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やっと観られた『アブラハム渓谷』

フローベールの『ボヴァリー夫人』をポルトガルを舞台に翻案した小説を、マヌエル・デ・オリヴェイラ監督(当時84歳とか)が1993年に映画化した『アブラハム渓谷』。前から観たいと思っていた作品でしたが、ついに目にすることができました!
https://www.imdb.com/title/tt0108471/

もとより、特集上映くらいでしか上映される機会がなかったレアな作品ですが、2025年に4Kリマスターでの上映(ほかにオリヴェイラ作品4本も)がありました。残念ながらそちらには行けなかったのですが、そのうち配信でやるのでは、と期待していました。で、これがu-nextに入ったほか、3月ごろにCSチャンネルの「ザ・シネマ」での放送もありました。

いや〜これ、噂に聞いていた以上に面白かったですね。3時間を超える作品ですが(リマスターされたのは昔の上映版に15分ほど追加された完全版とのこと)、長さをまるで感じさせません。あっという間に思えます。主人公のエマ(ボヴァリー夫人と同じです)を、若い頃とその後で2人の女優が演じているのですが、どちらもその「強烈さ」(若い頃の馬鹿笑いのシーン、長じてからの立ち振舞いの存在感などなど)でもって、観る側をぐいぐい引っ張っていくという風です。

対比を基調とした色彩設定もまたいいですね。多少、老人の美学みたいなところもありますが、ちゃんと主筋に沿って、画面で描かれるものの意味合いを支えている感じが見事です。使われている楽曲もそう。欲情的なシーンで流れるドビュッシー「月の光」から、死の予感に彩られる終盤のベートーベン「月光」へ。ルナティックなエロス、という感じなのでしょうか?

面白いのは、エマが生きるその作品世界内には、ちゃんとフローベールの『ボヴァリー夫人』が存在していて、若い頃のエマがそれを読んでいたり、エマ本人が周囲に「ボヴァリー」呼ばわりされたりしていることです。「君は男なんだよ」なんてとある男性から言われるエマは、「私はボヴァリーでもないし、フローベールでもない」なんて反論しています。メタレベルが地のレベルに貫入しているかのようで、作品構造がわずかばかり複合化している印象です。

マイクロ権力の先のほう

アリ・アスターの新作『エディントンへようこそ』(2025)を観ました。コロナ禍のマスク着用をめぐる不和が、市長選をめぐる分断と争いへと発展し、さらにそこから大きな暴走へと至る、というお話。てっきりペドロ・パスカルが主役なのかと思っていたら、話を織りなすのはホアキン・フェニックスのほうでした(笑)。
https://www.imdb.com/title/tt31176520/

これ、市長選を絡めているところがなかなか面白いですね。マスク着用のような、たわいなくとも身体拘束的な義務を課せられていることの是非から、データセンターの誘致をめぐる立場などへと、話が拡大していくさまが、微妙なブラック・コメディという感じで、なかなかいい味を出している気がします。ただ、町の選挙と言うわりに、町の広がりというか、選挙運動の規模感などは描けていない(描こうとしていない?)ように思えます。

同じような市長選の話でも、たとえばフランス映画の『バティモン5 望まれざる者』(ラジ・リ監督、2023)とかになると、古い集合住宅の立ち退き問題が絡んで、住民と行政の対立も、とても不穏かつ暴力的な扱いになります。
https://www.imdb.com/title/tt26255476/

ある種のドラマツルギーに引っ張られてか、コメディ色やアクション志向へとひた走る『エディントン…』に対して、こちらはある程度、リアリズムの方を向こうとしているわけなのですが、とはいえこちらも、ごくごく狭い世界での出来事であるかのように描かれていて、市長選の選挙運動の規模感などはきわめて希薄な印象です。選挙の結果も(はたして選挙が成立したかも含めて)描かれてはいません。

これらの作品での市長選というのは、いわばカリカチュアにすぎないのでしょう。それもあってか、市長がもつ権力もどこか「マイクロ権力」的です。『エディトン』では、そうしたマイクロ権力的ないさかいが次第にエスカレートしていく様が、そして『バティモン5』では、マイクロ権力の積み重ねが横暴さを増していくプロセスが描かれているという風でしょうか。前者の終盤、どこから弾丸が飛んでくるかわからないというホアキンの疑心暗鬼(このあたり、とてもよくできたショットでした!)と、後者の終盤の、苦痛に歪む臨時市長の表情は、なにやら表裏一体にも思えてきます。

現実と映画の枠

wowowオンデマンドで配信されている『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』(2024)を観ました。パレスチナ人の活動家とイスラエル人のジャーナリストが組んで、ヨルダン川西岸地区のマサーフェル・ヤッタという村でのイスラム軍の破壊行為を4年間にわたって撮影したというドキュメンタリーなのですが、うーん、これはなんとも凄まじい映像の数々。
https://www.imdb.com/title/tt30953759/

ドキュメンタリーを作ろうと意図したはずのキャメラがときおり捉えるのは、軍に追われて逃げる際の激しい手ブレの映像だったり、予告なしに現れて立ち退きを迫り、家屋を破壊する重機の映像だったり。

これほどまでの暴力行為、そして人々の抵抗。英国のブレア首相(当時)が7分間だけその地を訪問した直後だけ、暴力行為は一時的に止んだとのナレーションもありました。すべては上のほうで決定され、現場の住民たちはただひたすら蹂躙されていくだけ、というこの構図。とてもやりきれないものがあります。しかもこの映像は、ガザへのイスラエルの侵攻前のもの。このあと、事態はいっそう悪くなっていく……。

この、ほとんど製作者たちの意図とはかけ離れているであろうフッテージの数々は、もはや「映画」という枠から溢れ出ている、枠を超えている、としか言いようがありません。意図の外側で映し出される映像の荒々しさ、赤裸々さ。「作品」などという範疇を、もはや超越しています。

現実があまりに過酷であるとき、映画、というか映画の枠というのは、あまりにフラジャイルなものになってしまう、そんなことを思わせます。ドキュメンタリーであろうと、そこには切り取り方などのかたちで製作意図が入ってくるわけですが、そのようなものを吹き飛ばすというか、そこに見えている現実が枠に収まりきれずに、枠を壊して溢れ出てくるかのようでもあります。ドキュメンタリーの存立論のようなものを、つい考えないではいられません。

戯曲的な映画の愉しみ

基本的に映画は時間的・空間的な「移動」が基本だと思っていましたが、だんだんと年をとるにつれて、「動かない」映画、空間的移動が描かれない映画も、案外悪くないなと思うようになってきました。シネフィルを気取っていた若いころなどは、「こんなに動きがない映画なら、映画にする意味ないじゃん、戯曲でいいじゃん」なんて思っていたんですけどね(苦笑)。観劇に行かなくなって久しく、演劇作品に触れる機会があまりなくなっていることもあって、戯曲作品も映画にしてもらうことは、とてもありがたい気がします。もっとも、映画も最近はほとんど配信で観ているわけなんですけどね。

というわけで、先日アマゾンでの配信終了の告知を見かけて、あわてて観たのが『ザ・ホエール』(ダーロン・アロノフスキー監督、2022)。長いこと映画の世界から遠ざかっていたブレンダン・フレイザーの復帰作ですね(今劇場公開中の『レンタル・ファミリー』も評判いいですね)。娘役に、『ストレンジャー・シングス』のマックス役で人気が出た、セイディ・シンクも出ていました。
https://www.imdb.com/title/tt13833688/

大学のオンライン授業の講師をつとめる、極度の肥満症に陥った主人公の、人生最後の一週間が描かれます。舞台はその主人公の部屋で、ほとんど外の描写はないのですが、部屋を訪れる関係者たちとのセリフのやり取りで、そこにいたる背景やそれぞれの過去などが、とても巧みに浮かび上がって来ます。まさにそういう「見えている以外の部分」への想像というあたりが、戯曲的な映画の愉しみであると、改めて納得できます。

これは以前に観た一本ですが、『対峙』(フラン・クランツ監督、2021)というのもありました。高校で起きた乱射事件の犯人と被害者の、それぞれの親が、教会の一室で話をするという作品で、冒頭からすでにして張り詰めた緊迫感を感じさせます。
https://www.imdb.com/title/tt11389748/

舞台設定(教会での対話とか)などから、観ている側は、どこかの時点で許しの時を迎えるのだろうなと予測するわけなのですが、なかなかそうした予定調和にはたどり着きません。それほどに凄惨な事件だったことが伺えます。これも、事件そのものが描かれるわけではないので、観る側の想像力を刺激し促すだけかのですが、そのあたりの緊張感こそが見どころという感じです。

さらに、最近観た『入国審査』(アレハンドロ・ロハス監督、2023)も、この分類に含めてもよいかもしれません。
https://www.imdb.com/title/tt22964884/

スペインからアメリカへ移住しにきた若いカップルが、入国審査で足止めを食らうことで、二人の関係性に変化が生じてしまう、というものですが、密室会話劇(入国審査の尋問)が作品の大きな比重を占めているからです。これもまた、画面に描かれない背景への喚起力がなかなか鮮烈です。文章ならば行間を読むとか言われますけど、映像がさりげなく指し示す外側部分というのも、ときにとても味わい深かったりしますね。

顔役というキャラ

少し前に取り上げた『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』では、なんといってもルイス・クー演じる「顔役」が、存在感といい佇まいといい、他に圧勝していたと思うのですが、こういう、局所的な集団・コミュニティにおける顔役というキャラは、アクション系の作品に限らず、作品を締める重要な要素だという気がします。そのことを改めて感じさせたのが、少し前に配信で観た『ワン・バトル・アフター・アナザー』(ポール=トーマス・アンダーソン監督作品)での、ベニチオ・デル・トロでした。
https://www.imdb.com/title/tt30144839/

デル・トロが演じたのは、ディカプリオ演じる主人公の娘が通う、空手の道場の先生なのですが、同時にメキシコ系移民(だったかな?)を助ける、コミュニティの顔役でもありました。ディカプリオを難局から救う重要キャラでもあります。ショーン・ペン率いる機動隊が、移民らのたむろする場所に乗り込んできたときに、あたりの全員を実に手際よく逃げさせるくだりとかが、なんともカッコいいんですよねえ。

現実世界でこういう「顔役」がいたら、悪いこともいろいろしている犯罪者かもしれませんけれど、映画の中、あるいはもっと広い意味での「物語」の中では、そのあたりは捨象され、ときにはトリックスター的な性格を付されたりして、筋の運びを生き生きと展開していったりします。多くの作品において、そうしたキャラは必要とされるような気がします。物語論的に綿密に分析したことはないですが、理論的・作品構造的にもしっかりと位置づけられるはずです。

そういえば、アカデミー賞のノミネート数で、上の『ワン・バトル……』をも凌駕してしまった『罪人たち』(ライアン・クーグラー監督作品)でも、そういうキャラがいました。それはウンミ・モサク演じるシャーマン的登場人物、アニー(ブードゥーの施術者・ハーバリスト)ですね。
https://www.imdb.com/title/tt31193180/

現地のコミュニティで信頼が寄せられていることを感じさせるほか、異常な事態が吸血鬼に関係していることをいち早く見抜いたり、対策を助言したりして、筋の展開に大いに関わっています。あまり目立たない存在であっても、こういうのは作品上、とても重要だと思われます。