「オリヴィ研」カテゴリーアーカイブ

オリヴィによる「悪」の問題

昨年の今頃(正確には一昨年の12月)、目標の一つとして掲げていたものの、あまり時間が取れずに先延ばしになっているのが、メディアヴィラのリカルドゥス(13世紀末)を読んでいくこと。今年はもう少し精力的に取り組みたいところだ。そんなわけで、まずは悪の問題(もしくは悪魔論)、すなわちフランスで出ている校注本の第4巻に注目したいと思っているのだけれど、その校注者(アラン・ブーローとリュック・フェリエ)の序文に、悪魔に関する13世紀末ごろの神学上の議論はことのほか少なく(正面切って論じたものは、リカルドゥスのほかにはトマス・アクィナス、ペトルス・ヨハネス・オリヴィの議論くらいしかないという(!))、わけてもオリヴィのものが独特で際立っているということが記されていた。なので、いったんそちらへと迂回してみることに。

Traite Des Demons: Summa, II Questions 40-48 (Bibliotheque Scolastique)そちらも同じ叢書から校注・対訳本が出ている。アラン・ブーロー校注・訳のペトルス・ヨハネス・オリヴィ『悪魔論ーースンマ第二巻問題40から48』(Pierre de Jean Olivi, Traité des démons: Summa, II Questions 40-48 (Bibliothèque scolastique), éd. Alain Boureau, Paris, Les Belles Lettres, 2011)がそれ。概要を記した同書の序文によれば、オリヴィの論の特徴は、(1)アンセルムス的な、悪の存在論的不在を否定し、(2)悪を自由のもう一つの面であると規定し(スコトゥスの先駆)、(3)悪魔の失墜を終末論的図式から解釈して人間による未来の行為の可能性を開き、(4)理性をもった被造物(人間、天使、悪魔)を、地位として近く、変動的な存在と位置づけていることにあるという。

さしあたり個人的に興味深いのは(2)の側面で、これは問題41「堕罪の可能性は私たちの自由の一部をなしているか」で扱われている。オリヴィの見解によると、堕罪の可能性には受動的なものと能動的なものとがあり、それを受動的なものとのみ見なすならば、人間には厳密な意味での自由がないし、一方で能動的・恣意的自由のみを自由と見なすならば、堕罪の可能性は自由には含まれない。ところが人間の自由とはこの二つの複合なので、堕罪の可能性は自由の一部をなしている。そこには、実体的(本来的)自由には属さない、罪を犯す偶有的な性向が付随するのだ、と……。本来的自由とは神の有する自由であって、そこにはなんら制約はないだろう。しかしながら創造された自由(被造物の自由)は、そうした不完全な制約がつきまとう。善の欠如・不在で考える以上に、悪の問題は大きなものであることを、オリヴィはたしかに見据えているように見える。

ヴィエンヌ公会議とフランシスコ会系論者たち

55065『霊魂論と他の諸学、学際的相互作用の一事例』(Psychology and the Other Disciplines: A Case of Cross-disciplinary Interaction (1250-1750) (History of Science and Medicine Library: Medieval and Early Modern Science, 19), J. M. Bakker et al., Brill, 2012 )という論集から、ウィリアム・ドゥーバ「ヴィエンヌ公会議以後の霊魂論:複数形相説と複数霊魂説についてのフランシスコ会系神学者の見解」(William Duba, The Souls after Vienne: Franciscan Theologians’ View on the Plurality of Forms and the Plurality of Souls, CA 1315-1330)というやや長めの論考にざっと目を通してみた。ロバート・パスナウが『形而上学的テーマ』で示したテーゼを受けて、14世紀のフランシスコ会派の論者たちによる、複数形相説をめぐる様々な異同をまとめてみせるという意欲作。ヴィエンヌ公会議(1311年)はテンプル騎士団がらみの裁定が有名だけれど、一方で「知的魂そのものが基本的に肉体の形相をなしている」ということも宣言していて、名指しこそしないまでも、ペトルス・ヨハネス・オリヴィの見解が事実上糾弾されている。オリヴィの見解は、知的魂は肉体の形相ではありえず(直接結びついてはおらず)、それは感覚的魂を通じて肉体と結びついている、というものだった。パスナウは、この公会議での決定は重大な影響を与え、フランシスコ会派のその後の論者たちを一様の見解へと向かわせ、アリストテレスの形而上学的推論への疑問を発することを妨げたと見ている。けれどもドゥーバは同論考で、公会議とほぼ同時代の14世紀前半の論者たちの見解を再考し、そこに基本は一様ながら多様なニュアンスの差を見出している(しかもその一様な部分も、外部の圧力というよりはパリ大学関係者たちの共通の講義内容を産出しようとする努力だったと見る)。

個別の議論は煩雑になるので割愛するが(少し詳しい紹介がこちらのブログ(「オシテオサレテ」)にある)、結論部のまとめを見ると、論文著者は大きく三つの流れを分けている。一つめはニューキャッスルのヒュー、メロンヌのフランソワ、ガルダのヒンベルトの一団で、基本的に複数の魂が、これまた複数の形相から成る肉体に与えられているという立場を取る。二つめは、ランドルフォ・カラッチオロ、マルキアのフランチェスコ、ゲラルドゥス・オドニスらで、肉体に宿るのは単一の知的魂だが、肉体のほうは別の形相と質料からなる複合体と見る立場。三つめはペトルス・アウレオリの、知的魂を特殊な形相と見る立場とされる(アウレオリは公会議前後で多少とも見解を変えているらしい)。最初の二つはドゥンス・スコトゥスの複数形相説が出発点をなしていて、前者は複数の部分的な形相の議論、後者は実体的形相が連続的に階層をなすという議論に力点を置いているのだとか。個人的に興味深いのは、著者が論考内のいくつかの箇所で取り上げている、スコトゥスによるゲント(ガン)のヘンリクスへの批判。ヘンリクスは知的魂とそれ自体実体をなす(形相と質料から成る)肉体といういわば二形論を取り、スコトゥスのほかその弟子筋のニューキャッスルのヒューなどがそれを批判している。ヘンリクスが二形性を論じるのは、知的魂には空間的な延長(広がり)がなく、一方で肉体は空間的延長を必要とするといった理由によるといい、スコトゥスは知的魂が機能として含む感覚的・植物的魂が空間的延長を担っているとして、肉体固有の(別の)形相は不要だとしているのだという。マルキアのフランチェスコなどもその議論をさらに敷衍し、たとえば感覚的魂も空間的延長をもたないと論じているのだとか。とはいえ、同フランチェスコやゲラルドゥス・オドニスなどはニ形論的な立場を取っていたりもするようで、このあたりはやはり微細な差異がとても興味深い。ぜひ確認を取ってみたいところだ。

オリヴィの商業契約論

Pierre De Jean Olivi: Traite Des Contrats (Bibliotheque Scolastique)久々にペトルス・ヨハネス・オリヴィのテキストを眺めている。少し前に出ている、シルヴァン・ピロンによる羅仏対訳本の『契約論(tractatus de contractibus)』(Pierre De Jean Olivi: Traite Des Contrats (Bibliotheque Scolastique), trad. Sylvain Piron, Les Belles Lettres, 2012)。同書の解説によれば、『契約論』はオリヴィの著作としては最後期(1296年ごろ?)に書かれたものではないかということだが、これまたどこか時代に対して先進的な印象で、なかなか面白い。まだ第一部の売買契約についての議論を見ただけだけれど、価格の決定がいかになされるべきかを正面切って論じていて、価格の本質が使用価値にあることや(8節)、その価値が稀少性によって高まること(10節)などをするどく指摘してみせる。一方でその価格決定が共通善に照らして評価されるべきことをも主張し(24節)、つまりは市民社会がその評価をするべき立場にあることも指摘している(26節)。このあたりのバランスは個々のケースによるようで、物資が不足するような事態において売り手がその物資の価格を上げるような場合については、それが共通善に反する(高利をなすなど)のであれば認められないとしているけれど、一方で学問のために高値で買った書物が後に値が下がったものの、当初の価格で転売したいと考える場合や、買い手がつかないために家屋を評価額よりも安く売るような場合については、(社会的な)評価額を逸脱しても不正とは見なされないとしている。全体としての理念(共通善に即した適性価格の考え方)を貫きつつも、オリヴィの考察はなにやら時にとても具体的かつ実利的なものに思える。そういうしなやかさが、ここでもまた印象的だ。

天使論の二つの流れ

以前読んだオリヴィ論がなかなか面白かったシルヴァン・ピロンの「天上の位階を脱プラトン化する:オリヴィによる偽ディオニュシオス解釈」(Sylvain Piron, Deplatonising the Celestial Hierarchy.- Peter John Olivi’s interpretation of the Pseudo-Dionysius, in Angels in Medieval Philosophy Inquiry. Their Function and Significance, Isabel Iribarren, Martin Lenz (Ed.) (2008) 29-44)という論文が、ほんの数日前に紹介されていたのでさっそく目を通してみる。一般に西欧中世での天使像というのは、ギリシア=アラビア系の哲学的伝統とユダヤ=キリスト教の啓示とが混じり合って形成されているといわれる。つまり、前者は天使を知的な実体として描き出すのに対し、後者は霊的な被造物とし、地上世界の出来事に干渉すると考えている。で、両者は安寧に融合しているわけではなく、一種独特の緊張状態を保っているとされる。そもそもそうした異質なもの同士が同じ「天使」の名に収まっていること自体が奇妙な感じもするが(笑)、いずれにせよその対立関係は、中世盛期においても何人かの論者たちの議論の中で強調されていたのだという。で、その一人がペトルス・ヨハネス・オリヴィだというわけだ。

13世紀において、たとえばトマスなどは天使を離在的な知性として取り上げている(天使についての古来の知識は、信仰に反しない限り受け入れるという立場)。けれども、オリヴィはこれを、神学的議論の中でギリシア哲学が濫用され、神と人間との仲介役が無意味に複数化する事態だと見なし、黙っていられなかったらしい。これはちょうど、タンピエの1277年の禁令の批判的立場ともパラレルなのだけれど、興味深いのは、まったく立場を異にするアルベルトゥス・マグナスが、同じように天使を離在的知性と同一することに否定的だった点。もちろんオリヴィとアルベルトゥスでは哲学の捉え方などはまったく異なり、アルベルトゥスは哲学の独立性を守るために天使と知性とを区別したのに対し、オリヴィのほうは聖書的な天使の記述の純度を高めることに腐心していた……。

で、オリヴィにはそうした立場からの偽ディオニュシオス(アレオパギテス)『天上位階論』への注釈書があり、同論考はこれについていくつかのポイントを挙げて詳述していく。オリヴィは全体として、天上位階論をあくまで神学の書として扱い(自然哲学の書ではなく)、天使の位階を神と人との間に横たわる溝を埋める知性や霊的存在の階層と考えるのではなく、むしろ恩寵の配分の位階なのだと解釈する。面白いのは、その解釈においては天使と人間の魂は厳密にはほぼ同等だというオリヴィの考え。天使は神と人とを仲介(新プラトン主義的に)するのではなく、真の仲介者はキリストただ一人だとして、天使はむしろその最上の魂(キリスト)によって新たな神性を纏うのだとされる。論文の表題に言う「脱プラトン化」というのはそのあたりの話。異教的な議論を純化すべく捌いていくオリヴィの奮闘振りが、参照される断片からも伝わってくる感じがする。

フランシスコ会とストア派

オリヴィ関連の論文として、メルマガのほうで何回か取り上げる予定のトロイヴァネン「動物の意識:感覚的魂の認識機能についてのオリヴィ」(Juhana Troivanen, “Animal consciousness: Peter Olivi on cognitive functions of the sensitive soul”, Jyväskylä University, 2009 →PDF)。これの序文によると(メルマガの繰り返しになるけれど)、オリヴィの知覚・認識論でひときわ特徴的なのが、感覚器官にありながら魂にも局在する諸感覚を統合する司令塔のような部分があると考えていることだという。で、著者はこれが一つにはストア派の「ヘゲモニコン」に類似するものだということを指摘している。「ヘゲモニコン」は指導理性みたいに訳されたりしているけれど、要は魂の指導的部分・主要部分のことで、SVF(初期ストア派断片集)IIの836に詳細な説明が載っている。「ストア派は、ヘゲモニコンが魂の最高の部分で、像や賛意、感覚、運動などを生み出すものだと述べ、それを理性と称している。ヘゲモニコンからは魂の七つの部分が生まれ、タコの触手のように肉体へと伸びている」。オリヴィのその司令塔部分が果たして本当にこれに重なるようなものなのかどうかはテキストを調べてみないとわからないけれど、論文の著者はこれを受けて、フランシスコ会へのストア派の影響という文脈を示唆している。中世にはセネカがとりわけ幅広く読まれ注解書が書かれたりもしていたといい、フランシスコ会ではとくにそうで、ロジャー・ベーコンなどはセネカを下敷きにした倫理学の教科書まで記しているという。またキケロもそう。ただ、ストア派の思想はキリスト教世界に大きな影響を及ぼしたものの、中世の思想家たちには明確にストア派的な思想として取り上げられているわけではないため、全体としてその影響関係は見えにくくなっているとも述べている。そのため中世思想の中にストア派をトレースするのは困難だとも……。一方で著者は、G.ヴェルベケの「引用だけでなく教義的な影響関係もさぐって、間接的なストア派の遺産の浸透を明らかにしなくてはならない」との言葉を引いて、明確なリファレンスの不在は乗り越えられない問題ではないとも宣言してはいるが……。

個人的にもフランシスコ会とストア派というのはとても注目しがいのあるトピックだと思うのだけれど、なるほどこれは狭い意味での実証的アプローチを越えて、比較研究のようなアプローチが必要になってくるというわけだ。具体的にどう探ればよいのかも含めて、この論文の本文を読みつつ併せて考えてみることにしよう。

↓コルドバにあるというセネカの像(ウィキペディアより)