2004年03月27日

暴力の流出

とある書店で、ケータイ小説のベストセラー『世界の中心で、愛を叫ぶ』の横に、『世界の中心で愛を叫んだけもの』(ハヤカワ文庫)が並んでいるのを見かけた(笑)。片山恭一の前者はどんな内容なのか知らんけど、後者はハーラン・エリスンのSF。『エヴァンゲリオン』が流行った当時はそのリファレンスとして平積みで売られていたっけ……今回のこの置き方、間違えて買わせようという魂胆か、はたまた「こっちも読めよ」という本屋の店主の心意気か……?

今見ると、1968年のこの表題の短編、別世界の中心部からSF的な仕掛けを通じて悪が流れ込んでくるというのが基本的なアイデアで、しかもその流出の中心部は、こちらの側がらすればいたるところにあるように見える……なんだかこれ、現代のテロの構図をあざやかに先取りしていたようにも見える。例えば中東のテロが繰り出されるその流出の中心は、偏狭な復讐心などではなく、中沢新一言うところの、「圧倒的非対象」(『緑の資本論』)の落差を一挙に短絡させる「贈与」の一撃なのか……ということを改めて思わせてくれる。表題作だけにとどまらないエリスン作品に描かれる根源的悪の諸相は、今の文脈で再考すべき問題ばかりだ。

投稿者 Masaki : 16:02

2004年03月22日

基礎情報学

西垣通氏の新刊『基礎情報学』(NTT出版)の刊行記念ということで行われた同氏の講演会を聞く(昨日)。著書の方はまだ読んでいないのだが、この「情報学」、生物が外界とインタラクションを行う際に生じる「意味作用」と「情報」と捉え、その様態を生物の個体から社会にいたるまで考察する学問ということのよう。なんとも遠大なプロジェクトだ。

で、この話「情報処理」を聞いて即座に連想したのは、このところ読んでいる13世紀のロジャー・ベーコンの形象の増殖理論(Scriptorium 1を参照)。人間を中心として見ず、世界がそのインタラクションの所作であるような思想の体系は、まずはライプニッツあたりに遡及できそうだけれど、さらにその前にはロジャー・ベーコンがあり、さらにはより広く神秘主義の系譜がある。上の「情報学」がどう発展・深化していくのかわからないけれど、意外とこれも西欧のある思想の潮流を引き継いでいそうで、系譜学的なアプローチもありうるかもしれないなあ、と。

投稿者 Masaki : 08:15

2004年03月18日

メシア性?

久々にデリダの著書を読む。『マルクスと息子たち』(國分功一郎訳、岩波書店)。『マルクスの亡霊たち』("Spectres de Marx", Galilée, 1993) に寄せられた反論にデリダが答えるというもの。『マルクスの亡霊たち』を読んだのはずいぶん前だけど、ハムレットを導きの糸に、イデオロギーの継承を亡霊の「憑依」(『……息子たち』ではオントロジーの音の両価性を表すため「憑在」の訳語が使われている)に結びつけて論じているところがとりわけ興味深かった。マルクス主義は来るべき革命を「必然」としながらも、そのために「行動」を起こすことを提唱する行為遂行的な言い方を用いる。そう、イデオロギーはこのように、来るべき未来としての青写真であると同時に自己成就型の予言でもあるような構造をもっていて、それがまさに亡霊とその憑依になぞらえられる、というわけだ。そしてまた、そのどっちつかずの状況、亀裂にこそ、メシア性が宿っている……。

別のblog「古楽蒐集日誌」の方にも記しておいたけれども、先にテレビで放映していた「タウリスのイフィゲニア」では、オレステスが自分と家族の亡霊から解放されるのは、亡霊化していたはずの姉が現実世界に現れ、いわば亡霊の「世界の関節を外」したためだ。オレステスは本当に解放されたのか?発端としての姉の死は破綻しても、その他の者も死は?姉はオレステスにとって「生きていた」と言えるのか?……などなど、そのあたりの微妙などっちつかずを残したまま、なおも姉は弟に対して現前する。救いとして?ここにはまた、別の読みへの通路が開かれている気も……(?)。

投稿者 Masaki : 23:41

2004年03月13日

3.11

ここの姉妹blog、EDITO !の方でもまとめたけれど、マドリードで起きたテロは、首謀者が誰であれ、もはや国家体制の転覆を狙ったものでもなく、一種の愉快犯と化している気配が濃厚。テロの「アルカイダ化」という表現で示されているのは、アルカイダがすでにしてそういう愉快犯化、テロの自己目的化のモデルになったということ。その先にあるのは殺伐とした世界だけか。けれどもわずかな光明があるとすれば、それはスペイン各地で行われた大規模な反テロのデモだ。これはもう一つのモデル、たとえささやかでも、市民がテロに抵抗するためのモデルかもしれない。誰もテロリストに手をかさない、テロ行為が意味をなさない、という姿勢が世界化したら、アルカイダ化したテロの「痛快さ」を殺ぐには、国の警察力による取締り強化よりも大きな効果をもたらすのではないか……と。

ル・モンド・ディプロマティックの3月号に掲載されている編集長券社長のイグナシオ・ラモネによる巻頭言「アンチテロリズム」は、テロ対策として各国が強いている抑圧的政治体制が、経済、社会、文化といった基本的な権利を侵害する事態を懸念しつつ締めくくられている。それは民主主義の自殺行為になるのではないか、というわけだが、だからこそ、テロに対しても別の抗い方、別の囲み方がなければ、と思うのだ。

投稿者 Masaki : 21:47

2004年03月08日

メディア論の源流

最近ようやくノルベルト・ボルツの『グーテンベルグの銀河系の終焉』("Am Ende der Gutenberg Galaxis", Wilhelm Fink Verlag, 1993)を読了する。広い意味でのコミュニケーションの変容を、近代の文芸、思想などの変遷を通じて描き出すという感じの一冊。システム論を軸にポストモダン系の思想やコンピュータサイエンス系の取り組みを検討していくあたり、ま、あくまで俯瞰図を提示しているにすぎない感じなのに、個々の言及は妙に挑発的だったりして面白い……というか艶めかしいというか。どこか魔術的ともいうべき妙な怪しさが感じられるんでないの?

怪しいといえばマーシャル&エリック・マクルーハン『メディアの法則』(中澤豊訳、NTT出版)もなかなか怪しくてよいよね(笑)。まさに魔術的なその始源を、真っ向から継承しているという感じだ。邦訳版では高山宏が序文を書いているほど。そう、メディア論・技術論ももとをたどっていけば、そういう魔術的系譜に至る。こうして見ると、技術史的なイエズス会の問題(ジャック・ペリオーの『利用法の論理』("Logique de l'usage", flammarion, 1992)などに詳しいが)も、さらにそのさらに前のスコラ学の系譜へも、遡及していかなくてはならないことが改めてわかる。うん、社会学的な「メディア論」もまあ大事といえば大事かもしれないが、そういう広大な背景世界に向かっていく方がはるかに面白いぞよ。

投稿者 Masaki : 23:49