「Humanities」カテゴリーアーカイブ

加速主義の概説書を読む

個人的にまったくノーマークだった、加速主義についての本を読んでみました。『加速主義――増補新版 ニック・ランドと新反動主義』(木澤佐登志、星海社新書、2025)です。加速主義、これまでは聞きかじった程度で、資本主義を突き詰めていくことでその内破を狙う思想、くらいにしか(んでもって、それは無理でしょ、くらいにしか)思っていませんでしたが、その思想圏の広がりとか着想元とか、いろいろ興味深い記述があって面白かったですね。
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加速主義は基本的に左派系の極端な思想なのかと誤解していましたが、それは一つの分派に過ぎず、新自由主義と結びついた右派系の別の分派もある(というかそっちが主流)というのが、最初に驚いた点でした。というわけで、前半の主役の一人は、ペイパルなどの創設者ピーター・ティールだったりします。保守派一筋という感じのこの人物、意外にも若いころはルネ・ジラールの模倣理論などに心酔していた、なんて話が続いています。

次にページを割いて長々と紹介されるのが、加速主義の代名詞的な存在でもあったニック・ランド。こちらもバタイユ論とかがあったりして、初期のころはフランス系の思想を着想源の一つにしていたようなのですが、その後は白人中心を掲げるオルタナ右翼との関係性を深めていくのだとか。

そもそも加速主義そのものが、ドゥルーズ=ガタリやリオタール、ボードリヤールなどを着想源としているといい、それらを保守的な運動に移し替え、取り込むかたちで展開していったという話なのですが、自由主義を突き詰めていく果てに描き出されるのは、「無人称的な機械状プロセス」「器官なき身体を目指す死の欲動」でしかないといい、どこか荒涼たるディストピアが広がっていく感じにしか思えません(「思弁的実在論」の面々も、そうした動きとシンクロするものとして言及されています)。

そんなわけで、同書ではそらら右派系の運動を本流という感じで描いていくのですが、一方には左派系の加速主義というのもあって、その代表的理論家としてマーク・フィッシャーが挙げられたりしています。とはいえ、ランドらと立ち上げたという学生グループCCRU(サイバネティクス文化研究ユニット)なども、いつしかかつてのヒッピー文化を移し替えたような、激しくもどこか空疎なトリップ体験みたいなビジョンでしかなくなってしまうみたいで、なにやらとても痛々しい印象です。

同書は、ランド的加速主義を「大学院生の病」と総括したベンジャミン・ノイズの言葉を引用し、さらにそれは「内実のない空虚なミーム」にすぎないかもしれないとしています。一方で、その根底には未来が失われている、という共通認識(左派・右派に関係なく)があるわけなのですが、同書はその認識をも超えて、その先を展望しなくてはならないと強く訴えています。加速主義は、普通に考えられているような、資本主義のもろもろの要素を加速させることなのではなく、「資本主義がみずからを維持するためにどうしても妨害せざるを得ない「脱階層化のプロセス」をこそ加速させる」ものだと高らかに述べています。

おお〜、これは慧眼です。一本取られた気分です。フィッシャーが説くのもまさにそうした「水平主義」なのだとか。ヒエラルキーが生じる場面で、つねにヒエラルキーを消去しようと努力すること。加速主義の可能性の中心はそこにある、というわけなのですね。

遠いところに来た感じの哲学的風景

これは刺激的な一冊。マルクス・ガブリエルとグレアム・プリーストが、「全体」(世界)や「無」の存在をめぐり丁々発止のやり取りを展開する『全てと無ーー世界の存在をめぐる哲学』(山口尚訳、ちくま新書、2025)。新書サイズを大きく逸脱する感じの内容量ですね。ちょっと読みにくい部分もありますが、なかなかの読み応えです。
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ガブリエルのテーゼ「世界は存在しない」を受けての批判的検証をプリーストが担い、それにまたガブリエル側が反論する、という感じで展開していきます。ガブリエルのテーゼは、あらゆる事物は特定の「意味の場」に現れる(写像として指される)ことで存在すると言うもので、すると「世界」(つまり全体)と称される全体は、そうした特定の意味の場には現れえないので、存在しえないことになる、というものですね。これに対してプリーストは、各々の対象のメレオロジー和としての全体はありうる、という立場です。

これってすごく大雑把には、形式論理学vs現象学という感じでもあるのですが、内実はそう単純でもないようです。当初はまったく相容れないかのような両者の立場ですが、論考と対談のやり取りが進んでいき、相手が繰り出す例証や比喩の検討などを重ねていくに連れ、それぞれが必ずしも語ってない前提やら議論展開やらが明らかになって行きます。興味深いことに、「無」に関する議論にいたると、まるで両者の立場が一部入れ替わるかのように見えなくもない場面も出てきたりします。

プリーストは、「無」は「ない」ということだけれども、無について語るときには「無」という対象がありうるとします。ないけどある、ということで、そこには矛盾的真理がある、というのですね。対象としての無というのは、無から区別されることで任意の対象は定立されるのだから、その場合の無は、任意の対象の根拠として、それ自体が一つの対象でありうるといいます。それは相対的な無なのだ、と。これに対してガブリエルは、「ない」とされる無を絶対的な無とし、これに対応するような対象は存在しえない、したがって無は意味をもたない、無とは無意味である、と断じます。

さらに、二人が反論しあうそんな議論がいたる先には、すべては空であるというインド哲学、あるいは、あらゆる事物は一種のネットワークを織りなすという華厳哲学などが見えてきたりします(ガブリエルがそう語り、プリーストが同意したりとか)。ある種の神秘主義?でも、これもまた、同書の一つの肝になっています気がします。

二人の議論を挟む形で、関東と巻末にラウレアノ・ラロンの序論と、グレゴリー・モスの総括が掲載されています。これらも実に興味深い論点をさらい直して、二人の立場の違いや一致点を、また別の角度から明確にしてくれています。総じて同書は、現代の哲学が形式論理や現象学的な深化を通じて至った一つの限界点・臨界点を、いろいろな角度から垣間見させてくれています。20世紀後半(80年代とか)からでさえ、ずいぶん遠くにまで来た印象を与える哲学の風景、といったところでしょうか。

モナド的・一人称的

またしても物理本で(電子本が出ていないので)、『世界の独在論的存在構造』(永井均、春秋社、2018)を読んでいるところです。まだ半分ほどしか読み進んでいませんが、これはとても面白い一冊ですね。デカルトの「われ思うゆえにわれ在り」の「われ」つまり私は、厳密に考えるならば、対象化された私(の表象とか)などではありえず、私、と言いながらも、そこに具体的な対象のない、無内包のものでしかない……。いわばモナド的なもの、あるいは一人称視点を徹底したもの、というふうにしか理解できません。同書はこうした、ある意味誰もが感じていながらそうは語ってこなかった内実をあえて言語化し、それがいったい何であるのかという難問に迫っていこうとするエッセイ(試み)なのですね(こんな紹介でいいかどうかもわかりませんけれど)(苦笑)。
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その問題を考えるために、著者はいろいろな道具立てを用意しています。たとえばルイス・キャロルのパラドクス。PならばQが成立する条件で、PであるのでQである、という論理関係がある場合、最後の「Qである」を必然的にそうなると見なすのか、それとも可能性としてQでありうるのかと見なすのかで、話が変わってきてしまいます。で、必然として導かれるという話は、可能性の話につねに回収されてしまって、現実に到達できません。前者をアキレス、後者を亀とするなら、アキレスは亀を振り切って進むことができません。論理式では導けるはずのQに、現実としては至らないというパラドクス。神の存在証明の問題も、まさにここにある、というわけです。

そしてそれは唯一の現実として<私>(私という現実としての無内包のもの)についてもそうで、デカルトのようにいくら懐疑的なもの(欺く神によるもの)を取り除いていっても、最後に<私>が残るという部分(現実)は、そうした神の欺きによって欺かれることがありえない、ということになり、ひいては創造する神ですら、現実としての<私>には触れることができない、ということも導かれることに……。時間論の<現在>もまさに同じ構図になっている、と著者は力説します。

見事なまでに隘路をたどる旅です。それはなんとも刺激的で、晦渋に見える文章も、その実、たいそう共感できるものだったりします。

ストア派と公共

ゆっくり読み続けているエピクテトスの『語録』。やっと4巻に入りました。それにしても、3巻の末尾の数章(とりわけ24章から26章あたり)は、これまで以上に身につまされる思いがsしたかも。ストア派のこの書が、ある種の人生訓として読まれるのは、こういうところがあるからなのだなあ、と改めて納得できます。でも、人生訓というところで止まってしまうのにも、なんだか違和感を感じたりします。なにか哲学を考える上でもったいないような気も……(?)
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内面的な苦痛をもたらすような諸要素(情念とか)に対して、それらが(あるいはそれらの原因となっているものが)自分の意思ではままならぬことを直視することによって、半ば諦めというか、あるがままを受け止め、そこからポジティブな方向にそらして、内面の平静を得ようとする(3巻26章など)、というのがエピクテトスのストア派としての基本的立場ですが、一方で自分が制御できる事象については、これを計画的に実行せよと説き、自身の家の管理から始まって、公共への奉仕や行政への参加を積極的に推奨したりもします。その意味で、そうした公共性・計画性を根底から拒絶する犬儒派などに対しては、たいそう批判的だったりします(3巻22章)。

それってつまり、官僚志向的(?)ということになるのでしょうか。でもそうすると今度は、社会の首長に仕えることはどうあるべきか、という側面が気になるところです。エピクテトスはさしあたり、支配者としての神については何度も言及していますが、組織的な首長のあり方そのもの、あるいはそうした首長への服従、あるいは組織のありかたなどについては、3巻までではあまり触れていない印象なのです(うーん、ざっと読みで見落としているのでしょうか?あるいはこちらの記憶から漏れているとか?)。残りの部分と、これまでの振り返りで、探っていかないといけません(苦笑)。

「現代思想」と日常

昨年秋ごろに出て面白そうだと思った、福尾匠『置き配的』(講談社、2025)を、このところ読んでいました。『群像』連載の単行本化とのことで、多彩なトピックが飛び交う印象です。
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でも、哲学的エッセイだけのことはあって、日常的な話と現代思想系の概念や議論を往還し組み換えつつ、社会のなにがしかの側面について考察するというスタイルになっています。結果的にとてもおもしろい読み物になっていると思いましたが、そのスタイルが現時点で十全に成功しているかどうか微妙な部分もあり(この本自体も、どこか置き配的だという印象もありますね)、個人的には、さらなる洗練・深化に期待したいところです。

中身についても(特に個人的に注目したいところだけですけど)、ごくごく簡便にまとめておきましょう。コロナ以降すっかり定着したように思える置き配ですが、著者はこれを、時代を象徴する新たな現象と捉えています。ネットや批評の世界などのやり取りもまた、ポジショントーク的になり、言葉を「投下」するだけのものになってしまったと述べていますね。批評の内実が急速に失われていく様子が、置き配で共有される配達済み写真の不気味さにも通じている、といった話も出てきます。もはや郵便的(ちょっと懐かしい?)ですらない、置き配的なものになった言説の内実を、ではどうやって取り戻すか、というのがこの本の取り組む目標のようです。

バトラーのパフォーマティブ論や、ドゥルーズ&ガタリの領土の概念など、いろいろなものを駆使しながら各話(連載の)は進んでいきますが、でもやはりこの本が鋭さを見せるのは、ネット環境などの現況をめぐる概観や分析の部分でしょう。たとえば、「ナショナリズムや環境問題などの「大きな物語」が復古したかのように見える現状」について、著者は「つねに私以外の誰かの大きな物語に対する私の小ささ、弱さにおいてしか、われわれはわれわれの実存を安定させることができなくなっている」と喝破します。「誰かの表現を示威的なパフォーマンスとして見なすことにおいて、私は私の表現が実のあるものであると、感じることができる」のだ、と。なるほど、なぜネットで安易にデカい話題が召喚されたりするのかについて、これはなかなか示唆的な文言です。

また、哲学領域で近年進行しているかに見える、「理論的なもの」への熱量の減衰についての議論も示唆的です。著者は「理論的な知はその内と外のスイッチを可能にする回転扉としてしか機能していない」としつつ、その上で、「理論が構築される現場には(中略)具体的な手触り、その時間の厚み、そのサイズ感も同時に刻まれているはず」、「理論に固有の具体性があるはず」だと述べています。

つまり、もとになっている具体性にまで降りていって、理論を見直すことを推奨しているようなのですね(このあたり、昨年大いに共感した『庭の話』に通じる部分もあります)。その可能性を開く事例として、ラトゥールのアクターネットワーク理論による諸理論の組み換えが挙げられています。オリゴプティコン(ごく限られた視野しか与えないもの、つまりなんらかのエージェントが、特定の文脈に置かれることで、広範囲のトレースを可能にするということですね)がもたらす新たな風景でもって、事象を捉え直すこと。これが、議論の内実を取り戻すための、解答の一端ということになる……のでしょうか。このあたり、もっと具体的な実践として考えてみたいところではありますね。