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哲学史とドゥルーズ

少し前に購入した岩波の『思想』(2025)6月号に、一通り目を通しました。特集は「哲学史の中のドゥルーズ」。奇しくも今月4日はドゥルーズの命日に当たりますね。今年は生誕100年、没後30年という話です。クラシック音楽などで多用されるこの生誕・没後〇〇年、学問的な世界ではあまり言いませんでしたけど、最近少し目にするようになってきました。それだけ最近は話題不足なのでしょうか?
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2005年の『現代思想』(8月号、特集「ドゥルーズの哲学」)を見ると、対談の冒頭部分で宇野邦一氏が、「ドゥルーズが紹介されてずいぶん時間も経っているので、若い研究者もたくさん出てきて、アカデミックな文脈で読む、哲学史的な文脈で緻密に読む、という試みも目にするようになりました」と語っていますが、そこから20年を経て、哲学史の中のドゥルーズという題目で、特集が組まれるようになり(雑誌は違っていますが)、隔世の感を覚えます(苦笑)。

個人的な勝手な感想を言うなら、ドゥルーズの単独での著述活動は、基本的になんらかの哲学者、もしくは哲学的なテーマのある側面(ジルソンにもとづく「存在の一義牲」とか、ブレイエにもとづくストア派の「非物体的なものの論理」とか)を借用的に取り上げ、そこからの独自解釈を通じて、結果的にその哲学者、あるいは哲学的テーマの輪郭を、従来よりもはるかに際立たせてみせる、というものが多いように思えます。

でも結果的に、ドゥルーズの議論は、取り上げる当の哲学者やテーマなどの、とても興味深い、一風変わった視点からのまとめになったりもするように思われます。その意味で、その哲学史への構え方や目配せというのは、とりわけドゥルーズ本人の哲学的営為の核心部分なのではないか、とも思えますし、出発点となっている「借用」(語弊がありますが)についての精細な読みは、より重要な研究領域になりそうな印象です。余談ながら、フランスの知的伝統における「借用論」を、より総合的な研究でもって読んでみたい気もします。

で、その『思想』6月号の特集ですが、ドゥルーズと哲学史との関わりという点では、スコトゥス、ストア派、スピノザ、ライプニッツ、ベルクソン、ニーチェあたりはもはや定番という感じでもありますが、同誌のちょっと面白いところは、キルケゴールとの関わりや、ジャン・ヴァール(ベルクソンの弟子で、1930年代にヘーゲルやキルケゴールの紹介者でもあった人物)とのからみ、さらにはホワイトヘッドとの接合といった、従来あまり言及されない人物たちとの関連性が、いくつか検討されていることでしょうか。そういうマイナーどころも(と言ってはナンですが)要注目かもしれません。

ポパーのヒストリシズム批判

少し前に取り上げたポパーの『開かれた社会とその敵』。その後残りの3冊(1巻の下、2巻の上下)の本文をざっと読んでみました。プラトンの哲人皇帝の理想が、継承に際して制度的なものに頼らざるを得ず、凡庸な人物を選んでしまいという弱点を抱えている話とか、プラトンの国制論が、結局「オレサマこそが理想的な皇帝候補だ」みたいに読めてしまう話とかも興味深いのですが(1巻の下)、神話をベースとした堕落論としてのプラトンのヒストリシズムが、アリストテレスにいたって目的論的に組み替えられ、はるか後代にヘーゲルのもとで、三段論法的に練り直され(これ、プロイセンの国家を称揚する意図がありあり、とか)、さらにそれが経済をベースにするかたちでマルクスに受け継がれていく、という2巻の話の流れも、とても興味深いものでした。
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なるほど、ポパーが一貫して執拗に批判するのはヒストリシズム(歴史主義)なのですね。で、これはヘーゲルの遺産として、ポパーの時代も、そしてわたしたちの現代においても、息を吹き返しているのは明らかなようです(吹き返すというか、息が止まることはなかったというか)。

ヒストリシズムは結局、ある種の神話にすぎず、合理的な思考の対局にあるものでしかない、それに立脚して学問的な論を構築しようとするのは、とどのつまり、非合理的なものが猛威をふるうような状態、神秘主義に行き着くだけで、理性が合理的な世界を実現することを妨げてしまいかねない、というのがその基本的な見方です。ポパーは、現代のヒストリシズムは陰謀論の変化形だといいます。「陰謀論は(神が世界を支配し動かしているという)宗教的迷信が世俗化したことの典型的な結果である」というのですね。

学生時代とかに、少しだけマルクスをかじるのが(マルクスへの評価はともかく)割と普通だった年代の者としては、マルクスが掲げた革命の思想が、政治的なプログラム(ポパーの言い方では社会工学)と受け止めるべきなのか、それとも歴史法則的な必然と捉えるべきなのか、今ひとつ曖昧で釈然としなかったような印象を受けたものですが、ポパーに言わせると、それはまさしくヒストリシズムなのであり、いわば宿命論的・決定論的なものでもあって、社会工学のようなピースミールでの改善(この漸進主義を、ポパーは推奨しています)を説くものではなかった、と断罪されています。なんだか、そのあたりは妙に納得、という感じがしたりもします。

でも、このところしきりに思うのは、どんな論考にも必ずアラがあるものだ、ということです。ポパーにしてもまた、何か見えていなかったところがあるかもしれない、と思うわけです。

必ずあるアラ、という話の最近の例では、たとえばウェーバーの社会学もありますね。プロテスタンティズムの禁欲的な倫理が近代初期の資本主義をもたらしたといった有名な話も、実は制度・組織の構築という面について、その精神性がどう関与していったのかは不問にされている、という話があるようです(「ララビアータ」というブログを参照のこと(http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52641857.html))。ウェーバーも学生のときに読んだきりですが、たしかにそんな話には触れられていなかったような気がします(と言うか、単純に思い出せない(苦笑))。

また最近の本で言えば、数年前に流行ったトマ・ピケティの『21世紀の資本』についても、議論の前提となる富の格差の増大という部分への反論が出て来ているそうですね。スウェーデンのヴァルデンストロムという経済学者が批判しているのだとか。ダイヤモンド・オンラインに記事として掲載されています(https://diamond.jp/articles/-/374773)。

でも、これぞ健全な状態と言うこともできそうです。議論がかならずや反論を呼び、積み重なって新たな局面を迎えていくところこそ、学問の最もダイナミックで興味深いところなのですよね。ポパー自身が、そのことを記しています。

わたくしの考えでは、理論の反証可能性、すなわち、理論を反駁する可能性こそが、理論のテストを可能にし、またそれによって理論の科学的性格が規定されるのである。そして、理論のテストとは、なんであれ、理論の助けによって導出された予測を反証しようとする試みであるという事実こそ、科学的方法論にとっての鍵なのである。

ポパーについても、何か有意義な反論ができないか考えてみたくなってきます。

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ポパーのプラトン批判

以前から聞きかじっていて、前から読みたいと思いつつ、先延ばしになっていたカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』。まずは第1巻の「プラトンの呪縛」の上巻(小河原誠訳、2023、岩波文庫)を読んでみました。kindle版も出ているのに気がついたので、早速眺めてみた次第です。
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聞いていたとおり、あるいはそれ以上に面白いですね。ヘラクレイトスが世界を流動として捉えた後、プラトンはそこに、なんらかの不動のものを見出そうとして、イデア論を展開するようになります。しかしながら、この大きな基本的スタンスを、国制に関する学問(政治学)に応用する段になると、現実の社会形態を理想国家の劣悪コピーとして捉えることになり、その理想国家に遡及することを是とするような、きわめて保守的な議論が展開せざるをえない、というわけでなのですね。

プラトン中期・後期に位置づけられる『国家』においては、現実社会の不正・腐敗と捉えられる部分をできるかぎり排したかたちで、厳密な階級・役割分担を基礎とする、ある種のかっちりした全体主義を擁立することこそが、その理想になる、とポパーは読み解きます。その上でポパーは、そのスタンスを批判していくという流れになります。

プラトンの全体主義的な議論が、なぜポパーの時代(同書が書かれたのは第二次大戦中でした)まで批判されることがなかったのか。ポパ―は、プラトンを理想化する伝統(偏見、とポパーは言い放ちます)があまりに根強かったからだとしています。それは『国家』の英語翻訳題名である『共和国』にもすでにして現れているのだ、と。本来ならそれは「国制」のような表題であるべきだ、というのです。

プラトンが『国家』で展開する「正義」についての論も、同じく示唆的だといいます。本来ギリシア語で「平等な分配」を意味していた「正義」が、そこでは「最善国家のためになるもの」の意味に置き換えられてしまっていて、支配階級の正しさを前提として、平等に対して敵対的な解釈を導き入れている、といいます。

個人的にプラトンの対話編は、ときに違和感を感じさせたり、話の流れを不自然に誘導しているかのように感じられたりもするのですが、ポパーはまさにそのことにも踏み込んでいます。『国家』のまえがき部分が、ドラマ仕立てによって読者の「批判的考察力を眠りこませるべく仕組まれたもの」なのだと批判します。プラトンは正義をめぐる自身の議論の弱点を知っていて、それを覆い隠す術も心得ていたかのようだ、というのですね。

個人主義に対立するのは集団主義で、エゴイズムに対立するのは博愛主義だとポパーは図式化してみせますが、プラトンは個人主義とエゴイズムを同一視してしまうとも指摘されています。自己の利益の追求を基礎とするような正義は、プラトンとしては認められないということなのでしょう。このようなかたちでのプラトンの読みは、時代を反映した読みなのかもしれませんが、私たちにとってもとても重要なものだな、と改めて思います。プラトンそのものもそうですが、後裔となるプラトン主義者たちの著作も、同じような観点から見返してみるのも面白そうです。

悪態の裏側

小説や映画などにはときに、現実世界でならゆっくりと進行するような変化・変質が、なんらかの極限状態によって、過激なかたちで描かれることがあります。最近アマプラで観た『悪い夏』(城定秀夫監督、2025)にも、そんなシーンがありました。
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とある市役所で生活保護の申請を受け付ける職員が主人公で、自身はごく普通の職務上の対応をしているのですが、あるときヤクザがらみの脅し・ゆすりの一件に関与させられてしまい、一種の極限状態に追い込まれ、申請者にとんでもない暴言を吐いてしまいます。このシーン、半ば妄想的に描かれるので、どこからどこまでが実際に言い放った言葉なのかわからないのですが、かなり壮絶で印象的なシーンです。

映画自体は扱うテーマのわりには平坦な印象です。日本の住宅事情もあって、狭い部屋に大人たちが6人も7人も押し合いへし合いするというのが、すでにして画面設計上の難点になっていたりとか。でもその追い込まれて暴言を吐くというあたりは、誇張されたものではあっても、どこかリアリズムを感じさせますね。人が悪態をつく背景には、たとえ小さなものであろうと、なんらかの軋轢(とその積み重ね)があることが窺えます。

この作品を観て、個人的にまっさきに浮かんだのは、アーレントのアイヒマン解釈をめぐる論集『<悪の凡庸さ>を問い直す』(田野大輔・小野寺拓也編、大月書店、2023)でした。
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これによると、アイヒマンが組織の単なる歯車のような、凡庸な役人だったなどという見解はとうの昔に否定されているのだそうで、出世欲や功名心によって突き動かされて自覚的に職務を遂行していたというのが一般的解釈とされています。ユダヤ人をとくに憎んでいたわけではなくとも(その反ユダヤ主義は抽象的なイデオロギーにすぎなかったとされます)、「妬みや物欲、昇進への期待などといったさまざまな動機に突き動かされて、暴徒の群れに加わることになった」、「命じられた以上の成果を達成させていく有能かつ野心的な男の姿」が、そこにはあったというのですね。

しかしながらアーレントは、そこに思考の欠如を見出します。それは「全体主義の運動を批判的に捉える能力」の欠如のことで、後にはそれが「自身の独断主義のせい」だと言われたりもしていた、と。つまりは、「期待された役割を過剰に取り込みながら、昂揚感を追求したふるまい」にひたすら惑溺してしまい、それ以外が考えられないという思考の構えによるものだった、というのですね。

おそらくアイヒマンは長い時間をかけて、組織の中での自身の姿勢を練り上げていったのでしょう。その端緒を仮にぎゅっと圧縮・凝縮するなら、もしかすると上記の映画が描いた、主人公の妄想的で極端な文言に重なるのかもしれない、と思ったりしました。

「プロアイレシス」

昨年からずっとちびちび読んでいる Loeb版のエピクテトス『語録』は、ようやく下巻(3、4巻)に入ったところです。
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上巻のほうでも、また下巻に入ってからもとても気になっているのが、頻出する「プロアイレシス」という語。Loebのこの対訳では、ほぼ一貫して「right moral purpose」(道徳的に正しい目的)と英訳されているようなのですが、個人的にはこの訳語、妙に腑に落ちない気がし、なにやら居心地が悪くて落ち着きません。

エピクテトスは基本的に、人は自分が制御できる範囲とそうでないものを分けて、制御できる範囲・選択可能な事柄にのみ、自発的な働きかけを行えと説いているようなのですが、プロアイレシスはその文脈で登場し、エピクテトスは、このプロアイレシスから外れたことをしないよう心がけることが大事であると言ったりするわけです。

語源的には、プロアイレシスは「あらかじめ(プロ)選択すること(アイレシス)」ということで、そこから目的・目標、意図、企図、方針、さらには傾向、善意、献身などを意味するようなのですが、エピクテトスのテキストにおいてそれが正確にどのあたりのニュアンスを指しているのか、ちょっと解せない感じがするのです。

それは神々からもたらされた賜物なのだ、と語られていたりもし、「道徳的に正しい」というニュアンスはそのあたりを汲んでいるのかもしれませんが、制御の拠り所・基準点として、人間にあらかじめ備わっているなにかを指すとしたら、それは選択そのものと相容れないようにも思えますし、あるいは制御の可能・不可能性の境界線・分岐点に位置づけられるような何かにも思えます。基準をなすのですからとても重要なものであるはずですが、ではなぜそんな曖昧な位置づけになってしまうのか、なんだかよく解せない感じ……。こうしてこの数ヶ月、落ち着かない感覚をもちながらテキストと向かい合っていました。

で、ここへ来て少し新たな進展が。ちょうど、ダブルバインド理論などで知られるベイトソンの論集『精神の生態学へ』(岩波文庫)が、Kindle版で出ていたので、このところつらつら眺めていたのですが、これに、(明示されてはいませんが)プロアイレシスに関係しそうな文言があって、少しばかりヒントをもらえた気がしたのです。たとえばこんな一節。

意識の含む内容が、非意識的なマインドでの出来事からランダムに選び取られたものでないことは確実である。意識のスクリーンに映し出されているものが、マインド内の巨大な出来事の群がりの中から、体系的に選び取られていることは疑いない。しかしこの選択が、いかなる規則によって行われるのか、いかなるものが選り好みされるのかということについては、ほとんど何も知られていない。(下巻:「目的意識がヒトの適応に及ぼす作用」)

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なるほどサイバネティクス的・ベイトソン的に読むストア派哲学、というのは面白いテーマかもしれませんね。この話、先の悪についての話にも関係してくるはずですし、もう少しまとまったらまた取り上げてみたいと思います。