロボットの気持ち悪さは、むしろそれが自然界にある自走的なものの粗悪な模造品であるというあたりにありそうだ。このことから一種亡霊論的なパースべくティブが開かれる。本来あるものとは違う、それでいて表面にべっとりと既視感が張り付いているような一種異様なもの、まさにそれは「亡霊」的だ。西欧においてならそこに創造神話などのコノテーションも(あるいはイデオロギーも)まとわりつくだろう。まさに抑圧されているものの回帰。そういう意味で、ヒューマノイド型のロボットは「どこか怖い」ものであり続ける。もちろんロボットだけに、「人の手によって作られた」という意味が付与されているし、開発する側のデザイン的工夫などもあって、そうした異様さは相当薄められている。というか、薄めざるを得ないんでしょう、きっと。今後、ロボットの社会的な利用拡大の鍵になるのは、おそらくそうしたデザイン工学的な側面だ。余談だけれど、ロボット開発の進展や話題化と、経済その他の社会不安の高まりには、どこか相関関係があるようにも思えたり……うーん、ホンマか?(笑)

投稿者 Masaki : 20:11

2003年12月23日

神話としてのキリスト教

米国のテレビシリーズ『スタートレック』の第2シリーズ(TNG : The Next Generation)の中に、同一意識をもった戦闘集団ボーグの一人が補足された際、「個」の意識を芽生えさせて送り返すという話があった。だいぶ前に見たので、多少違っているかもしれないが、ピカード艦長は最初、その意識が芽生えたボーグを自分らの陣営に入れて教育(洗脳)しようとする。けれども連邦の法律で「介入」が禁じられているからとの建前で、個の芽生えたその一人を最終的に送り返すことにする。だがここでピカード艦長は、その個の意識がほころびとなってボーグの体制転覆が謀れるのではないかという魂胆を口にするのだ。そのボーグに自己意識を植え付けた段階で介入はすでになされているのに、まだ介入していないかのように振舞い、しかも自分たちの手を汚すのではないのだから、それで自分たちには責任がないと開き直る。これぞまさしく、いかにも「アメリカンジャスティスな」理屈だ。

この話を思い出したのは、バートン・L・マック『キリスト教という神話』(松田直成訳、青土社)を読んだから。キリスト教の成立を、神話の創造という観点から社会学的・民族学的に読み解こうとする論考で、メディオロジー的な一冊でもある。この中の一章で著者は、マルコの福音書が、古代ローマにおいて分離していた「聖潔」と「権威」という権力の二大要素を、当時のユダヤ人の状況を踏まえつつ新たに両者を結びつける形で(イエスにおいて)再解釈していったのではないかと読み解いている。そしてこの聖潔と権威を併せ持つ英雄観こそが、アメリカのヒロイズムにまで通底するのだと論じている。そこで引き合いに出されたのが、そう、『スタートレック』なのだ。

この著者は、キリスト教への社会学的・民族学的アプローチが「敬虔な」信者の反感を買う様にも言及し、キリスト教の神話が再創造されていくだけでは、社会正義の実現には不十分であると論じている。それはある種の保守主義を復活させ、第二次大戦後になされた社会正義の試みすら撤回させうるとの警鐘を鳴らしている。なるほど『スタートレック』もイデオロギー的には全然無害ではない。なにせアメリカンジャスティス(それはきわめてネオリベラルだ)が全宇宙を制覇しようとしているんだからね。

022895940000S.jpg

投稿者 Masaki : 23:15

2003年12月20日

税制……

制度の疲弊は今や先進国の定番……それが顕著に表れるのが各国の税制改革だ。フランスでは今年の春から夏にかけて大きな反対運動が起こったが、ドイツもずいぶんもめた末に、失業給付、生活保護などの支出を抑え、減税幅も圧縮するという改革案が可決。どこも事情は似たり寄ったりか。そんな中、『別冊環 -7 税とは何か』(藤原書店、2003)が出ている。特集の冒頭を飾る神野直彦氏のインタビューでは、日本の制度的ねじれが指摘されている(予算と無関係に施行される税法、「小さい政府」へと傾斜するのに課税は逆進的、そもそも所得階層別の負担率が示されない議論などなど)。日本の場合、ボトムアップで社会的負担を共有するという発想が育まれていないため、いきなり国からトップダウン的に徴収されて「損をしている」という感覚しか覚えない、自分たちで税を決めるのだという発想もない、ということか。

特集の中にはヘーゲルの税の考え方をまとめた小論(高柳良治)や、アリストテレスの税思想のコラム(岩田靖夫)などもあって、西欧の流れの根源に、共通善への奉仕を有徳の行為と見なす伝統があることが改めてわかる。さらに興味深いのは、イスラムの伝統における税についての論考(黒田美代子)だ。国家を経ないローカルな機構を介して受給者(生活に困った人々など)に分配されるザカートなる一種の「税」が紹介されている。まさに制度の核の部分にボトムアップの発想があるということだ。寄稿者たちが示唆するように、日本の将来の税制が立ち行くためには、これから先何十年かかってもいいから、そうしたボトムアップの発想から見直さないといけないかもしれない……。

投稿者 Masaki : 19:06

2003年12月17日

メディア話と韓国

先の感謝祭にイラクを訪れた米大統領も、思わず「本物かいな」と思っていたら、本人はともかく、手に持っていた七面鳥がフェイクだったという話が後になって報じられた。今回のフセイン逮捕も、どこか同じような「演出」が匂ってくる……。替え玉ではないかとか、この支持率低迷へのてこ入れのタイミングのよさ、などなど。なるほどメディアは疑うべきだが、疑い出すとキリがない。テレビの画面はますます白々しくなり(デジタル放送によっていっそう仮想性が鮮明化するかも)、そうなるとますます距離を置くようになる。その先に待っているのは冷たい無関心だ。自衛隊派遣やら年金改革やらへの反対運動が起きない要因の一つはそういうところにあるのかも。前のアーティクルとの関連でいうと、まさに「すべてが小津映画になる」という感じ……。

上の七面鳥フェイク話、今検索すると、韓国の中央日報の日本語記事が引っかかった。そういえば韓国は、メディオロジーなども含めメディア社会学系(広い意味での)書籍の翻訳が日本に先んじている、といった話も耳にする。封建的な部分もまだ色濃く残っているというが、一方で日本のようにメディア的に毒されていない分だけ、社会運動系のパワーもあるような印象を受ける。新旧の価値観の狭間を豊かに生きていこうとしている、というのは理想化した捉え方だろうか。最近ビデオで見た映画「猟奇的な彼女」が、日本ではもうやらない(やれない)ような古典的なギャク連発の前半と、どこかカラックスあたりのフランス映画に通じる詩的な後半を併せ持っていたように……。

投稿者 Masaki : 17:48 | コメント (0)

2003年12月12日

小津映画

今年は小津安二郎の没後40年だということで、特集上映やらテレビ放映やら(衛星放送)。ご多分に漏れず、学生の頃ほぼ全作を見たっけなあ。誕生日と命日が一緒という円環的人生からして神話的だが、どうも当時は、極端な感情移入(「東京物語」でもらい泣きとか)か、斜に構えて見る(構図がどうのこうのとか)くらいのことしかできず、そこに描かれる社会的なもの(家族関係、制度的思考)などを捉えることなど邪道だと思っていた。けれど考えてみれば、それだって立派な映画の見方だ。たとえば人物類型。後期の小津映画に登場する都会人たちは、皆異様に淡泊で、下手をすると生きていないようにすら見える。彼らが固執するのは「言葉」(異様に繰り返されるセリフ回し)だけで、それを弄ぶことをアリバイにし、自分たちの置かれた境遇には、ほとんど働きかけることがないかのようだ。結婚を諭される娘、同僚からつつかれる父親などなど、彼らは皆ある種の社会的な固定観念をひたすら甘受するだけだ。

なるほどそれはある種生活に根ざした処世術であり美学でもあるだろうけれど、「風の中の雌鳥」の修羅場や「一人息子」が見せる唐突な隣人愛など、社会通念に突如開けられる風穴は、もはや均質な人工色の幕に覆われてふさがれてしまっているかのようだ。自衛隊派兵や年金改革など、社会が流れにまかせて変化しつつある今、小津映画を見直す理由は、ノスタルジーや美学の再認識ではなくて、むしろそうした「塞がれてしまって見えてこないもの」を発見するためであってほしい気がする。実は小津映画は、ずいぶんと暴力的な(社会的暴力という意味での)映画じゃないのかしら?

投稿者 Masaki : 11:05

2003年12月09日

狭間のタレス

著作ごとに刺激的な論が展開される瀬戸一夫氏の論考。その最新刊『知識と時間』(勁草書房、2003)を読む。これまでの中世から今度は古代ギリシアへと遡行し、取り上げるのはタレスとアナクシマンドロスだ。この両者を、旧来の神話的思考から別の論理(科学の萌芽)への橋渡しをしたと位置づけるのが議論の中核をなしている。タレスといえば、教科書的には「万物の根源を水とみた」人物ということになっているが、近東の創世神話ではそういう考え方は珍しいものではなかったと著者は指摘している。タレスは元来、土木技師のようなこともしていたと言われるが、本書ではナイルの氾濫を目にしたことにより、そうした創世神話を批判的に検討したのではないか、との興味深い指摘がなされている。それに続く後半では、弟子アナクシマンドロスの宇宙論を、様々な神話体系の「あいだ」の関係性として読み解いていくが、どこかこの再構成にはどこかアナクロニスム的な雰囲気が漂っている気もしなくない……うーん、参考文献などが示されていないのも、ちょっとなあ。いずれにしても、「狭間での思考」を描き出そうというのは、やはり刺激的な視点ではある。

投稿者 Masaki : 14:25

2003年12月06日

情報社会サミット

先週はイタリアで、いわゆるガスパリ法案(legge Gasparri)が上院を通過。正式には「テレビ・ラジオ制度再均衡法案」というのだそうで、これまでは禁止されていた同一人によるテレビと新聞との所有を可能にするなどの緩和策を定めたもの。要はベルルスコーニの経営するグループをいっそう優遇しようというものだ(これについては、例えば国際経済ウォッチングのページを参照のこと)。折しも来週は、情報分野での初の国連サミットだという世界情報社会サミット(英語名はWSIS: World Summit on the Information Society、仏語名はSMSI : sommet mondial sur la société de l'information)が開催される。場所はジュネーヴ。情報化社会の今後の規制をめぐり、この会議はきわめて重要だとされている。国際機関や民間企業のほか、市民団体などの参加も予定されており、当然ながら、ガスパリ法などの規制緩和への批判も当然出てくるだろう。そうした緊張感あふれる場であるにもかかわず、悲しいかな日本のオフィシャルな対応はまたしてもズレまくっている。総務省のこちらのページなど、NHKの女性アナウンサーを親善大使として選出し、サミット関連イベントで技術を売り込むみたいなことしか考えていない。うーん、サミットはお祭りでしかないという感覚が、これほどまでに蔓延しているのはどうしてなのだろう?

ガスパリ法案についてのイタリアの報道を拾っておこう。

Corriere della Seraの記事から:
"ROMA - La legge Gasparri è passata in Senato. Ed è stata un successo per la maggioranza, che ha superato indenne il voto segreto e un paio di mancanze del numero legale. Il bilancio finale è di 155 voti a favore e 128 contrari. Ora passa al Capo dello Stato, che ha trenta giorni per apporre la firma definitiva e dare così il via alla pubblicazione sulla Gazzetta Ufficiale e all'entrata effettiva in vigore."



投稿者 Masaki : 23:06

2003年12月04日

アイデンティティとナラティブ

最近刊行されたサイードの『フロイトと非・ヨーロッパ人』(長原豊訳、平凡社) を読む。モーセがエジプト人だったのではないかという『モーセと一神教』でのフロイトの仮説を、サイードはアイデンティティをめぐる緊張関係として読みとる。後にイスラエル国家という形を取ることになるユダヤ人のアイデンティティ強化策への意義申し立てとして、フロイトが「非・ヨーロッパ的過去を動員」してみせたのではないか、フロイトはそうした本来のアイデンティティとは別の、「国民的」に誇張されるアイデンティティの危険性を嗅ぎ取っていたのではないか、というわけだ。うーん、なんて刺激的な読み方だろう。そうした視座の設定は、ユダヤ人問題だけにとどまらない。安易に「単一民族」を振り回す日本の状況についても、当然応用されてしかるべきだろうし。「国民的」なナラティブに疑いの目を向けよ、ということだ。

中東の真の問題が、そういうナラティブにあるということを示唆して、サイードはこうも語っている。「一九九三年以来、オスロ会議によって構想されてきた分割が互いに競い合うナショナルな物語(ナラティブ)間の抗争を除去することはありませんでした。むしろそれは、一方の側と他方の側との両立不能性を際立ててしまい、その結果、喪失感が増大し、不平の種の一覧表をさらに長いものに変えてしまったのです」(p.67)。和解へと至る道の端緒には、そうしたナラティブの解体・脱構築がなくてはならないということか。先のジュネーヴ合意では、まだそこにまでは至れない感じもするのだが……。

投稿者 Masaki : 22:18

2003年12月02日

中東の希望の光?

イスラエルとパレスチナの非公式メンバーの協議として進められてたいたジュネーヴ協定が正式に発表された。双方に大きな譲歩を求める「痛み分け」を中心とする、ある意味で画期的な内容だが、Le Mondeによれば、イスラエル国民は3割程度しか支持していないのだそうだ。実際、この協定をあざ笑うかのように、イスラエルは武力による介入を続けている……。双方の身内陣営の無理解という図式は、かつて13世紀のフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)がアイユーブ朝カーミルと交わしたエルサレム共同統治条約にも見られたものだ。その一時的成功については語られても、その最終的な失敗の過程というのはあまり議論されていない気がする。例えばNHKが放送している「文明の道」シリーズもそうだし、フランスでまとめられたシンポジウムの記録("Frédéric II et l'héritage normand de Sicile", Presse universitaire de Caen, 2000)を見てもそんな感じだ(やはりドイツやイタリアの研究に当たらないといけないが)。最近は失敗学なんてのも提唱されているけれど、歴史上の「失敗」を追うというのは重要なスタンスであるような気がする。

投稿者 Masaki : 22:17

2003年12月01日

国益って?

スペインの情報局員が殺害され、日本大使館の職員も……イラクの治安悪化は確実だというのに、政府は派兵の意向を見直さないのだという。表向きはテロに怯まない、屈しないという態度を見せるという趣向だが、一方でこれを機に監視社会・管理社会をさらに強化しようという話も出てくるだろう。テロが起こりにくい土壌を作るのではなくて、対処療法的にテロに対応しようというわけだからだ。そしてこれからもテロは確実に起こるだろう。それでも「国益」が派兵推進議論のために振り回されるのか?「共通善」や「一般的利益」と「国益」と称されるもの(それはどう定義されるのか?)とが対立しても?まさしく暴政のスパイラルだ……。不謹慎ないい方をすれば、今回の事件について、きっと一部の政治家は待ってましたといわんばかりだろうし、官僚はおそらく責任問題が及ぶのをひたすら避けようとするだけだろう。ニュースの記者が連発する「外務省に激震が走った」型のコメントを聴くたびに、そんな連中のことを想像してしまう。いま一度、共通善や一般的利益の考え方から「国益」のオルタナティブを検討しないと。

投稿者 Masaki : 22:15