〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.140 2008/12/13 お知らせ: *本メルマガは原則隔週での発行ですが、年末年始はお休みとさせていた だき、次号は年明け1月10日の発行予定です。よろしくお願いいたしま す。 *本メルマガのバックナンバーページをリニューアルしました。新しい URLは「http://www.,medieviste.org/?page_id=46」です。137号以 降をまとめています。 ------文献探索シリーズ------------------------ 「単一知性論」を追う(その11) 単一知性論を追うこのシリーズではこれまで、ブラバンのシゲルスの議 論、トマス・アクィナスの反駁、アルベルトゥス・マグヌスの反駁、そし てアヴェロエスの議論などを少しずつかじってきました。で、前回の最後 のところでも触れたように、どうやらこの単一知性論をめぐる当時の議論 は、一枚岩ではとうていなく、様々な議論が混在していたらしいことが見 えてきました。 単一知性論に対して、アルベルトゥスに先立って苦言を呈した人物に、ボ ナヴェントゥラがいます。アルベルトゥスとほぼ同年代のフランシスコ会 士で、パリ大学の教授も務めた人物ですね。その講義録の一つに、1267 年の「十戒講義(collationes de decem praeceptis)」があり、ボナ ヴェントゥラはそこで、「哲学者たち」の過ちに警戒するよう学生に説い ています。ここではフランスの中世思想史家アラン・ド・リベラの解説文 から孫引きしておきましょう(しかも仏訳からの重訳(苦笑))。「哲学 的探求の軽率な推論から、世界が永遠であるとか、すべて<の人間>に単 一の知性が宿るとかいった哲学者たちの誤りが生じる。世界が永遠である とすると、それは聖書をすべて歪めることになり、神の子は受肉していな いという話に帰着する。すべて<の人間>に一つの知性しかないとする と、信仰の真理もなければ魂の救済もなく、戒律の遵守もなく、最悪の人 すら救済され、逆に良き人は劫罰を受けることにもなる」。 世界永遠説と単一知性論が抱き合わせになっていますが、それは置いてお くとして、ボナヴェントゥラのこの言い方に、教会側にとっての難点が要 約されているのが興味深いですね。個人差を前提としない「単一知性」な どというものを想定してしまうと、悪人も善人もいっしょくたになってし まうではないか、というのですが、すでに見てきたように、これではあま りに素朴というか、単純化した見方というか、単一知性論をかなり表面的 に受け取っている印象を受けます。実際には、「単一知性」を論じる側 は、アヴェロエスにせよ、ブラバンのシゲルスにせよ、個人差の問題をそ れなりにきちんと考えていたわけですし、そもそも「単一知性」自体がそ れなりに精緻な構造に位置づけられていて、信仰や救済をただちに全否定 するようなものでは決してなかったはずです。ボナヴェントゥラのこの物 言いは。あまり吟味もせずに、概要だけ眺めて反応している印象が強いで すね。 この引用を再録したリベラは、それに続けて、「単一知性論は個人の哲学 者が練り上げたテーゼではなく、あらゆる哲学的言説を彫琢した推論の帰 結だった」といったことを述べています。ですが、むしろ「単一知性論」 そのものが、思想内容として複線化していた印象も受けます。というか、 そもそも知性をめぐる議論自体が、実は論者によって千差万別だったりし ます。実際それは存在論やコスモロジーにも関係するので、立脚点が少し 変わるだけで、大きく隔たっていく印象もあります。こう言うとちょっと 語弊もありますが、ある意味でそれは、当時の最先端の哲学的議論として の「流行」が感じ取れるほどです(笑)。 フランソワ=グザヴィエ・ピュタラズの『13世紀の自己認識論』 (Putallaz, "La connaissance de soi au XIIIe siecle", Vrin, 1991)を もとに、そうした事例の一端を挙げてみましょう。前回もわずかながら言 及したペトルス・ヨハネス・オリヴィは独特の知性論を展開しているわけ ですが、そのベースをなしているのは、トマスのように感覚と知性の間に 感覚的像を中間物として認めたりせず、むしろ感覚与件は直接的に知性に よって認識されるのだする、反トマスの考え方でした。これはフランシス コ会に広く共有された考え方で、アウグスティヌスの思想を継承する立場 です。フランシスコ会のロジャー・マーストンなどは、そうした反トマス の政治的な動きの先鋒となり、能動知性が質料的なもの(可能知性や感覚 的像)に働きかけるという図式そのものを批判し、トマスに見られる人間 知性と第一質料との類比論の出所として、アヴェロエスをも非難します。 人間知性と第一質料との類比論というのは、要するにどちらも純粋な潜在 態(可能態)であるのだから、ほかの現実態による働きかけがなければそ もそも作動しないという考え方です。マーストンをはじめとするフランシ スコ会の論客たちは、むしろ質料の中に形相の萌芽のようなものがあり、 それが知解対象のスペキエスとして直接捉えられる、といった議論を展開 していくのですね。とはいえ、同じフランシスコ派でも、中庸派と言われ るアクアスパルタのマチューなどは、形相の萌芽のようなものが質料の中 にあるといった議論には反対していたりして、なかなか錯綜していること が窺えます。 一方、ドミニコ会側の周辺にも様々な動きが見られます。初期のトマス主 義者としてその世俗的普及に尽力したサットンのトマスなどは、上の人間 知性と第一質料の類比を再び前面に出し、フランシスコ会側の議論を批判 します。認識はあくまで感覚的像を介して行われるのであり、感覚的像を 基礎づけるのは魂と身体の存在論的な結合だ、と主張し、議論のある種の 精緻化を図ろうとしています。在俗の独立系アリストテレス主義と言われ るフォンテーヌのゴドフロワになると、サットンの議論に異を唱えてその 類比論を排し、知性はそれ自体すべからく現実態としてあると考えます。 知性は質料から分離した形相としてあり、その上で、他の形相や分離体を 知解対象として取り込むことができるというわけです。また、アルベル トゥス主義者とされるフライベルクのディートリヒは、知性論そのものを 抜本的に組み替え、理性的認識(従来型の形相の把握)と知的認識とを区 別します。この後者は、外的な要素をまったくもたない単一的な認識形態 であるとされ、神的・能動知性的(分離した)な認識にもなぞらえられる のですが、興味深いことに、どうやらその認識の区別は純粋に機能的な区 別になっているようです。知解対象と知性の関係も逆転し、知性が知解対 象を成立させるという図式になるのですね。さらにディートリヒは、人間 知性(可能知性)は概念的存在として見た場合に限り、人間に共通するも の、すなわち普遍的なものとして「単一」である、という議論にまで進ん でいくようです(あくまで限定つきなのがミソでしょうか)。 ここでは大まかにまとめてしまいましたが、各人の立場は実際のところ もっと細やかで多彩です。そのあたり、個別に詳細に検証していったらと ても面白そうですが、ここではその余裕はありませんし、まだ取りかかる 準備もできていません。ということで、それは今後に取っておくしかない のですが、いずれにしても、各論者が属する会派・学派によって相当に ニュアンスや立場の異なる議論があり、多数の見解が提示されていたこと は、上のまとめからでも伺い知れると思います。そうしてみると、もはや 単一知性論というよりも、知性論全般の広がりという観点でもって、13 世紀の知的風景を見直してみたくなってきます。また、単一知性論につい ても、アラブ思想からトマス以後のはるか後代にまで、より広い文脈から 位置づけなおす作業も必要かと思われますが、それも一朝一夕にはいきま せんので、将来の課題とするしかありません。 # # # さて、以上で単一知性論をめぐるこの小旅行は一区切りとしたいと思いま す。年明け後は、また新たな短期連載シリーズを始めたいと考えていま す。今年の春にフランスで刊行された賛否両論の問題の書があるのです が、それを手がかりに、西欧中世においてギリシア思想の伝統は本当に いったん途絶えたのかという問題を少しばかり見直してみたいと思ってい ます。お楽しみに。 ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの個体化論を読む(その5) 『ボエティウス「三位一体論」注解』から、問四第一項を読んでいます。 今回はトマスの解答の後半部分です。さっそく見ていきましょう。 # # # Sic ergo patet quod prima pluralitatis uel diuisionis ratio siue principium est ex negatione et affirmatione, ut talis ordo originis pluralitatis intelligatur, quod primo sint intelligenda ens et non ens, ex quibus ipsa prima diuisa constituuntur, ac per hoc plura; unde sicut post ens in quantum est indiuisum statim inuenitur unum, ita post diuisionem entis et non entis statim inuenitur pluralitas pri(m) orum simplicium. / Hanc autem pluralitatem consequitur ratio diuersitatis, secundum quod manet in ea sue cause uirtus, scilicet oppositionis entis et non entis: ideo enim unum plurium diuersum dicitur alteri comparatum, quia non est illud; et quia causa secunda non producit effectum nisi per uirtutem cause prime, ideo pluralitas primorum non facit diuisionem et pluralitatem in secundis compositis nisi in quantum manet in ea uis oppositionis prime, que est inter ens et non ens, ex qua habet rationem diuersitatis. / Et sic diuersitas primorum facit pluralitatem secundorum. Et secudum hoc uerum est quod Boetius dicit, quod alteritas est principium pluralitatis: ex hoc enim alteritas in aliquibus inuenitur, quod eis diuersa insunt; quamuis autem diuisio precedat pluralitatem priorum, non tamen diuersitas, quia diuisio non requirit utrumque condiuisorum esse ens, cum sit diuisio per affermationem et negationem, set diusersitas requirit utrumque esse ens, unde presupponit pluralitatem; unde nullo modo potest esse quod pluralitatis primorum causa sit diuersitas, nisi diuersitas pro diuisione sumatur. Loquitur ergo Boetius de pluralitate compositorum. Quod patet ex hoc quod inducit probationem de his que sunt diusersa genere uel specie uel numero, quod non est nisi compositorum: omne enim quod est in genere oportet esse compositum ex genere et differentia. Eos autem qui ponunt Patrem et Filium inequales deos sequitur compositio saltem ratione, in quantum ponunt eos conuenire in hoc quod sunt deus et defferre in hoc quod sunt inequales. このような次第で、多性または分割の第一の理由ないし原理が、否定と肯 定に由来するのは明らかである。すると次のような、多性の起源をなす秩 序が理解される。つまり、まずは存在と非存在とが理解されなくてはなら ず、それによって第一の分割物が構成され、そこから多が生じるというわ けである。かくして、分割されない限りでの存在者の後に一者がただちに 見いだされるように、存在と非存在の分割の後には、先行する(原初の) 単体の多性がただちに見いだされるのである。/ しかるに、多性の中にみずからの力の原因、すなわち存在と非存在の対立 が存続する限りにおいて、そうした多性は多様性(=相異)の道理に即し て生ずる。ゆえに、多の一つが別のものと比較されるとき、それは多様で あると(=相異すると)言われる。なぜなら、それは(この場合の)「別 のもの」ではないからだ。また、二次的な原因が結果を生むのは、第一の 原因の力によるほかないのだから、第一のものの多性が第二の複合体の分 割や多性をもたらすのは、第二のものの中に第一の対立の力がとどまって いるからにほかならない。それは存在と非存在との間にあり、それにより 多様性の道理を有することになる。/ このように、第一のものの多様性(=相異)が第二のものの多性をもたら すのである。また、これにもとづく限り、ボエティウスが「他性は多性の 原理である」と述べたことも正しい。すなわち、他性が何かに見いだされ るのは、そこに多様性が内在しているからである。しかしながら、分割は 第一のものの多性に先立つが、多様性は(多性に)先立ってはいない。な ぜかというと、肯定と否定での分割では、相互に分割される双方が存在者 であることは必要とされないが、多様性の場合には、いずれもが存在者で あることが必要とされ、ゆえに多様性は多性を前提とするからである。ゆ えに、多様性が第一のものの多性の原因となるのは、多様性が分割の意味 に受け止められる場合のみである。 このように、ボエティウスは複合体の多性について語っているのである。 このことから、ボエティウスが類的、種的、数的(=個的)な多様性とは 何であるかの論証を導いていること、そうした多様性が複合体以外にはな いということは明らかである。すなわち、類に属するものはすべて類とそ の種差から構成されていなくてはならないのだ。一方、父と子を同等では ない神々と見なす人々は、父も子も神だとする点では一致し、両者が同等 ではないとする点では異なる限りにおいて、そこには少なくとも推論上の 複合が見られるのである。 # # # ここでは便宜的に、pluralitasを多性、diversitasを多様性、alteritasを 他性と訳していますが、diversitasなどはむしろ相異性としたほうがよ かったかもしれません(長倉訳では別異性とされています)。全体のポイ ントとなるのは多性の成立プロセスですね。まず存在・非存在の分割(区 別)があり、それに続いて今度は存在するものの分割(区別)が問題にな ります。前者の分割は後者の分割に先行し、後者を導くわけで、その意味 で最初の分割の力は、後者の分割にも及んでいると見ることもできます。 で、その結果として多性が成立するわけですが、この後者の分割では、相 互の区別のために多様性(差異)がなくてはならず、区別された同士は結 果的に他性をもつということになります。こうして、多性の成立には多様 性(とそれに付随する他性)が前提されることになります。これで各用語 の布置が出そろう次第です。 トマスはボエティウスの「多性の原理は他性である」という一文につい て、そこでの他性(つまり表裏としての多様性)を分割(第二の分割・区 別)の意味で解釈しています。最後の段落で言う「複合」 (compositio)は、その第二の分割を経たもの、つまりは実体、被造物 を指していると思われます。「父と子を同等ではない神々と見なす人々」 というのは、ボエティウスのもとの一文がアリウス派の誤謬を指摘する文 脈で出てくるので、文脈上はアリウス派のことを指していると思われるの ですが、アリウス派は実際にはキリストの神性を認めない立場だったはず で、ちょっとこのあたり、釈然としませんね。いずにれしても、そういう 人々は、三位一体の議論を、被造物にのみあてはまる推論で複合と考えて いる点が問題だ、ということだろうと思われます。 さて、前回、トマスの考える発出論はアヴィセンナなどのものとは別だ、 という話に触れましたけれど、どうやらトマスがベースにしているのは、 以前にも取り上げた偽ディオニュシオス・アレオパギテス文書らしいこと が見えてきました。偽ディオニュシオスとトマスの影響関係についての数 少ない研究書の一つに、フラン・オルークの『偽ディオニュシオスとトマ スの形而上学』(F. O'Rourke, "Pseudo-Dionysius and the metaphysics of Aquinas", Univ. of Notre Dame Press, 1992-2005)というのがあります。 同書は前半は主にトマスの偽ディオニュシオス文書の注解を取り上げ、後 半になるとトマスの存在論やコスモロジーと、偽ディオニュシオス文書の 影響・照応関係などについて詳細に論じています。この後半はなかなか読 み応えもあり、いくつか興味深い指摘もあります。たとえば、トマスが偽 ディオニュシオス経由で、新プラトン主義的な言い方でもって創造を発出 として定義していることや、プロティノスやプロクロスが唱える発出論で は、被造物における創造主の原因性は階層にしたがって漸減していくとさ れるのに対し、偽ディオニュシオスやトマスの考える発出論(創造論)で は、あらゆる被造物は神により一挙に直接的に現実化するとされることな どです。神は完全なる善であり、そこから分け与えられる善もまた漸減な どはしない、というわけですね。複数性の源泉として「一」性を重く見る 点にかけては、トマスは偽ディオニュシオス以上に厳密にプラトン主義的 だとも述べています。 なるほど、アリストテレス思想との関連が言及されることの多いトマスで すが、トマスのもとへと流れ込んでいる新プラトン主義にももっと目を向 けてもよいのかもしれませんね。 さて年内は今号までです。今年も一年間、ありがとうございました。来年 もどうぞよろしくお願いします。冒頭でもお伝えしましたが、年末年始を はさむため、次号は1月10日の予定です。引き続き、トマスのテキストを 読んでいきたいと思います。それでは皆様、ちょっと早いですが(笑)、 よいお年をお迎えください。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------