「Humanities」カテゴリーアーカイブ

マイナーリペアの積み重ね

少し前にスティグリッツの『資本主義と自由』(山田美明訳、東洋経済新報社、2025)を読みました。これ、昔のベルナール・マリスの『反経済学教科書』(翻訳出版の話もあったのですが、企画は頓挫してしまいました(苦笑))じゃないですけれど、経済学がいう「自由」は、自由の意味をそもそも履き違えていて、そもそも政治的・社会的な意味での自由にはそぐわないものだということを訴えていました。実際の経済活動は、決して「自由」な環境でなされているのではない、とも。
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市場だけが野放しになったところで、それは「不安定で、搾取的」でしかなく、適切な政府の介入がなければ「支配力のある企業に支配され、大規模な不平等を生み出すことになる」というのですね。「ファシズムや独裁政権の支配者が台頭したのは主に、政府が十分な施策を講じられなかったからであり、政府が過剰な施策を講じたからではない」とも記されています。

市場だけでは対応できない「外部」というものは必ずあって、それは社会的・政治的に対応するしかなく、対応できるためには、政治的な真正さや社会的な寛容・協働がなければならない、しかしそのためには、表面下の基本スタンスが大きく変わらなければならない、というのがスティグリッツの主張です。修正資本主義的なケインズ主義の再興を、というわけですね。個人的には「新自由主義」でひたすら突っ走るよりも、こちらのほうが説得力はある気がしますが、そう思わない人も多いかもしれません。この表面下の基本スタンスの変化というのは、具体化がむずかしい問題かもしれません。スティグリッツは、一大転換ではない、マイナーリペア(小幅修正)の積み重ねを説いているように思えます。

同様の変革の可能性を考える上で、参考になるかもしれないのが、ピーター・シンガーの『ダーウィン左派』かもしれません。これは小著ですが、存外に面白い議論がなされています。
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ダーウィンの進化論は、右派が経済思想的な弱肉強食の正当化に用いたせいで、従来の左派(マルクス思想)は、進化論的思考に批判的だったといいます。シンガーはさらに、人間の本性は可塑的だ(だから異なる種類の人間社会は実現可能だ)との信念ゆえに、左派はダーウィン主義を拒絶したのだろう、と記しています。

しかしながら、人間生活の領域には多様性が見られる部分と、人間文化の全般にわたってあまり変わらない普遍的な部分とがある、とシンガー。この普遍的な部分というものを、従来型の左派は認めたがらない、というのですが、シンガーによれば、互恵的な協力関係も、また競争により成立する地位・ヒエラルキーも、そういう普遍的な部分だとされます。

ならばこの、人間本性の普遍的な部分をもとに、競争的な傾向と協力的な傾向の、バランスを変えられないだろうか、とシンガーは問います。で、アクセルロッドの囚人のジレンマの実験などを再考しながら、互恵的・利他的な関係を促進できるような社会環境を、作る可能性が示唆されます。

重要なのは、本性的な負の部分をそのまま認め、受け入れながら、その上で本性的な正の部分を伸ばしていくという戦術です。囚人のジレンマ実験ならば、「しっぺ返し戦略」を、ただ単に残念に思うのではなく、それを理解して、なおも協力が得られるような環境を整備すること。つまりこれは、ゲームの外部に働きかけることにほかなりません。ここでもまた、示唆されるのは小さな「マイナーリペア」の積み重ねですね。今となってはそれ以外に、バランスの変化を定着させることはできないように思えてきます。

蜂の隠喩

シルバーウィーク中に配信で観たうち、2本の映画が養蜂に触れていて、しかも両者がどこかシンクロもしくはオーバーラップしている感じもして、ちょっと気になったので、ここに記しておきましょう。

一つは、『ブゴニア』(ヨルゴス・ランティモス監督、2025)です。韓国映画のリメイクだそうで、オリジナルは観ていませんが、トンデモな宇宙人系の陰謀論に取り憑かれた男たちが、薬品メーカーのCEOを誘拐・監禁するというプロットはほぼ同じだとか。あまたの誘拐・監禁ものでも、陰謀論がらみの妄想系というのはあまりないように思います。その点がちょっと新しい気がしました。
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で、この主犯(今やランティモス映画の常連になっている、以前の「メス・デイモン」ことジェシー・プレモンス)が、趣味で養蜂をやっていて、監禁されたCEO(こちらも常連のエマ・ストーン)と、ミツバチについて語り合う場面などがあります。これまでも、環境問題絡みなどで言及されることの多かったミツバチですが、この映画では、むしろ人間社会の組織そのものに寄せて、それを暗示するというふうですね。

タイトルの「ブゴニア」そのものが、死んだ牛からミツバチが自然発生するという古代の俗信のことです。ウェルギリウスの『農耕詩』にあるほか、10世紀のビザンティンで編纂された農業技術集成である『ゲオポニカ』には、ミツバチを採集するために牛を殺すという、古代ギリシアで行われていた(実際に行われていたかは不明ですが)儀式についても書かれているのだとか。

映画は最後にどんでん返しがあって、人間が全員倒れて息絶えてしまうような風景が描かれるのですが(これ、ある意味、詩的な美しさすらあります)、個人的には、あえてこれを、かつてのクロード・ルルーシュの「迷作」、『ヴィヴァ・ラ・ヴィ』のラストのように、極度のストレス下におかれたCEOが狂気のさなかに見た「妄想」のように受け取りたい気にすらなります。

もう一つは娯楽作品で、ジェイソン・ステイサムのアクションもの、『ビーキーパー』(デヴィッド・エアー監督、2024)です。タイトルどおり、養蜂家になった元最強のエージェントが、社会そのものの養蜂家のごとく、社会秩序を守るため、悪人たちを叩きのめしていくという、どこかで聞いたような、おなじみのシチュエーション、おなじみの話ですね。ステイサムが強すぎて、ちょっと引いてしまいそうになります(笑)。
https://www.imdb.com/title/tt15314262/

勧善懲悪話は、いつもどこか逆説的です。悪を倒す善の側の行為も、やはり悪じゃないの?というわけです。そしていつも、勧善懲悪をもたらすのは、社会の「外部」です。たとえば社会からはみ出した者とか。そうした外部があってこそ、悪でもって悪を懲らしることができる、と相場は決まっているかのようです。

ミツバチに絡めて言えば、ここではやりバーナード・マンデヴィル(17世紀の医者・風刺家)の『蜂の寓意――私悪すなわち公益』が思い起こされます。同書は、副題が示すとおり、たとえば奢侈的な消費が経済発展を促すというように、私的な悪と公益とが結びついている逆説的な状況こそが人間社会であり、善と悪とが表裏一体であることを説いています。悪にも善を導く契機になるなどの、なにがしかの効用があるのだ、というのですね。逆に悪のない世界、完全な統制が効いたミツバチのごとき世界を、理想としてそのまま取り込もうとしても、それはひどく殺伐とした、とても侘びしい世界にしかならないのでは、と。

『ブゴニア』の主犯が目指していたのは、そのような逆説的に荒廃した世界だったのかもしれません。最後の風景をCEOの妄想と取らないならば、外部の力によって、それは実現してしまったのかも……。一方、ステイサム映画で守られる社会秩序というものも、暴力的なものが排除される世界ではなく、あくまで一時的に、社会の一部が、外部の力によって刈り取られるだけのことで、その基本構造は変わらないような「悪しき世界」です。

大変革か現状維持か。いずれにしても、ここで重要なのは「外部」の参入でしょうか。ここで疑問が湧いてきます。では、蜂の組織に対する養蜂家の関係のごとく、人間の社会に関与しうる外部とは何に相当するのでしょうか。変な神秘主義などに逃げ込まないのを前提で考えるなら、これは大いに気になる問いです。

ホッブズの一元論的唯物論とか

おそらくはご多分にもれず(?)、読みかけで放置したような積読本(未読了の山)というのも個人的に結構あります。最近少し整理したときに再び出てきた『リヴァイアサンと空気ポンプ』(シェイピン&シャッファー、吉本秀之監訳、名古屋大学出版局、2016)もその一つですが、ちょっと思うところあって、少しばかり読み進めてみました。
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17世紀、ロバート・ボイルが空気ポンプの実験で証明しようとした「真空」をめぐり、ホッブズを筆頭とする当時の反対派や賛同者たちの議論を浮かび上がらせた同書。科学史的にはもちろんボイルのほうが主役ということになるのでしょうけれど、個人的には、前に読んだときもそうでしたが、ホッブズの側につい肩入れしてしまいそうになります。それほどまでに、ホッブズが唱える一元論的唯物論が興味深いからでしょう。

世界は物体(物質)で充満している、というのが基本スタンスで、物体でないものは存在せず、ゆえに真空もありえない、というのがボイルに対するホッブズの議論の核心部分ですが、同書によれば、これをホッブズは、社会秩序へと敷衍してみせ、物体以外のなにか(真空も含めて)を持ち出すことは、社会秩序を壊すものでしかない、というふうに、政治的目的のための議論としていたことが示されています。

物体しかないとする以上、ホッブズは、よく知られているように教会からも糾弾され、また王権神授説を否定したことで、国王派からも睨まれていました。一方でそのラディカルな唯物論にもとづき、ホッブズは人間の、欲動的で自己保存志向な本来の姿を想定し、その無軌道な「自然状態」を抑制するために、強大な権力をもつ超越的な統治機構として「リヴァイアサン」を構想したのでした。

でも、この壮大な構想とどこかちぐはぐな感じもするのが、ホッブズの現実的・実践的な対応だったりします。強大な権力機構を夢想していたのに、クロムウェルの共和制をわりと素直に受け入れたりとか。ボイルとその賛同者たちへの批判でも、実験が閉鎖的なサークルでなされていることや、それが哲学的な営為と相容れないことなど、どこか細かい難癖を付けているような印象があったりもします(もちろん、それなりの解釈はありえるでしょうけれど)。ホッブズの人間臭さ……なのでしょうか。

シェイピン&シャッファーの本は、ボイルとホッブズの周囲の人々の話も織り交ぜ、群像劇的な面白さもありますが、なかなか紙の活字本を追うのはしんどいので、とりあえずおしまいまでざっと目を通したものの、細かい点までは追えていません。うーん、少し頑張ってそれらを拾いながら、今度はボイルの側を主軸にして読み直したい誘惑にもかられますが、どうしようかな〜と迷っているところです。再び未読了の山に埋もれる(ちゃんと通し読みしていないので)ことになるのか、どうなのか……?

EPWING辞書(古典語)の現在

長いこと、ギリシア語などを読むために、MacでEPWING辞書を使ってきました。愛用してきた検索ツールはLogophileです。Logophileは2022年に開発を終えていますが、とりあえずIntel版Macでならば動くし、RosettaでAppleシリコンでも使えるみたいだったので、これまで継続使用してきました。でももうじきRosettaもサポートを終えるということで、新しい検索ツールが必要だなと思い始めました。

AIが便利なので、Webベースの検索ツールでも自作できないかなとも思ったのですが、辞書ファイルの解析でさっそく躓いてしまったので(tokenを食いまくり、あげくに出てきた解析ツールはイマイチで)、結局、やはりそこは他力本願で、ということに(笑)。

目をつけたのは、Linux系のツールです。超古いMacbook AirにchromeOS flexを入れているのですが、これに付随するLinux(debian系ですね)で使えるものがいくつかあり、Mac版が出ているものもあることがわかりました。まず、Qolibri というツールがありました。でもこれ、Mac版だと検索結果のパネルが文字化けしてしまうという難点がありました。次に今度はGoldenDictというのも見てみました。これも開発がすでに終わっているようですが、GoldenDict-ng(ngはニュージェネレーションのようです)という派生版が出ていて、こちらは今でも更新されているようです。で、これにMac版があります(https://xiaoyifang.github.io/goldendict-ng/install/)。

辞書ファイルも問題なく読み込め、表示も悪くありません。とりあえずこれは良さそう。というわけで、こちらに乗り換えてみることにしました。今のところ、すこぶる快適です。

ちなみに、辞書ファイルそのもの(個人的には大昔にダウンロードしたものを今も使いまわしていますが)も、今や新規の入手はとても面倒になっています。昔のEWPING for the classicsという貴重なページは、すでに事実上なくなっており、とくに辞書ファイルは見当たりません。唯一見つかったのは、dotsrc.orgのミラーサイト(https://mirrors.dotsrc.org/osdn/classicalepwing/)でした。ただしこれは、もとのファイルの名前がわからないと、どのファイルをダウンロードしたらいいかわからないですね。うーん……。これから始めようという殊勝な若い人にとっては、ちょっと難儀な状況ですかね。

リミナルな「私」の行き着くところ

前回の投稿で、今ここに無内包なものとしてある「私」も、どこかリミナルなものかも、とおいうことを記しておきましたが、リミナルと言うからには、どこかに通じている途中経過的な意味合いも含まれていなくてはなりません。では、その向かう先はどこなのか。でもこれ、実はとてもシンプルな問いにすぎないのかもしれません。

そう思えたのは、高橋源一郎の『ぼくたちはどう老いるか』(朝日新聞出版、2025)に目を通したから。老いの問題を小説家がどうさばくのかと思っていたら、なんと、ある種の注釈書みたいになっていました。
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前半は哲学者の鶴見俊輔が著した『もうろく貼』(2010)についての著者のコメンタリー。あらゆる状況がいつしか肯定されていく、老いによる変化・変質を、高橋氏はダンテ『神曲』に描かれた「煉獄」のようなものとして(罪を認め、清められ、許される段階として)、「もうろく」に重ね合わせています。なかなか面白い読み方です。

後半は家族から見た、第三者視点からの「老い」ということで、吉本隆明の長女、ハルノ宵子『隆明だもの』(2023)や、有吉佐和子『恍惚の人』(1972)、私小説の作家、耕治人の短編小説、谷川俊太郎の詩などが取り上げられています。どれもが老いと死のまわりをめぐる、味わい深い考察・言及になっています。

若いうちはどこか観念的なものだったり、恐怖の対象だったりした「老い」や「死」ですが、年齢が進むにつれて、観念や恐怖としては薄らいで行くのかもしれません。そしてその無内包な自分自身が味わう、どこか振動のような、わずかな(微かな)動きこそが、愛おしいものになっていくのかもしれません。高橋源一郎はこう記しています。

ぼくが、ぼく自身の内側をいくら覗いて見ても、そこに確固たる「自分」は見当たらない。もやもや渦巻く、不定形な流動体に、ことばを投げ込む。すると、ささやかな反応がある。なにかしら意味ありげな反応が。それを、愚かにも、ぼくたちは「自分」であると思いこむのである。- location 3421

“自分の中にはなにもないとしても、自分の中が仮に空虚であったとしても、そのことに絶望せず、世界を呪わず、「役割」をまっとうせよ、と鶴見さんはいうのである。「にもかかわらず」の転調を、僕は美しいと思う。- location 3443”