このところ、文庫入りしたデリダの『アデュー:エマニュエル・レヴィナスへ』(藤本一勇訳、岩波文庫、2024)を、これまたスローテンポで読んでいました。
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イスラエルが、ガザでの非人道的な行為に出、さらに暴走を進めてイラン攻撃にまでいたってしまったこのところの情勢に鑑みるに、レヴィナスが唱えていたような無限・無条件の歓待、理念の極北であるかのような「イェルサレム」、歴史の終末的ビジョンとしての「第二のシオニズム」などとの圧倒的な分離・溝に、文字通り打ちのめされそうな気分になっているなかでの読書です。
こんな時期に読んだためか、つい現実的な情勢とのリンケージについての言及はないのかと探ってしまいます。もっとも、デリダ的にはそのような志向こそがむしろ宙吊りにされなくてはならないものなのかもしれません。理念的なシオニズムの対局としての政治的シオニズムは、凡庸なナショナリズムに傾きがちだとデリダも言います。そのうえで、「政治的なものの彼方」こそが称揚されなくてはならないと説くわけなのですが、一方で、政治的に確立される平和にも、「自然の暴力性の痕跡」が「際限なく不可避的に保存されている」とされます。純粋とされるもののなかで織りなされる不純性。なんとも重苦しい両義性です。
他である限りでのなんらかの他者が、顔の顕現のうちで、すなわち顔の退隠または訪れの家で、なんらかの仕方で「迎え入れられた」ことにならなくては、平和を語ることに意味はありません。同じもの(同者)とともにでは、平和のうちにあることになりません。(location: 1925)
そう語るデリダは、「先-根源的なプロセスなき平和」と、現代国家による政治とのあいだを媒介するルールや図式をどこに見出すべきかと問うてはいます。でもその問いへの応答として、デリダがレヴィナスから見つけてくる文言は、再び絶対的に隔たった他性を前提としたうえでの、歓待をめぐる細やかな理念の分析のほうへと立ち戻ってしまうように見えます。故意か不慮かの区別なくあらゆる殺害者をも迎え入れる避難都市(歓待を処罰に転じるような?)、現実的な法に反する法の創造、政治的なものと法的なものを哲学的な意味で超越するような正義の法、などなど。
倫理は政治と法に命令を与えます(中略)。ですが逆に、このように指定された政治的ないし法的な内容のほうは規定されないままであり、すなわち、知と一切の現前化の彼方、一切の概念や直感の可能性の彼方でつねに規定されるべきものとして残留します。その内容は、単独的に各人が引き受ける言葉と応答責任のなかで、各状況のなかで規定されるべきものであり、そのつど唯一の分析(中略)から出発して規定されるべきものです。(location: 2606)
どこか細やかさが逆にアダになって(?)、現実世界と理想・理念の分断はいっそう際立っているようにも見えますね。デリダはその溝に哲学の「沈黙」を見ているようです。しかし一方でデリダによれば、レヴィナスはユダヤ的な「選び」(選民思想の)を、ナショナリズムの誘惑から切り離すという困難な企てを行おうとしていた、ともいいます。あえて哲学の沈黙を破ってでも、「倫理から政治と法を演繹する」必要性、倫理・政治・法の関係を規定する必要性を訴えていた、というのです。
ならばデリダおよびレヴィナスにならって(というか後を追って)、ときに両義的でもあるような細やかな理念を手にしつつ、「最良」もしくは最も「悪くない」現実的な規定を、個々人がひたすら考え続けていかなくてはならない、ということになりそうです。結局はそこに帰着するのかって?いやいや、そこはほら、両者のもとに手にした理念で、少しだけ以前とは違う仕方で。