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外側から見るか、内実から見るか

ジョセフ・ヒースは差別について、「他者をグループ分けして、外集団に属する人たちに反感を抱くのをやめさせることは、おそらくどうしてもできない」とした上で、「人々が互いに分類し合う方法が社会的にさほど有害ではなくなるように環境を操作することで、有効な回避策をとることができる」と述べています。これはつまり、他者の分類などを行う「人間心理の基本的特徴は変えられなくても」、教育などで、過度の反応を抑制・無効化したりできるという、ある意味社会的(外部的な)見解です。

でもこれも少し楽観的すぎるきらいがあります。環境を整えよと言っても、それはそれで難しい問題であることに変わりはありません。というか、あくまで対症療法的な考え方を説くにすぎないですし、具体的にどうすれば抑制ができるようになるのか、という肝心なところは問われないままのように見えます。

これにある種のアンチテーゼのようなものをぶつけているのが、中島義道氏の『差別感情の哲学』(講談社学術文庫、2015)です。だいぶ前の本ですが、最近になって読み直しました。差別問題の根っこ、というかその萌芽にある、自他の区別の諸相(他者への不快感から自己の優越感まで)をくわしく検討していくというものです。これはいわば、外側ではなく、内実としての人間心理を見据えようという構え方でしょうか。
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そこから出てくる提言は示唆的です。「みんな一緒」のような社会は、一見居心地のいい幸福な社会に見えますが、一方でそれは「濃厚な人間関係を望まない多くの人を圧殺することになる」と著者は言います。要は「多様性そのものを維持すること」が重要だと説き、「異質なものを同化するのではなく、異質なもの同士の「共生」を目指すべき」だとしています。

でもこの著者のスタンスのその先には、かなり過酷な、極北の地が控えているのでした。共生のために、あらゆる差別的なものの芽をつもうとするなら、自他のいずれも褒められることを承認してはならず、「すべての行為に差別感情がこびりついていることを認め」るのでなくてはならない、というのです。差別と闘っている人にすら、「高みから見下ろす」傾向が潜んでいるのだ、と。

そして終局、どうすればよいのかと自問しながら、結局は完全に世を捨てるか、あるいは、自分への誇りも他者へのわずかな軽蔑も「絶えず生け捕りにし、その醜い姿を心ゆくまで観察すること」を提唱する、と著者は断言するのでした。なんという過酷な立ち位置でしょう。凡人がおいそれと真似できるようなことではありません。理想を突き詰めていくと、その先に、そんな世界が思い描かれるとは……。ちょっと衝撃的です。

転用の広がり

前回の投稿で触れたジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』では、直感やパターン認識に流されていく人間の思考を合理的に「正す」(直感やパターン認識を緩和・抑制する)のに、その都度、なんらかの「クルージ」を考案することが推奨されていますね。クルージ(kluge)とは、もとは生物の進化の過程で、本来の働きとは異なる目的のために、なんらかの機能を転用するという現象を指す言葉で、それを認知科学系の論者ダニエル・デネットなどが敷衍し、広い意味での「機能の転用」を指すものとなったということです。

技術哲学のシモンドンではないですが、工学の現場においても、なんらかの特定機能を別の用途に転用するということが、技術的な対象物の進化・変転を促すことは、ごく普通に見られる現象だと思います。最近ずらずらっと読んだのですが、ヴェンカトラマン・ラマクリシュナンの『ジーン・マシン――細胞のタンパク質工場「リボソーム」をめぐる競争」(大田直子訳、みすず書房、2025)は、リボソームの構造やタンパク質形成のプロセスなどを追う、科学者たちの隆盛を、群像劇的に描いた興味深い科学読み物ですが、これなどを見ても、技術的な転用が新たな生物学的革新をもたらしていることが再三述べられています。「科学は実際、見知らぬ人たちの親切に依存しているのだ」と著者は述べています。
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より規模の大きな、ネガティブで組織的な転用、というのもありそうです。これも少し前に読んだものですが、クィン・スロボディアン『破壊系資本主義――民主主義から脱出するリバタリアンたち』(松島聖子訳、みすず書房、2026)は、ごく少数の富裕層の資本家が理想とする、民主主義がほとんど機能しない自由貿易区域(ゾーンと称されています)が、全世界的に各地で乱立した経緯をまとめたものです。興味深いのは、それらのゾーンは、国家のしがらみから逃れるどころか、とくに大国を中心に、国家が自分たちの目的(国家資本主義体制の確立)のために使う、道具に堕しているというのですね。これなども、ある特定の貿易形態の転用がもたらした風景と言えるかもしれません。そこで描かれている現在図・未来図は、かならずしも明るいものではありません。
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再びポジティブな転用に話を戻すと、『啓蒙思想2.0』では、最後のところで、直感とパターン認識による偏向が招くものとして、人種差別の問題や、民主主義の軽んじの問題などが取り上げられています。前者については、他者のグループ分けやステレオタイプ化が避けがたい以上、違いの顕著さを低減させるよう環境を整えることが説かれています。また後者については、民主的な熟議の質を改善すること、とくに意思決定の過程をゆっくりにすることが推奨されています。この「スローポリティクス」の勧め、ある意味とても示唆的です。

合理的判断

カナダの哲学者ジョセフ・ヒースによる、『啓蒙思想2.0』(栗原百代訳、ハヤカワ文庫NF、2022)を読み始めたところです。昔とはちがって、感情よりも下位に貶められている理性を巡って、その立て直しに向けた考察を展開しようという本のようですね。
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これの冒頭に出てくる「結婚問題」という論理的思考力を見るクイズが面白かったので、メモっておきましょう。「ビルはナンシーを見ていて、ナンシーはグレッグを見ている。ビルは結婚していて、グレッグは結婚していない。このとき、結婚している人が結婚していない人を見ている」は正しいか? A:正しい、B:正しくない、C:どちらとも決められない」。

著者も言うように、ナンシーが結婚しているかどうかは言及されていないので、ちょっと目にはCかなと思ってしまいますが、これは不正解(私もご多分にもれず、そうでした(苦笑))。正解はAなんですね。今問題になっているのは、「結婚している人が結婚していない人を見る」という文の是非であって、「誰が」が問われてはいません。ナンシーも、結婚しているか、していないかの二つに一つなのは間違いなく、結婚しているのであれば、ナンシーがグレッグを見ているので、問題の文は正しいですし、結婚していないのであれば、ビルがナンシーを見ているので、この場合でも問題の文は正しいことになる、というわけです。うーん、やられましたね。

著者はこの例を、合理的な観点からは明白だが、直感的ではないために初見では間違いやすいと指摘しています。合理と直感とが別々の種類の認知プロセスだ、ということを示すために出している例ですが、著者はここで、時間のかかる面倒な合理的判断の重要性へと、話をもっていこうとしています。というわけで、しばらくそうした合理についての考察に、付き合うことになりそうです。

プラトン的自然哲学?

大部の紙の本はもうあまり読みたくないのですが、そうも言っていられないこともあります。もはや研究とかには無縁(目がしょぼいので、大量の文書を読むのは無理)ですが、なにかこう、大きな刺激を受けたりしたときなどには、やはり扱われているおおもとの本とか、見てみたい衝動に駆られます(習性みたいなものでしょうかね?苦笑)。……というわけで、シェリング・ルネサンスに惹かれて、イアン・ハミルトン・グラントの『シェリング以後の自然哲学』(浅沼光樹訳、人文書院、2023)を読み始めてみました。まだざっと三分の一くらいです。
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グラントは同書で、シェリングの初期の著作だった『ティマイオス注解』を足がかりとし、シェリングが自然学の刷新を試みているという見立てを示すわけですが、それは一言でいうと、「プラトン的な」(プラトン主義的ではなく)自然哲学だというのですね。近代的な哲学の礎をなすとされるのはカントですが、そのおおもとはアリストテレスだとされたりもしますが、自然学に限ってはいても、その系譜をそっくり批判するのが、シェリングの自然哲学なのだというのです。

アリストテレスからカントにいたる系譜の何が問題なのかというと、そこでは有機的自然と無機的自然が分断されていて、自然学が物体論に限定されてしまっていることだといいます。彼らが扱う自然は、形相的な意味の自然にすぎず、述語付け可能な本質に過ぎない、と。あるいは、(あえてアナクロニズム的な言い方になっていますが)現象学化した自然学なのだ、というわけですね。それに対してシェリングの唱えるものは、両者を分断しない、「全」の自然学だとされています。非物体をも排除しない自然学、ということですが、それはどういったものになるのでしょうか。

どうやらそれは、『ティマイオス』でイデアの受け皿とされているコーラ(場所、器の意)をも扱う自然学、ということのようです。それはとりもなおさず、力能あるいは生成の自然学なのだ、と。質料(コーラ)とは、要するに自然がイデアに与える力能のことであり、それについての考察は、いわば質料の生成論ということになるのですね。

これ、要は、無秩序な世界から秩序がどう出現するのかという問題を、ある種、一元論的に考えるというスタンス、ということになりそうですが、気になるのは、どうもシェリングにしても、それについては成功してはいないみたい(?)、という点でしょうか。続きの部分を読んでみないとわかりませんが、考察が頓挫するなら頓挫するで、いかにしてそうなってしまうのかを、辿ってみないといけません。

本質と現象のあいだ

佐々木隆治『マルクス 資本論 第3巻』という一種の逐次解説本を、このところ読んでいます。マルクスの資本論は普通、商品や余剰価値についての原理・本質論が展開する第一巻がなんといっても有名すぎて、エンゲルスがまとめたという第二巻や第三巻は、結構ノーマークだったりするのではないでしょうか。個人的にもそうなのですけど(笑)(なにしろ経済方面はとりわけカジュアルな読者なので)、でもたとえばこの第三巻は、利潤率の成立などの、いかにも現実的な経済学的な話が展開するようで、その意味ではちょっと興味深いものがあります。
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まだ前半ですが、この解説本の記述は非常にとっつきやすくて好感が持てます。一貫して取り上げられているテーマは、いわゆる物象論で、本質論で成立した生産物の価値が、現実世界においていかに転倒し、市場価値、市場価格として成立するかという問題ですね。なるほど、本質論にとどまっていた理論が、現実世界のほうへと接近していくという図式になっているわけですが、とはいえ、やはり理論的考察であることは変わらず、現実の複雑な構図をそのまま扱うわけではく、あくまで抽象化された「現象」を、理論でもってまとめ上げるというスタンスになっている印象です。

本質論と現象論とを区別しているとはいうものの、たとえば同書が「マルクス均衡」と呼ぶ、商品需要と商品供給の均衡状態を、社会的な総労働の均衡的配分として見るという考え方(つまり、仮にいずれかの業種に不均衡があっても、それを解消するために業種間で労働力が移動することにより、労働の総量としては均衡が図られるということ、でしょうかね?)などは、すでにして抽象化されたモデルにすぎません。現実の問題としては、業種への嗜好性その他もろもろの要因によって、機械的に労働が社会的な均衡をなす方向に向かうとは限らないと思われます。そのモデルは、本質論よりは現実寄りの、一段下(?)の抽象レベルの事象を説明しているにすぎないのでは?

マルクスがどのあたりの現実のレベルまでを考察の対象に据えようとしていたのか、寡聞にして知らないのですが、このあたりを突き詰めていくと、なにやら本質と現象の認識をめぐる、哲学的な問題をも召喚しそうで、読む側としてもちょっと身構えてしまいそうです。

ちょうど、ナフサの問題をめぐり、政府見解が「量は足りている」としつつ、現実問題としての滞りについて「流通の目詰まり」と表現している話が、構図としては似ているかもと思ったりしました。「流通の目詰まり」というのもかなり大まかな、現実的な細やかさを捨象した表現で、この物言いのレベルで現実を語るのは、ちょっと大雑把すぎるのでは、と思いますね。政治はもっと細やかな現実にこそ対応できる・対応すべきものであってほしいのですけどねえ。