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マイナーリペア論

連休は体調を崩したというのもあって、ずっと次の本を眺めて過ごしました。中野剛志『政策の哲学』(集英社、2025)。今年の1月ごろに出た本ですね。タイトルに惹かれて読んだのですが、中身は思っていたのとちょっと違っていて、基本的に経済学批判とこれからの経済政策の提言の書という感じでした。個人的に経済学は門外漢なのですが、それでもこれは興味深く読めました。
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主流の経済学派が実はあまり科学的なことをやっていない(机上の抽象的なモデルを作って、その未来予測を云々するだけで、現実に降りて来ようともせず、予測が外れようがおかまいなしだ、などなど)と厳しく批判した上で、同書は、個人の上に創発的に成立する構造やメカニズムをも実在するものと捉えるという(批判的実在論)、存在論的なところから考察をめぐらせていきます。ここがなかなか面白いところで、「哲学」という表題の意味が際立って来ます。

経済が本来扱う人間社会は、いわゆる開放系だとされますが、とはいえそこには最低限の半・規則性がなくてはならず、そのために経済政策のようなものも必要になってくる、というわけです。そうした法則的な振る舞いを、現実の知覚から出発して思い描く(「遡及する」)ための議論として、ポランニーの暗黙知などが援用されていたりします。このあたりも、認識論的な議論ということで、個人的には「刺さる」部分だったりします。

そして最終的に、どういった政策が望ましいのかという議論も、遡及の応用として出て来なくてはなりません。だからこそ必要なのは、政策を一挙に覆らせる抜本改革・一大変革ではなく、小刻みに・漸進的に政策を修正していくという、アジャイル方式のような政策議論・漸変主義だというのです。昔ならマイナーリペア方式とか言っていたやつでしょうかね(笑)。

あれあれ、存在論から始まって暗黙知などを経由したにしては、なんだかしょぼい結論?いえいえ、そんなことはありません。現実に根ざした確たる施策というのは、そういうものでしかありえないのかもしれません。トランプの横暴なぶち上げ政策など見ていると、いっそうそのように思えてきます。

ふたたび創作・製作奨励の本

ちょうど一年前くらいに出て、ネットなどでもちょっと話題になっていたような気がした千葉雅也『センスの哲学』。kindle unlimitedに入ったようなので、早速読んでみました。おお、これも悪くないですね。柔らかい語り口による哲学入門という感じです。最近はこういう本が多くなってきて、時代を感じさせるものがありますが、一方でゴリゴリに難解な議論をふっかけてくるようなものが無くなっていくのも、ちょっとさみしいように思います。ま、それはともかく。

同書は、「センスがいい・悪い」というときの「センス」をキーワードに、ドゥルーズ哲学のほうへ、とりわけ芸術論のほうへと接近していきます。
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著者は「センス」の基礎が、「反復」と「差異」に帰着することを示します。ドゥルーズ的なキーワード「強度」も、強弱の「リズム」と言い換えてみせます。絵画でも音楽でも、文学でもグルメでも、なんらかの文化的な作品を鑑賞する際に、鑑賞者に訴えてくるものの正体とは、実はこの「リズム」なのだ、というわけです。あらゆるものはパターンとその破れから成る、と。この破れという部分が重要で、著者はこれを「予測誤差」と捉えます。予測できる安心感と、それを覆らせる意外性、ですね。つまり偶然性がどのくらい入り込むかです。そのさじ加減で、美であったり、カント的な崇高(圧倒的な美)であったり、作品に対する鑑賞者の感じる味わいが多様化するわけですね。

この本のいいところは、そうした議論から、個々人が行う創作・製作行為をも見据えていこうとしているところです。先の「庭」の話とも通じている話ですが、鑑賞者の味わいは、そのまま裏返って、創作者の味わいにもなります。それこそがもしかしたら重要かもしれない、と。人が生きる・生きていく、そのための<根本的な必然性>ゆえにこそ、外部にはたらきかけていくための反復もまた必要になっていくのだ、と。これはAIにはなしえないことだ、と著者は言っています。そういう根本の必然性に支えられたアウトプットが、原理的にありえないからです。この断絶ゆえに、AIの先にあるとされるAGI(人間の知能に匹敵するような汎用的な人工知能)というのは、もしかしたら案外遠いものなのかもしれないなあ、とちょっと思いました(どうなるかはわかりませんけどね)。

とりあえず、個人の創作的行為(鑑賞もまたある意味そういう行為にほからないでしょう)の、この上ない賛美・推奨の書として、同書を受け止めておきたいと思います。

「遠近」の歴史というアプローチ

少し前ですが、なんとはなしに読み始め、一気に面白く読めたのが、黒木朋興『ロックと悪魔』(春秋社、2024)。ヘヴィ・メタルの悪魔的なイメージが、どのような文脈で生じているのかを、まさに「遠近」の両方の歴史からアプローチしていくという、なかなか刺激的な本でした。
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「遠近」の歴史というのはつまり、長いスパンと短いスパンの歴史を交互に描いて、その両方の中に「悪魔表象」という事象を位置づけた、ということです。遠いほうはキリスト教史、近いほうはロック・ミュージックの歴史です。

著者の慧眼というか、そもそもの着眼点が良いですよね。ヘヴィメタがほぼプロテスタント系の地域に限られることを指摘し、なぜそうなっているのかを、歴史的な文脈に探っていくというアプローチです。音楽に限らず、悪魔表象は主に、プロテスタント文化の文脈から生まれているのではないか、という話です。

16世紀のトリエント公会議を境にカトリックは、悪魔への言及の度合いを小さくしていくのに対して、宗教改革を経て聖書の内面化を推し進めたプロテスタント側では、実体としての悪魔という表象の比重が高まっていくのだといいます。善悪二元論はもともと、本来一元的世界観だった初期キリスト教に、ゾロアスター教、マニ教の影響によって生じたものとされますが、それが紆余曲折を経て、プロテスタント文化の中で再び息を吹き替えしていく、というのがなんとも興味深いですね。

近い歴史でも面白いことが起きています。初期のヘヴィメタのバンドは、悪の表象を歌い上げるにしても、社会批判的にそのテーマを扱っていたといいますが、それがやがて反社会性から純粋にエンターテインメントへとシフトし、悪の表象が前面に出てくるようになって、次第にキリスト教社会(プロテスタント系)から、「悪魔的なもの」として排撃されるようになっていく、というのです。悪魔に言及し、それっぽいコスチュームでステージに上がっても、実際には敬虔なプロテスタントだったりするミュージシャンもいるのですね。個人的に、ヘヴィメタの歴史はあまり知らなかったので、社会史的にもこれはとても面白い現象だと思いました。

著者はマラルメの研究者とのことで、なるほど記述のスタイルなどは研究者風です。でも一気に読ませる文章です。幕間的なコラムも読み応えがありますね。この本自体が極上のエンターテインメントでもあるし、労作でもあります。

庭師たれ、とその本は言い。

昨年の春くらいに、ローティとか東浩紀とか、社会体制の行き詰まりに抗するための方策として、小さな共同体を推奨する議論をいくつか目にしました。でも、ではそうした共同体があまり快適でない場合はどうするのかな、という疑問もありました。実際日本では、趣味の集まりなどもすでにしてそうですが、新たに参入するときの壁(すでにある上下関係とか、求められる儀式的な身振りとか)はそれなりに高いように思います。

ところがここで、期せずして、共同体なんていらない、個人としてなにがしかの「制作」に励むことが、体制の内破への第一歩だ、と説く本が出てきました。これは嬉しい。宇野常寛『庭の話』(講談社、2024)です。
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タイトルが地味だったこともあって、あまり期待せずに読み始めたものの、実によく練られた実践推奨の書、という感じです。プラットフォーム(大手のSNSなど)上での相互承認ばかりに始終するようになった今のネット社会。そにおいて失われている、「世界に事物に直接手でふれる」ときの手触りを取り戻すためには、では何が必要なのか。同書は、必要とされるのはネットと自然の世界のはざまに置かれるべき「庭」であり、そこでの人間的な「制作」の営みである、と主張します。

庭も制作も、もちろん比喩的なものです。人が手を加えることで自然の中から切り出され、適切に整備・維持されるものとしての「庭」は、ネットが中心となった社会環境の中に重ね合わされるとき、どのようなものとして立ち現れるのか。著者はすでに散発的に行われている自主的な試みの数々をもとに、「庭」と括ってみせたその概念の可能性を広げて行こうとしているようです。

制作もしかり。単なる消費でも浪費でもなく、それらの果てにみずから事物にふれるための実践として推奨されています。単に共同体に群がるのではない、それはある種の孤高の営みですが、それがいたるところで散発的に(場所も対象も多様なかたちで)行われていくことで、承認の欲望にのみ囚われた心性が、再び事物の方へ、事象の方へ開かれて行くのでないかという、一種の賭けです。この賭けに、個人的にはぜひ乗りたいです!

詩の底力のようなもの

昨秋のノーベル文学賞で一躍有名になり(少なくとも個人的にはそんな感じでした。なにせ韓国の文学はまったく知らなかったので)、書店その他でもプロモーションがかかったハン・ガン。せっかくだからということで、kindle版の出ている作品をいくつか読んでみました。

一つは『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出文庫、2023)。詩作品とされていますが、作品全体の輪郭がエッセイのほうへと開かれているというか、詩とエッセイ(と小説)の境目をたゆたっているような、なにやらおぼろげで、それでいてどこか凛とした佇まいの、不思議な印象をもたらす作品集でした。
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同じような詩的な文体ながら、小説としての輪郭が少しだけ強調されている、という印象なのが『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社、2017)です。ギリシャ語講座に通う、発話機能を失った女性と、視力を失いつつある講師の男性の、それぞれのモノローグが交互に示され、やがてそれらが交差する瞬間が訪れるというのが大枠の筋立てです。内面的な空間が位相的に重なって(?)浄化される、みたいな。こう記すとよくわからない感じになってしまいますが、とにかくある種の救済の物語です。ギリシア語、ギリシア哲学に、そのあたりが淡く託されているのが見事だと思いました。
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で、もう一つ『少年が来る』(井手俊作訳、CUON、2016)。韓国の民主化運動が悲劇となった1980年の光州事件を描いた作品と聞き、こうした詩的な文体・構成で歴史的な事件・事象を描き切れるのだろうかと、読む前に少し動揺してしまったのですが、読み始めるとまったくの杞憂でした。死者たちへのレクイエムとして、これ以上ないほどにフィットしていました。
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ハン・ガンのこれらの作品は、詩のもつ底力のようなもの、詩の可能性の一端を、改めて感じさせてくれるように思われます。kindle版のある邦訳作品はまだ少しあるようなので、引き続き読んでいきたいと思いますね。