〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.137 2008/11/01 ------文献探索シリーズ------------------------ 「単一知性論」を追う(その8) 引き続き、アヴェロエスの『霊魂論大注解』第5注解を見ていきます。ア フロディシアスのアレクサンドロスは質料的知性が身体と混成していると いう立場を取ります。質料的知性は、知解対象を受け取るための潜在態と して身体にあるというわけですね。アヴェロエスはこれを、アリストテレ スの本文からかけ離れた内容として一蹴します。アリストテレスは「質料 的知性が分離していること、それが身体的な道具をもたず、単体としてあ り(simplex)、変化を被ることもないこと」を指摘しているのだと語っ ています。 この分離=単体という図式は重要です。シゲルスがあれほど質料的知性 (可能知性)の分離の擁護にこだわり、またトマスがその分離に執拗に反 論するのも、それがこの単体としてあることの前提になっているからでし た。大元のアヴェロエスもまた、アリストテレスの『魂について』第三部 四章(429a18-25)をもとに、その分離の議論を出してくるわけです が、ここでの単体性への言及は軽くかすめる程度です。続く箇所では、再 び質料的知性の定義をめぐって、アレクサンドロスの批判を展開していき ます。質料的知性とは知解対象を受け入れる用意(preparatio)そのも のを言うのだとするアレクサンドロスに対して、アヴェロエスは、アリス トテレスが意図しているのはむしろ知解対象を受け取る受容体 (recipiens)である云々……といった話が続きます。アヴェロエスに あっては、質料的知性がやや実体論的に捉えられているという印象も受け ます。 そしてその後に、いよいよアヴェロエス自身の考えが述べられます。考察 する問題は三つで、一つは知解対象は永続するものであるかどうか、二つ めは個体としての完成が第一の完成の後に位置するかどうか、三つめは知 性になんらかの必然的な性質があるかどうかです。これら三つの問題の応 答はそれぞれこみ入った議論になっていますので、とりあえずここでは、 議論の骨子というよりも、単一知性論がらみの部分を取り出す形で見てい くことにします。 まず一つめについてですが、アヴェロエスの立場は、理知的知性(それは 個々人の中に生じる完成体で、複数で表されます。内容面だけを取り上げ れば知解対象と言い換えてもよさそうです)が生成・消滅可能であるのに 対して、それに働きかけたり、それを受容したりする知性の側は永続する というものです。テミスティオスとは違い、アヴェロエスは能動知性が魂 に内在するという考えを斥け、さらには質料的知性さえも分離体であると しているようです。知解(知性による成形)には、感覚を通じた対象の把 握に準じて、二つの基体(subjectus)が介在するといい、一つは、知解 対象が真であること(つまり真の形相をなしていること)の根拠をなすも の、もう一つは知解対象が世界において限定された一つであることの根拠 をなすもの、としています。この後者こそが質料的知性なのだと言われま す。ここでははっきりとは言われませんが、前者は能動知性ということに なるのでしょうか。 二つめに関連してアヴェロエスは、現勢化している知性との連続性ゆえに 人間は現実態としての知性を得るとした上で、人間と知性との連続性は、 質料と形相の結合になぞらえられうる形を取ると述べています。ただし内 在論とは違って(上のアレクサンドロスの議論のところで出たように、そ れではアリストテレスの主張に反すると見るわけです)、アヴェロエスは 質料的知性と能動知性(形相部分に相当します)、そしてそれらの間での 知解対象のやり取りの結果生ずるもう一つの知性(理知的知性)という三 層構造を考えています。個々人の完成によって知性もまた個別化すると考 えると、内在論で問題になるように、人間側の質料的知性が生成・消滅し てしまうことになり、知性の永続性という大前提にそぐわなくなってしま います。それを回避するために、アヴェロエスはこうした三層構造を精緻 化して対応しています。 こうして質料的知性と能動知性はともに永続的で、しかも人間の種を通じ てそれは共通な、単体としてある(アリストテレスがそう述べている、と いうのが論拠ですが)という話になってきます。もしそうでないとする と、受容者すべてを通じて知解対象が一つ(同一)ということが担保され なくなり、知解という営為の整合性そのものが矛盾に陥ってしまう、つま り個々人で同じものの理解ができなくなってしまう、というわけです。ア ヴェロエスは、人間もまた種として考えれば永続するのであるから、人間 にまつわる原理も永続的に共有されるのであり、質料的知性もそうした原 理としての性質を失することはないはずだ、と述べています(この部分、 かなりの意訳ですが)。 人間において生じる理知的知性は、人間という消滅可能なものと結びつく という意味では生成・消滅可能ではあり、一方で種に共通な単体である質 料的知性を引き継いでいるという意味では永続的であるとも言え、そこに は二重の性質が宿るということをアヴェロエスは説いています。こうして 見ると、アヴェロエスが説く知性の分離・単一論は、テミスティオスやア レクサンドロスの議論へのさほど大きくはない修正により、議論全体の整 合性を高めようとしたものだったようにも思われます。ですがこれは、中 世の受容を通じて実体論的な比重が増し、大きな問題になっていったよう に見えます。アリストテレスの曖昧なテキストを、先行する注解者たちの 誤謬から解放し明瞭にしようというのがアヴェロエスのもとの意図だった わけですが、結果的にそれがまた別の偏向を生んでいくというのは、世の 常ながら、なんとも皮肉な現象ではありますね。 三つめの議論がらみの部分は次回に持ち越します。 (つづく) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの個体化論を読む(その2) 『ボエティウス三位一体論注解』から問四の第一項を読む2回目です。今 回はテーゼ部分の残りとアンチテーゼ部分を見てみます。 # # # 4. Preterea. Contrariorum contrarie sunt cause; set idemptitas et diuersitas siue alteritas sunt opposita; ergo habent oppositas causas. Set unitas est causa idemptitatis, ut patet in V Metaphisice. Ergo pluralitas uel multitudo est causa diuersitatis siue alteritatis; non ergo alteritas est causa pluritatis. 5. Preterea. Alteritatis principium est accidentalis differentia: huiusmodi enim differentie secundum Porphirium faciunt alterum. Set non in omnibus in quibus est pluralitas inuenitur accidentalis differentia, nec etiam differentia qualiscumque: quedam enim sunt que accidentibus subici non possunt, sicut forme simplices, quedam uero sunt que in nullo conueniunt, unde non possunt differentia dici set diuersa, ut patet Philosophum in X Metaphisice. Ergo non omnis pluralitas causa est alteritas. Set contra est quod Damascenus dicit quod diuisio est causa numeri. Set diuisio in diuersitate uel alteritate consistit. Ergo diuersitas uel alteritas principium pluralitatis est. 2. Preterea. Ysidoms dicit quod numerus dicitur quasi nutus, id est signum, memeris, id est diuisionis. Et sic idem quod prius. 3. Preterea. Pluralitas non constituitur nisi per recessum ab unitate. Set ab unitate non recedit aliquid nisi per diuisionem, cum ex hoc aliquid dicatur unum, quod est indiuisum, ut patet in X Metaphisice. Ergo diuisio pluralitatem constituit; et sic idem quod prius. 四.加えて、対立的なものの原因は、(もとに対して)対立的なものとな る。しかしながら、同一性と多性ないし他性は対立する。したがってそれ らは対立する原因を有することになる。一方、『形而上学』第五巻に示さ れているように、一性は同一性の原因である。したがって、多数性ないし 複数性こそが多性ないし他性の原因なのであり、他性が多数性の原因なの ではない。 五.加えて、他性の原理は偶有による差異にある。ポルピュリオスによれ ば、そのように差異こそが他性をなすのだ。しかしながら、多性を有する あらゆるものに偶有による差異があるとは思えないし、さらにどのような 差異でもよいわけでもない。単一の形相のように、中には偶有性を被るこ とがありえないものあるし、(両者が)まったく一致しないがゆえに、差 異ではなく多様性と言ってしかるべきものもある。これについては『形而 上学』第一〇巻で哲学者が述べている。したがって、他性はあらゆる多性 の原因なのではない。 しかしながら異論もある。一.ダマスケヌス(ダマスクスのヨアンネス) は、分割こそが数の原因であると述べている。しかしながら、分割は多様 性もしくは他性においてこそ成立する。したがって、多様性ないし他性 は、多性の原理なのである。 二.加えて、(セビーリャの)イシドルスは、数とは合図のごとしと述べ ている。それは区分(memeris)、すなわち分割の記号のことである。 後は先の議論と同様である。 三.加えて、多性は一性から退くことによってのみ成立する。しかしなが ら、一性から退くには分割による以外にない。『形而上学』第一〇巻で述 べているように、何かが一つであると言われるのは、分割されていないが ゆえであるからだ。したがって、分割は多性を成立させるのである。後は 先の議論と同様である。 # # # このテキストはボエティウスの『三位一体論』の注解となっているわけで すが、その『三位一体論』はトマスよりも前の世紀にかなり重要なテキス トとされていたようで、稲垣良典氏の解説(『トマス・アクィナス』講談 社学芸文庫版)によると、12世紀には20ほどの注釈書が残っているもの の、13世紀には注釈書はトマスくらいしか書いていないのだといいま す。この急速な人気の低下は、おそらくアリストテレス思想の本格流入が 関係しているのではないでしょうか。というのもこの『三位一体論』は、 松田禎二氏の解説(『中世思想原典集成14』平凡社)にあるように、ア リストテレスの理論学の区分を神学の位置づけに応用したものだからで す。ちなみに長倉久子氏によるトマスのテキスト全訳(『神秘と学知』創 文社)に、付録の形でこのボエティウスのテキストも全訳が収録されてい ます。 目下の問四は、そのボエティウス『三位一体論』第一章の次の一節に対す る注解という形になっています。「多性の原理は他性にある。他性がなけ れば、多性もそれが何か知りえない」(Principium enim pluralitatis alteritas est; praeter alteritatem enim nec pluralitas quid sit intellegi potest )。ちなみに原文はアクセル・ティスランの羅仏対訳本 (Flammarion刊)からのものです。 さて、今回の部分にはポルピュリオスへの言及も出てきました。その著書 『エイサゴーゲー』では、確かに偶有的な差異によって類から種が切り出 されるとされているのでした。ですがこのテーゼ五の議論は、多性はそれ に限定されないというのですから、おそらくは類同士の違いや個体レベル での違いなども見据えているということになりそうですね。単一の形相と いうのは、たとえば星辰などでしょう。類でありつつ種が一つしかないの が星辰とされますが、そういったものには確かに偶有性はありえません。 ダマスクスのヨアンネスも再登場ですね。底本にしている羅伊対訳本で も、また長倉訳のいずれでも、この箇所の引用は、前にも出てきた『正統 なる信仰について』からとされています。コッター版の第三部第5章とい うことですが、もとのギリシア語テキストではそうした部には分かれてい ません。対応するのは49章「自然の数について」のようですが、ここは 三位一体に関連してキリストの神と人との性質の両立を論じている箇所で す。キリストのような自然を超越したものにおいてのみ、二つの異なる性 質が「一」として定立しうるのだ、という議論が展開しますが、「数え上 げられるとしても、数が分割をもたらすのではない」(Dio kai arithmountai, kai ho arithmos ouk eisagei diairesin)とか、「数は分 割や一体化の原因をなすのではなく、数えられる対象の大きさを表す原因 をなす」(ho gar arithmos ou diaireseo^s e^ heno^seo^s aitios pephuken, alla te^s posote^tos to^n arithmoumeno^n se^matikos)とは述べられているものの、「分割が数の原因」としてい る箇所は見あたりません……。また、イシドルスの引用については、元の テキスト自体が不明のようです。うーん、悩ましいところですね。 memerisはギリシア語の「merizo^」(分割する)の派生形を転写したも のということです(長倉訳の注より)。 いよいよ次回からこの第一項のジンテーゼ部分です。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月15日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------