〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.145 2009/03/07 ------文献探索シリーズ------------------------ ギリシア思想は途絶えたのか(その5) 〜アイルランドの学僧たち グーゲンハイム本のタイトルにもなっている12世紀のアリストテレスの 翻訳者、ヴェネツィアのジャコモですが(前回も少し触れましたが)、で はそのグーゲンハイム本は最新の知見を示しているのでしょうか。どうも そうではなく、ジャコモに関する同書の知見はいずれもミニオ=パウエロ というイタリア人研究者によるいくつかの論文がもとになっているようで す。で、それらは1950年から70年代初頭にかけて書かれたものなのです ね。それ以後の研究はどうなっているのでしょうか。同書からだけでは伺 い知ることができません。あるいは空白になっているのかもしれません。 同書は学術書というより一般向けという感じもするのですが、それでもや はり読者の側は最新の知見や、なんらかの独自研究を期待してしまいま す。とはいえ、埋もれていたそういう研究を掘り起こして光を当て直すこ とにも意味がないわけではありません。それに触発されて何か新しい知見 が出てくるかもしれませんからね。最近刊行が続いている岩波書店の 「ヨーロッパの中世」シリーズの1巻目、佐藤彰一『中世世界とは何か』 でも、「新説は提示されたばかりであり、今後どのような展開を見せるか はいまだ判然としないが、注目すべき問題提起である」と述べています。 佐藤氏の同書は、グーゲンハイム本を紹介する直前の箇所で、アイルラン ドの学僧セドゥリウス・スコトゥスを挙げています。848年以降いきなり 「ギリシア古典の博識をちりばめた著作を次々に著し」たという人物です が、著作にはアリストテレスの『範疇論』の注解などがあるのですね。文 法学者・文献学者としての功績もあるといい、その素性など詳しいことは 不明のようですがちょっと興味をそそる人物です。セドゥリコス・スコ トゥスについては、たとえばトマス・カヒル(ケイヒル)『聖者と学僧の 島』(青土社)などでも取り上げています。こちらもアイルランドにおけ る初期中世までの学僧らの動向を一般向けに語った好著ですね(アイルラ ンドを過度に称揚しているという批判もあったようですが……)。同書で はセドゥリコスが書写した三つの手稿が紹介されています。パリのアルス ナル図書館所蔵の「詩篇」、サン・ドニのラテン語訳付きギリシア語福音 書、ドレスデンのこれまたラテン語付きの「パウロ書簡」です。ギリシア 語を解していた、あるいはその言葉に取り組んでいたことの証左です。 初期中世において古典的素養をもった著名なアイルランド系の学僧とくれ ば、シャルルマーニュの宮廷で学芸顧問となったアルクイン(アルクイヌ ス)を挙げないわけにはいきません。佐藤本のほうで紹介されている799 年のシャルルマーニュ宛て書簡の一節には、大帝が学問的関心に向けて邁 進すれば、新しいアテネが創られるだろう、とあります。実際にシャルル マーニュは学問復興を手がけるわけですが(カロリンガ・ルネサンス)、 この書簡にアテネやプラトンのアカデメイアが言及されているところに、 アルクインの高い素養が窺える、という次第です。一方でアルクインのギ リシア語能力はそれほど高いものではなかったとも記されています。 カロリンガ・ルネサンス関連で、忘れてはならないギリシア語の使い手と してヨハネス・スコトゥス・エリウゲナがいます。シャルルマーニュでは なく、シャルル1世禿頭王の宮廷学校で教鞭を執った人物で、カヒル本に よると、当時ギリシア語に堪能として有名だったのは、彼のほかはローマ 教皇の司書アナスタシウスくらいだったといいます。エリウゲナは主著 『自然について』(ペリピュセオン)を著しているほか、ギリシア教父の 再発見という文脈でも重要な人物で、偽ディオニュシオス・アレオパギテ ス文書のほか、マクシモスやニュッサのグレゴリオスなどの著作の翻訳ま たは注解を手がけています。 このように、アイルランド系の学僧たちは古典的素養を身につけていたと いうわけなのですが、ではそれはいかにして可能だったのでしょうか?カ ヒル本では、大陸が文化的に荒廃した5世紀から6世紀にかけて、写本の 流通を手がけていたのは主に大陸を渡り歩いていたアイルランド系の修道 士たちだったといい、アイルランド自体もまた平和で、写本の製作も盛ん に行われていたと記しています。そのあたりの詳しい事情については手元 にめぼしい資料がないのですが、おそらく多くの研究がなされているもの と思われます。上のエリウゲナやセドゥリウスのテキストなどとも合わ せ、個人的にも今後の課題としてもう少し探ってみたいところです。中世 初期のギリシア語受容を探るとなれば、やはりそのあたりは外せないと思 われます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの個体化論を読む(その10) 『ボエティウス「三位一体論」注解』の問四第二項を読んでいますが、都 合により今回はやや少なめです。では、さっそく見ていきましょう。 # # # Non autem materia ex omni parte recipit equaliter similitudinem primi actus, set a quibusdam imperfecte, a quibusdam uero perfectius; utpote quedam participant diuinam similitudinem secundum hoc tantum quod subsistunt, quedam uero secundum quod uiuunt, quedam uero secundum quod cognoscunt, quedam secundum quod intelligunt. Ipsa igitur similitudo primi actus in quacumque materia existens est forma eius; set forma talis in quibusdam facit esse tantum, in quibusdam esse et uiuere, et sic de aliis, una et eadem; similitudo enim perficior habet omne illud quod habet similitudo minus perfecta, et adhuc amplius. / Aliquid ergo inuenitur commune in utraque similitudine, quod in una substernitur imperfectioni, et in alia perfectioni; sicut materia substernebatur actui et priuationi; et ideo materia simul accepta cum hoc communi est adhuc materialis respectu perfectionis et imperfectionis predicte. Et ex hoc materiali sumitur genus, differentie uero ex prefectione et imperfectione predicta; sicut ex hoc communi materiali quod est habere uitam sumitur hoc genus 'animatum corpus', ex perfectione uero superaddita hec differentia 'sensibile', ex imperfectione uero hec differentia 'insensibile'; et sic diuersitas talium materialium inducit diuersitatem generis, sicut 'animal' a 'planta'. Et propter hoc dicitur materia esse principium diuersitatis secundum genus; et eadem ratione forma est principium diuersitatis secundum speciem: quia a predictis formalibus, que habent ad dicta materialia unde genera sumuntur comparationem forme ad materiam, sumuntur differentie que constituunt species. しかるに、質料はすべての部分において等しく第一の現実態の類似性を受 け取るわけではなく、ある部分では不完全に、ある部分では完全に受け取 る。すなわち、存続する限りにおいて神との類似性に与るものもあれば、 生きる限りにおいて与るものもあるし、認識するかぎりにおいて与るもの もあれば、知解する限りにおいて与るものもある。したがって、いかなる 質料であろうと、そこに存する第一の現実態とのみずからの類似性とは、 その形相のことを言うのである。ただしそうした形相は、あるものには存 在をもたらし、あるものには存在と生命をもたらすなど、その他のものに ついても同様だが、(いずれにせよ)同じ一つの形相である。というの も、より完全な類似性は、より小さな完全性をもつ類似性をすべてもちあ わせ、さらに多くをもつからである。/ どちらの類似性にも共通するものがあることも見てとれる。質料が現実態 とその欠如とに委ねられるように、それは一方では不完全性に、もう一方 では完全性に委ねられる。したがって、この共通するものと同時に把握さ れる質料は、それぞれ上述の完全性・不完全性における質料的なものとい うことになる。そしてこの質料的なものから類が得られ、種差は上述の完 全性と不完全性から得られるのである。たとえば、「生命をもつ」という 共通する質料的なものから「魂をもった物体」(という類)が得られ、付 加的な完全性から「感覚的」という種差が、不完全性から「非感覚的」と いう種差がもたらされる。このように質料的なものの相異から、「動物」 「植物」が区別されるような類の相異が導かれる。ゆえに、質料は類にお ける相異の原理なのだと言われるのである。また同じ理由から、形相は類 における相異の原理とされる。というのも、上述の形相的なものは、類が 得られるとされる質料的なものに対して、質料に対する形相の関係にあ り、そこから種を構成する種差が得られるからである。 # # # 今回の箇所は一つの段落を便宜的に二つに分けています。質料から類の区 分がもたらされるという前回の話に続き、今回の箇所では、それに完全 性・不完全性の度合いが加わり類の区分が精緻化するという話になってい ます。さらにそれとの類比でもって、種の区分についても末尾で示唆され ています。このあたりはトマスの『存在するものと本質について』にも呼 応する議論ですね。そちらでも、たとえばその二章では、非限定・限定 (indeterminatio/determinatio)というキーワードで類と種の関係が説 明されています。類自体は非限定的なものであり、それに種差が付加され ることによって種が限定されるというわけです。 トマスのこうした議論のおおもととして、ポルピュリオスの『エイサゴー ゲー』があります。類を切り出す対立項として挙げられている「属性」な ども重なっています。たとえば「魂をもつ/もたない」「感覚をもつ/も たない」といった対立が「動物」という類を成立させる区分とされ、「死 ぬ/不死」「理性がある/ない」がその動物の下位区分(人間など)をも たらすとされています。また、事物は形相と質料から成るが、同じく「人 間」の場合も、類は質料に、種は形相に類比的に対応する、とも述べてい ます(第三章)。トマスはおそらくボエティウスの『イサゴーゲー注解』 あたりを参照しているのでしょう。ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』 での議論は厳密に論理学的で、類と種が質料・形相に対応するという関係 もあくまで類比的なものだとしていますが、上のトマスの議論は、質料的 なものから類や種がどう切り出されるかを論じていて、はるかに形而上学 的です。類似性を受け取る際の完全性・不完全性という議論自体も新プラ トン主義的(プロティノス的)です。 トマスが注解するボエティウスのもとのテキストは、「同一である」とい う場合に三つの意味的な区分があるとし、それぞれ類における同一、種に おける同一、数の上での同一と分けているのでした。そちらも論理学的な 区分であるように思われ、トマスが展開するような形而上学的な区分では ない印象を受けます。以前にも触れましたが、トマスに見られるような論 理学と形而上学(あるいは自然学)とが交錯する議論は、やはり13世紀 ごろから顕著になっていく印象です。アリストテレスの『自然学』『形而 上学』などの流入が大きな転換点になっているのでしょうね。実はトマス のテキストはこのあと、この論理学と形而上学・自然学の交錯そのものに も言及していきます。次回はそのあたりを読んでいきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月21日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------