少し前に書いたように、ポール・オースターを読み始めています。まずは初期作品から、ということで、『ガラスの街』と『幽霊たち』を読んでいました。
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どちらも、探偵小説を模した形になっているのが面白いですね。ただ、従来の探偵ものとはいろいろな意味で違っています。依頼を受けて誰かを見張ることになる探偵。でも依頼の全体像が見えず、何のために何をやっているのかがわからないという、とても不条理な状況に徐々に追い込まれていきます。いつしか探偵自身が、ある種のアイデンティティ・クライシスに陥るまでに。
それでも、読ませどころは色々あって、たとえば見張っている当の相手に、変装して接触したりするところの緊張感など、なかなかヴィヴィッドに迫ってきます。『幽霊たち』の最後の方などは、ちょっとしたハードボイルド風味だったり。
この「ジャンルもの」に寄せながらも、なにやらとても不穏な世界観、ある種の狂気すら感じさせる心理描写、淡々と繰り返されるルーチンがどこからか逸れていく横滑り感などが、重層的に展開していくあたり、なんとも不思議な魅力をたたえています。ポール・オースターおそるべし(笑)。
基本的にKindleで読んでいるのですが、初期作品(ニューヨーク三部作とされているのですね)にはもう一つ、同じような探偵ものらしい『鍵のかかった部屋』というのがあるようですが、残念ながらこれは電子書籍化されていません。というわけでちょっとおあずけです。とりあえずほかの小説へと進んでいきたいと思います。
映画『落下の解剖学』(Anatomie d’une chute (2023))を配信で観ました。2023年のカンヌでパルムドールに輝いた作品ですね。屋根裏部屋から落下した夫の死を巡って、殺人容疑に問われた妻と、視覚に障害のある幼い息子が、裁判を通じて追い込まれていく姿を描くというもの。
https://www.imdb.com/title/tt17009710/
でも終盤、その息子が見せる「合理的な信」を貫く姿勢がなんとも良い感じでした。母親が殺人をしたのかどうかをめぐり、息子はそれはありえないと考えます。検察側は「それはあなたの推測でしかありませんね」(どこかで聞いたことのある論法ですね(笑))と追い込みます。
これに対して息子は、「どちらも確証がないなら、合理的に納得できるほうを選ぶ。それは裁判がやっていることそのものだ」みたいなことを滔々と語ります。この凜とした姿が圧巻です。人は自分の主張をみずから信じなければ、そもそも生きていけないかもしれない……そのことを高らかに宣言してみせたわけですね。
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けれども、そのような信は、ときに危うく、そして怪しいことも十分ありえます。これも最近読んだのですが、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』は、まさにそんなことを考えさせます。
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AIが一人称で語るという、なかなか斬新な小説なのですが、ここに登場するAIは、みずからが抱く信と、それにもとづく決断(判断)に、身を委ねようとします。読者はその信が、実は最初から的外れであること、またAIがその信にもとづく行動を決断しても、とりあえずは誰かの迷惑になったりすることはないことを知るのですが、それはたまたまそうだったに過ぎなかったりします。これがもしもっと違う方向に向かったりしたら、それはちょっと空恐ろしいことにもなりかねないな、ということを、読み手は感じとります。
本人(作中では人ではないですが)が抱く信が、きわめて「合理的な」信であるところが、空恐ろしさに拍車をかけます。翻って私たち、人の合理的な信というものも、同じようなものだったりしないのか、という問いが浮かんできます。人の生きていく糧にもなりうる信は、同時にこうした危うさを孕んでいないか、と。これをどう捉えればよいのでしょうか。問題になるのは「合理」の中身なのでしょうか?
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