これも年越し本だが、昨年の『現代思想』12月号(特集:巨大数の世界)(青土社、2019)を興味深く読んだ。巨大数というのは、位取りの名称がないほどの大きな数で、指数その他の組み合わせで表されるものらしい。とくにネット上で数学愛好家たちがいろいろなアイデアを出して検証しているといい、基本的にアマチュアリズムが牽引している現象だというのもどこかエキサイティングだ。最初に、「フィッシュ数」という数を考案したというフィッシュ氏と、数学史家の鈴木真治氏の対談があり、数学者の甥が考えたというグーゴル(1の後に0が100個続く数)の話などが紹介されたりしているが、ほかの論考も基本的には大きな数の扱いなどをめぐる数学史の紹介が中心。媒体が思想誌であることもあり、また普段あまりなじみのないトピックだけに、どうしてもこれまでの経緯や前史を振り返るという趣向の論考が多い。
けれども、個人的にはそれらもまた面白い。藤田博司「無限と連続の数学」では、もちろん主役となるのは近現代の諸理論なのだけれど、史的に振り返る冒頭部分でも、ユークリッドなどの古代ギリシアから近世にいきなり飛ぶことをせず、中世(14世紀)のブラッドワーディンやリミニのグレゴリウスの無限をめぐる議論をきっちり差しはさんでいるところに好感がもてる。対談にも登場した鈴木真治「歴史的に観た巨大数の位置づけ」では、million、billion…といった乗冪の命数法の考案者としてニコラ・シュケや、アラビア数字を伝えたとされるオーリヤックのジェルベール、16世紀の指数概念の考案者シモン・ステヴィンなどの名に触れている。斎藤憲「古代ギリシャの(巨大)数」は、ユークリッド『原論』が一般論に始終し、具体的な数字をほとんど出していないことなどを指摘したり、前2世紀の計算天文学の祖ヒッパルコスが示した数字(10の肯定命題の組み合わせが103,049個)が、10個の並んだ数に括弧を付ける方法の数だということが1997年に解明された話、さらにはアルキメデス『砂粒を数えるもの』の議論を紹介したりしていて、特段に楽しい。同書は「適切な記号の有無が人間の思考力を大きく左右する」(p.108)証左だと、同論文著者は述べて締めくくっている。
記号の有無と思考力の関係性は、そのまま数学的事象の存在論的地位の議論にもつながっていく。近藤和敬「かぞえかたのわからない巨大数は存在しないのか」は、数学的なものがある種の存在者であるという立場から、それをあくまで現に存在するものと規定し、名指すことができないうちは、それは「現に」存在しないという結論を導いてみせる。これは続く佐金武「永遠について――現在の観点から」にもやや関係する議論。そちらは、現在主義という立場を取り(マクタガートのB系列は前後関係だけがあるとするものだが、それをさらに純化したような立場だ)、その場合に永遠というものの諸相(無限性。不変性、無時間性)がどう表現可能であるかという問題を論じてみせる。
数学プロパーな人から見ればなんのこっちゃとなるのかもしれないが、総じて、巨大数という入口から、数学史のほか、無限、存在、時間など、哲学的なテーマが様々に引き寄せられてくる、そのスリリングな様を存分に楽しめる。