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掴みきれない「生命」の存在論

このところ、メルロー=ポンティの自然論を読んでいました(と言っても流し読みですけれど)。コレージュ・ド・フランス講義録『自然』というものです(La Nature : Notes, Cours du Collège de France suivi de Résumés de cours correspondants – Maurice Merleau-ponty, Seuil, 2017)。

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1956年から57年、57年から58年、58年から59年と、3年間の講義を、学生のノートとメルロー=ポンティ自身のメモなどから復元したものとのこと。1年目が詳細に復元されていますが(学生のノートの比重が高い)、2年目は別の学生のノートとメモ、3年目はメモだけからの復元になってしまうので、分量が大幅に少なくなってしまいます。

でも、本当はこの3年目の講義が、一番興味深いところかもしれません。1年目、2年目は哲学上の「自然」概念の史的変遷をたどり直すという趣旨で、デカルトからカントへの概念的継承の話が続きます。でも、最近の個人的関心からすれば、やはり、ユクスキュルの環世界やドリーシュのエンテレヒー論などの話が出てくる2年目の後半とかが、とても面白いです。そして3年目には、生命の存在論、とりわけ個体発生論に関わる、現象学的な存在論の話になっていきます。

ここが真骨頂という感じなのですが、残念ながら講義の詳細は復元されていないし、著者の言わんとするところも、どこか抽象的かつ独特な用語法で語られている印象もあって、大まかな枠組みの説明しかなく、明確にはわからないままです。

でもまあ、これは致し方ないところ。講義もここで完結したわけではないようですし、後期というか、晩年あたりのメルロー=ポンティについて、もう少し見てみたいようにも思えます。もちろん、フロイトのリビドー論への言及とか、主体と対象の「はざま」の問題とか、当時の思想的潮流の中で展開される、どこかわかりにくい記述を、今風に組み替えていくような作業も必要かもしれません。

(書影:Google booksより)

はじまりは否定

今度は初期のデリダ。少し前に邦訳で出た『思考すること、それはノンということである』の原書が、Kindleで出ているのを見かけたので、読んでみました。”Penser c’est dire non” (Seuil, 2022)です。
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本当の最初期(助手時代)の講義録(1960年から61年にかけてのソルボンヌでの講義)。のちのデリダの独特な表現はまだ確立されていないので、とてもかっちりした精緻な哲学的議論ですが、ところどころに、のちの独特な用語法や言い回しを予感させるところもあったりして、とても興味深い文章になっています。ドゥルーズなどもそうですが、デリダもまた、表現の妙味の下層には、本来的にかなり精緻な議論がかっちり組まれていそうなことが、改めてわかる気がします。

題材となっているのはアランの「考えるとはノンということ」というテーゼで、これを読み解きながら、否定性というものが、哲学の存立基盤の重要な要素をなしていることを明らかにしていきます。考えるということはそもそも、ただぼーっとしているような状態から脱することを意味するわけで、その意味では、与えられた「現在」の状況を、あるいは自分自身を、安寧に受け入れているだけ(ウイと言う)では、そこから抜け出すことはできません。「そうではない」(ノンと言う)といきり立つ契機がなければ、考えというものは成立しません。改めて認識する、意識するとは、否定から始まるというわけなのですね。

アランの場合、そこから信仰(宗教的ドグマ、あるいはドクサ)への、かなりラディカルな批判・拒絶が導かれるといいます。「信じる」ということは、すでにして自由な判断を奪われている状態であり、真理に到れるのは、そうした自由な判断があればこそです。本来的に、判断の自由こそが、真理を真理として成立させるのだ、というわけです。そしてその出発点には「否定」がある、と。

デリダはさらにそこから、否定の在りようにまで沈降して行きます(援用されるのは、現象学系の議論ですね)。というのも、いくら根底に否定・否認があろうとも、真理の正当性・価値への信頼がなければ、そもそも否認もできないからです。そうした信頼があってこそ、事実上の真理の欠如への対応として、否認が在りうるというわけなのですね。このことからデリダは、否定する当の対象というのは、実体として存在するものではなく、一つの「取り憑き」(hantise)として明滅的に在るのだ、と言います。するとここから、否定・否認は、実のところ判断に先立つもの、判断の手前の隘路、ということになります。

哲学の根本としての否認。これは今やとても重要になっているように思います。少し前ですが、とある仏教の僧侶の法話(というか雑談?)で、仏教思想にかこつけた差別論みたいなものを聞かされてしまいました。たとえ寺のような狭い空間であっても、そういうドクサ(あるいはドグマなのでしょうか)がまかり通ってしまうのは問題でしょう。こういう言論には、ふむふむと聞き入るのではなく、やはりとことん反論が必要ではないかと改めて思った次第です。

デリダを薄く静かに読む

岩波文庫入りしたデリダの『他者の単一言語使用』(守中高明訳、2024)。これは嬉しい。というわけで、さっそく読んでみました。原著は1996年の本ですね。

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対話編になっていて、どこか詩を聞いているような流麗な言葉が綴られていきます。これはある意味、至福の読書体験かもしれません。思想に詩は先行し、そして思想はどこかで詩になっていくのかもしれない、とそんなことを感じながら読み進めていけます。

先日の『批評空間』の臨時増刊号でも思いましたし、前にも記していたかと思いますが、言葉がからむ思想的営みはみな、先行するなんらかの思想的営みに対する応答(批判とか反論とか)でしかないのでしょう。更に、加えて、あらゆる思想的営みは、それがどんなに抽象的なことをテーマに据えていても、現実的・社会的な文脈から逃れることはできないものなのかもしれません。このデリダの著作もしかりで、デリダがマグレブ系フランス語話者であるということを抜きには書かれ得ないような文章です。

フランス語はデリダにとっての基本言語でありながら、母語・固有の言語とはそのそも言えないようなもの、どうしようもない違和感を抱かせるものだったのでしょう。その背景には植民地支配の長い歴史があり、かくして押し付けられ、内在化を無理強いされた言語を、デリダは冷徹かつ微細に観察して行きます。背景をなす政治的状況、固有性のないところで固有性を求めようとする欲望の構造、そこから志向される、もとより到達不可能な最初の言語という幻想(幽霊)、そして詩。デリダの旺盛な著作活動を支えていたものがなんだかったか、少しだけ想像できるような気がします。

個人的に、学生のころはデリダ(などいわゆるフランス現代思想もの)の、一見文意不明な文章とかに、とにかくねじ伏せてでも意味を見つけ出してやると言わんばかりに、どこか激しい格闘術的な読み方で対応していたものです。でも歳を取ってきて、いろいろとガタつくようになると、もっと静かに、薄い上澄みだけをすくっていくだけの、そういう読み方でもいいか、と思えるようになってきました。特に後期のデリダの文章には、もしかしたらそういう読み方のほうが合うのでは、とも思えます。詩的・音響的で味わい深い、とても豊かな喜びの時間が、そこから広がってくるかのようです。

批評誌の箱庭感

1996年の『批評空間』臨時増刊号(特集:モダニズムのハードコア)がkindle版で購入できることを知り、さっそくポチりました(笑)。
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なんといっても、巻頭と巻末の対談が面白い。というか、懐かしい。そう、90年代の後半とかって、こういう雰囲気があったよなあ、と遠い目をしてしまいました。批評家と言われる人たちが、雑誌の対談で好き勝手な(?)放言をしまくる。読者もそれを、どこか斜に構える感じで、ときに笑ったり、違和感を覚えたり、ついていけなくて置いてけぼりになったりしながら、それでもとにかく楽しみとして読んでいく。

別にそれで読む側の知識が増えるわけでもないかもしれないし、語る批評家たちが真面目に考えて論じていないかもしれない。それでも雑多な、ノイズを含んだ情報が飛び交って、誌面が妙に生き生きと見えてくる。こういう読み物、あるいは読書の空間は、今や雑誌媒体では本当に見かけなくなってしまったように思えますね。時代は、もっと雑多でノイズもふんだんにある、ネットに移行してしまったというわけなのでしょうけれど、雑誌のこの箱庭的な(あるいはジオラマ的な)雑多な感じというのは、ほかで必ずしも再現できないのではないかな、と思ったりもします。

リアリズム小説——古いか新しいか

ランシエールの文学評論集の一つ、『フィクションの縁』(Les bords de la fiction – Jacques Rancière)をざっと読んでみました。

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学術的な本にも、ある種のドラマトゥルギーがあるとして、マルクスの『資本論』に出てくる布と衣服の対比などが、いわば登場人物のような扱いになっていることを指摘していたりして、ちょっと変わった論評集になっている気がします。

で、とくに印象に残ったのは、19世紀以降の、いわゆるリアリズム小説についての考察。アリストテレスの劇作論以来、フィクションの主人公には、運命を切り開くような能動的な人物が配置され、運命に翻弄されるしかないような、受動的な人物は、あくまで脇に置かれるしかなかったわけなのですが、近代になって、とりわけマルクス主義の影響などによって、この対比が逆転され、受動的とされた人々、社会のありふれた人々が、フィクションの主人公として前面に出されるようになっていきます。ここまではわりと普通の話です。文学研究者のアウエルバッハなどは、ここにフィクションの未来を感じ取っていたりするのだとか。

でも、本当にその対比の構図は逆転したのか、とランシエールは問うてみせます。ありふれた人々も、ひとたび作品に取り上げられると、特異な人物として描かれるのではないか、と。対比の構図は温存されているのでは、と。

かつてのフィクションのように、作品のプロットは時間の経過に必ずしも依存しなくなっており、それに代わり場所の連関などがプロットを支えるようになってきた、とランシエールは指摘します。ジョイスの『ユリシーズ』などが念頭にあるような感じですね。で、そのあたりが変わっても、そこで描き出されるのが、なんらかの特異な人物としてであることに、変わりはないのではないか、というのですね。

こうしてランシエールは、リアリズム小説は、それ以前の小説作品に比べて新しいものであるかもしれないが、構図としては存外に古めかしいものであり続けている、という話にもっていきます。

個人的に、最近、マルカム・ラウリーの『火山の下』や、カルロ・エミーリオ・ガッダの『メルラーナ街の混沌たる殺人事件』を、ちびりちびり読んでいる身としては、なにやらこうした論評が、とても納得できるように思えます。それらの作品では、ありふれたものと、特異なものとが、分化していくプロセスのようなものを、ひたすら読まされている気分になってくるからです。

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