〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.141 2009/01/10 *明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 今年もぼちぼちと中世思想圏をめぐっていきたいと思います。早速で恐縮 ですが、今号は年頭のウォーミングアップという感じでやや短めです。 ------文献探索シリーズ------------------------ ギリシア思想は途絶えたのか(その1) 〜グーゲンハイム本が投げかける問い 2008年の春先にフランスで刊行されたシルヴァン・グーゲンハイムの 『モン・サン=ミッシェルのアリストテレス』(Sylvain Gouguenheim, "Aristote au Mont Saint-Michel - Les racines grecques de l'Europe chretienne", Seuil, 2008)という本は、フランスの歴史関係者の間です ぐに大きな波紋を呼んだようです。それは同書が、アラブ世界(イスラム 圏)についての理解を、ある種のイデオロギーでもって歪曲しているとさ れたからです。「イスラム圏は偏狭で、実はギリシアの思想的遺産の伝達 にはさほど貢献してはいない」と論じたのですね。これではまるで、アラ ブ世界に花開いた豊かな思想的伝統の存在すらも無視するかのようで、確 かにとてもすぐには承服できそうにありません。同書の論調の背景には、 EUへのトルコの加盟の是非をめぐる政治的な議論もある、みたいな話も 聞こえてきます。実際アマゾンフランスなどの書評では、「イデオロギー だ、歴史修正主義だ」との酷評も目立ちます(当然ながら、よくぞ言った と諸手を挙げている評価もありますが)。でも、それはさておき、同書は もう一つ、ある忘れられた歴史観の再考という問題を投げかけています。 古代末期から中世にかけての一時期、西欧圏ではいったんアリストテレス などのギリシア思想の普及が途絶え、後にアラビア経由で再発見されたと いうのが現在の定説になっているわけですが、グーゲンハイムの同書は、 ギリシア思想はヨーロッパのキリスト教文化にしっかりと根を下ろし脈々 と息づいてきたのだという見方を提示します(「キリスト教ヨーロッパの ギリシアの根」という副題からもそれは窺えます)。現在の定説よりもさ らに以前には当然のごとく見なされていた歴史観です。いわば先祖返りと いうわけなのですが、学問的な営為としては、それをもう一度検討しなお そうという姿勢自体は悪くないとも言えそうです。ただ、同書が随所にみ せるイスラム圏への偏見のせいで、ギリシア思想のヨーロッパ内部での継 承を論じた部分も、それなりに差し引いて考えなくてはならない印象を与 えています。 とはいえ、翻ってみれば、ギリシア思想圏と初期ラテン中世との関係とい う主題が、主に西欧を扱う歴史研究上の盲点のようになっている、あるい は軽視されているというのは、確かに一面で当たっているとも言えます。 そのあたりの再考を促しているという意味で、グーゲンハイム本を単なる 挑発と見なして斥けてしまうのはちょっと惜しい気がします。仮にイデオ ロギー的な偏りがあったとして、それに翻弄されないためには、読み手の こちら側もそれなりの知見を蓄えておかなくてはならないでしょう。あま り詳しく知らないことに関しては、一方的な言説であってもそうと知らず に、ついつい鵜呑みにしてしまいがちだったりしますからね。それを戒め る意味も込めて、ここでも数回にわたり、ギリシア思想の伝統のヨーロッ パ文化圏内部での受容・継承問題をさらっていこうと思います。 まず、グーゲンハイムが示す議論の図式ないし大枠をまとめておくと、次 のようになりそうです。「ローマ帝国の没落後、古代の知は確かに忘却さ れかかったものの、8世紀から9世紀にかけてビザンツで古代知の再評価 の動きがあり、さらにカロリンガ・ルネサンスにおいて西欧にも同じ関心 の高まりがあった。そうした探求に呼応する形で、ビザンツから、特にイ タリア南部やシリアを経由する形での古代知の流入(具体的には翻訳)が 見られた」。押さえておかなくてはならないポイントとして(1)ビザン ツや初期中世にあって、ギリシア思想への関心は実際に高かったのか、 (2)イタリアなど、ビザンツと西欧との人的交流・物的流通(写本な ど)は実際のところどうだったのか、(3)シリアのキリスト教徒たちは 知の普及にどう貢献したのか、などが挙げられます。ここではそれらの問 題について基本的なところの知見を拾い集め、整理してみたいと思いま す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの個体化論を読む(その6) 『ボエティウス「三位一体論」注解』の問四第一項の末尾部分です。早速 見ていきましょう。 # # # 1. Ad primum ergo dicendum. quod numerus ex uerbis illis ostenditur esse prior rebus aliis creatis, ut elemetis et aliis huismodi, non autem aliis intentionibus, utpote affirmatione et negatione, aut diuisione uel aliis huismodi. Nec tamen quilibet numerus est prior omnibus rebus creatis, set numerus qui est exemplar omnis rei, scilicet ipse Deus, qui secundum Agustinum est numems omni rei speciem prebens. 2. Ad secundum dicendum, quod pluralitas communiter loquendo immediate sequitur ens, non tamen oportet quod omnis pluralitas; et ideo non est inconueniens si pluralitas secundorum causetur ex diuersitate primorum. 3. Ad tertium dicendum, quod sicut unum et multa, ita idem et diuersum non sunt propria unius generis, set sunt quasi passiones entis in quantum est ens; et ideo non est incoueniens si aliquorum diuersitas aliorum pluralitatem causet. 4. Ad quartum dicendum, quod omnem diuersitatem precedit aliqua pluralitas, set non omnem pluralitatem precedit diuersitas set aliquam pluralitatem aliqua diuersitas. Vnde et utrumque uerum est, scilicet quod multitudo diuersitatem faciat communiter loquendo ut Philosophos dicit, et quod diuersitas in compositis faciat pluralitatem ut Boetius hic dicit. 5. Ad quintum dicendum, quod Boetius accepit alteritatem pro diuersitate constituitur ex aliquibus differentiis, siue sint accidentales siue substantiales. Illa uero que sunt diuersa et non differentia sunt prima; de quibus hic Boetius non loquitur. 一.第一点についてはこう述べなくてはならない。この議論から示される のは、数が元素やその種のものなど、他の被造物には先行するものの、肯 定や否定、あるいは分割やその種のもののような他の概念に先行するわけ ではないということである。しかしながら、いかなる数も他のすべての被 造物に先行するというわけではなく、すべてに先行する数はあらゆる事物 の模範となるもの、すなわち神そのものなのだ。アウグスティヌスによれ ば、それはすべての事物に形象を与える数である。 二.第二点についてはこう述べなくてはならない。一般的な意味での多性 は、存在するものに直接的に付随する。ただしすべての多性がそうである 必要はない。したがって、第一の相異から第二の多性が生じても不都合は ない。 三.第三点についてはこう述べなくてはならない。一と多のように、同一 と相異も一つの類に属するのではなく、存在するものが、存在する限りに おいて被るものに近い。したがって、なんらかの相異がなんらかの多性を 生じさせても不都合はない。 四.第四点についてはこう述べなくてはならない。あらゆる相異には先行 するなんらかの多性があるが、あらゆる多性に先行する相異があるわけで はなく、あくまでなんらかの多性になんらかの相異が先行するのである。 ゆえに次のいずれもが真となる。つまり、哲学者が言うように、一般的な 意味で複数性は相異をもたらすし、ボエティウスがここで述べているよう に、複合体の相異は多性をもたらすのである。 五.第五点についてはこう述べなくてはならない。ボエティウスは他性を 相異の意味に取っており、偶有的なものにせよ実体的なものにせよ、その 相異はなんらかの差異から成立するとしている。確かに相異でありながら 差異ではないものこそ第一のものだが、ボエティウスはここでそれについ て述べているのではない。 # # # 今回の箇所は、第一項の冒頭部分で言及された異論への応答です。どうい う異論だったかを要点のみまとめておくと、(1)多性ないし数こそが第 一である、(2)多性に先立つものは存在である、(3)他性(相異)は 多性の原因ではない、(4)多性もしくは複数性が他性(相異)の原因で ある、(5)他性はすべての多性の原因とはなりえない、というものでし た。これらに対してトマスは、分割こそが数の原因をなし、また多性を構 成するのだとし、その上で、分割の原因をなすものは、複合的なものの場 合にはそれに先立つ単純なものの相異だとし、また単純なものの場合に は、「肯定・否定(存在・非存在)」というその単純なもの自体の成立基 盤であると論じていたのでした。 単純なものの「肯定・否定」の根源的な分割(差異)こそが、最初の多性 として相異(diuersitas)をもたらし、続く複合体の分割にも力を及ぼす のだ、というのが話の流れでした。複合体に関するより詳細な議論は、続 く第二項の中心テーマになるので、そのときに見るとして、とりあえずこ こで重要なのは「単純なもの」についてでしょう。トマスの議論では「単 純形相」(純粋な形相?)と表現されていますが、それは物体に先行する 原理的なもの(長倉氏の解説によると)のこととされます。複合体が構成 される前の大元の形相で、その形相同士にすでにして差異があるというわ けです。一つの形相が成立するということはその形相の「肯定」ですし、 ほかの形相ではないことが「否定」を意味する、ということになるわけで すね。肯定と否定は表裏一体であり、単純形相と言われるものはすでにし て多をなしているのですね。 で、そういう肯定や否定に与らない唯一のもの、それは神以外にないとい うことになります。上の本文でアウグスティヌスへの言及がありますが、 これは『善の本性について(De natura boni)』の三章への言及だと注 釈されています。そこでは、神が様態(modus)、形象(species)、秩 序(ordo)をもたらす根源であると書かれていますが、「数」というふ うには記されていません。伊訳本の注釈では、『創世記逐語注解』四巻三 節の参照を促しているので、そちらを見てみると、創世記冒頭との関連で 「6」が完全数であることを論じた部分になっています。その箇所に 「1」は分割もできない真の単一なるものであるという一節があります。 トマスのこの言及には、それらが複合的に示唆されているようです。 いずれにしても、究極の一(神)以外はあまねく多として創造される(あ るいは流出する)、「多」が事物の成立基盤として内在する、というトマ スによる一と多の関係は押さえておきたいポイントだと思われます。する と今度は、複合体の場合にそれがどのように連関していくのかという点も 気になってきます。 とまあ、そのあたりも念頭に、引き続き『ボエティウス「三位一体論」注 解』から問四の第二項を読んでいきたいと思います。今回はこれまでの簡 単なまとめのようになってしまいましたが、次回からはまた気分も新たに 取りかかることにいたします。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は01月24日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------