おお〜、これはいきなりのスマッシュヒットですね。ジョルジョ・アガンベン『最初の哲学、最後の哲学』(平凡社ライブラリー、2025)。同書は、アリストテレスの「第一哲学」が何を対象としていたのか、そしてそれが後世においてどう変転し、形而上学あるいは超越論哲学を導いて来たのか、そしてその行く末は?ということを検討した思想史的考察です。小著ですが、実に多岐にわたる文献を参照し、ポイントを手堅くまとめているので、ある種の入門テキストにもなっているかもしれません。同書をテキストに、あとは出てくる人物名や概念を教師が解説しえたら、それだけで中世思想史入門講座の出来上がり、みたいな(?)。
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第一哲学(『自然学』や『形而上学』で言及されますが)とほかの学知とでは、学の対象とされるものに一つの分割線が走っていると(表現はややちがいますが)アガンベンはみなします。それは、(1) 現実存在と、(2)存在としての存在とのあいだの分割線です。(1)は人が目にするような現実存在、(2)は「端的に」存在と言われるもの、ギリシア的には神的とされるような存在です。後者はちょっとわかりにくいわけですが、これらは後の時代の注解や西欧中世での翻訳などを経て、(1)意味作用(具体物の名)と(2)外示(代示:参照・名指しの行為自体)との分割へと変換されていく、というのが見立てです。
(1)は外部世界での実在(の可能性)を前提とした名辞、(2)は実定命題をつくるすべてのもの(トマス・アクィナス)、あるいは第一ウーシア、要は中身はあとから用意される、認識の際に先につくられるらしい心的な容れものみたいなものでしょうかね。
中世を通じて存在概念自体が力を失っていく中、(2)は「もの論」(ティオロジー)として、近世にいたるまで形而上学の対象としての命脈を維持していくとされます。存在とはなにかという問題系が、もの(res)とはなにかの問題系にシフトしていく、というのですね。形而上学はかくして、存在を欠く「或るもの」の一般学になっていくというのです。逆説的に(2)には、志向的存在として固有の存在論的地位すら与えられるのだ、と。
具体物の名や概念ですらなく、ただそれを参照する矢印、概念のまとうアウラのようなものが、抽象度の高い学知の対象になったというわけなのですが(アガンベンはそれをみずからの仮説と称していますが)、その繊細な史的過程を取っ払って眺めると、なんだかひどく空虚な話にも思えます。アガンベンはカントやハイデガーをもってしても、(1)と(2)との分割・分裂が決して埋められるに至っていないことを指摘した上で、分裂した両側を揺れ動くのみの「超越論的幻想」から身を引き、両側を考察しなおしてそれらの中間点での認識を試みることだけが、哲学を科学の名に値するものにするのだろう、としています。なんとも壮大な史的議論に、その行く末を慮る荘厳なメッセージが添えられているかのようです。